1時間で息絶える話「すきだからつきあってほしい」
酒に酔った真っ赤な顔で、呂律の回っていない舌ったらずな声だったが、それは間違いなく告白の言葉だった。いくらこの手のことに鈍いロナルドでも勘違いしようがないほど、真っ直ぐな言葉だった。
だから、ロナルドは。ならばもうあと一時間でこいつとの付き合いも終わるのかと、二日酔いにも似た胸の痛みに顔をしかめた。
「おい、きいているのかばかるどぉ! へんじぐらいせんか、ばかめぇ……」
「あーはいはい聞いてる聞いてる」
ぐいぐいと頬擦りせんばかりに密着してくる半田に水の入ったグラスを押し付けてやると、わりあい素直に受け取ってくれた。やはり、だいぶ酔っている。今日はやたら酒のペースが早いとは思っていたのだが、今の半田は完全に出来上がっていた。そうでなければロナルドの肩に頭を預けて、甘ったれた声で告白してくるなんてとんでもない行為を半田がしでかすはずがないのだ。
ああ、本当にとんでもないことをしてくれやがったな馬鹿野郎。苦いものが喉元まで迫り上がってくる。壁を隔てた外の、居酒屋の喧騒がひどく恋しい。こんな狭い部屋で、こんなぴったり引っ付いた状態で告白なんぞされてみろ。平常心を保っていられるわけがない。
今すぐ店員さんがやって来てこの空気をぶち壊してくれたらいいのに。いや、いっそ自分から酒でも注文すればいいのか。しかし、衝動的に呼び鈴を押そうとした腕を、半田の手が繋ぎ止めた。
「おい。へんじは」
「ちょ、分かったから一旦グラス置けや! って、ああー……」
見るも無惨に濡れたジーンズに頭を抱える。酒ではないだけまだマシだが、右の太腿がほぼ全滅したせいでちょっと寒い。慌てておしぼりで応急処置を施すロナルドを、当の犯人は不満そうな顔で睨みつけた。
「なぜへんじをしない。いいかぁろなるろぉ、ひとのはなしにへんじをするのはなぁー、ようちえんじでもできることだ。つまりいまのきさまはようちえんじいかだ! きいているのかろなるろぉ!」
「今のオメーも幼稚園児以下だろ! あークソ、さみぃ……」
「へんじをしないからばちがあたったのだ、ぶざまだな」
「言ってろバーカ。お前、マジで明日記憶が残ってても知らねぇからな」
頭の悪い会話をぽんぽんと交わす。このぬるま湯みたいな空気がいつまでも続けばいいと思っていた。ロナルドのことを馬鹿にするときに爛々と瞳を輝かせるところも、めちゃくちゃむかつくけれど、こいつだからしょうがないなとも思う。多分、こういう湿度の高い感情を恋とか愛とか呼んでしまえたなら、自分はもっと楽に生きることができるのだろう。
けれど、それだけはしたくない。
自分の胸の中にある、ふわふわしているくせにやたら質量の大きな感情に名前を与えたところで何になるのだろう。例えば、これを恋だの愛だの呼ぶとして。恋しているから、愛しているから付き合うことになるとして、付き合ってしまえば、あとはもう終わるだけじゃないか。
なにせロナルドはことに恋愛に関してとことん自信がない。というか、はっきり言ってまるで適性が無かった。何せ初めてできた彼女に一時間で振られた人間だ。しかもロナルド自身には何故振られたのか未だに理由が分かっていないからなおのこと絶望的だった。もし振られた理由が分かっていれば改善のしようもあっただろうが、分からないものを治せるはずもない。だからロナルドは今でも一時間で振られる残念な人間のままだ。
改めて、右肩に引っ付いてくる男の横顔を見つめる。高校時代から変わらない顔。いや、成人してから多少輪郭が削げて大人びた感じになったけれど、表情自体はちっとも変わらない。半田がずっと変わらないでいてくれることが、そのままロナルドの中でこの時間がこれからも続くことを保証してくれていた。
半田は変わらない。大人になっても相変わらず馬鹿みたいな嫌がらせに熱中する、どうしようもない悪友のままでいてくれる。だからロナルドも安心して変わらずにいられた。自分の中の感情と向き合わないまま、心地良い青春の続きに浸っていられたのに。
このまま無言のままでいれば、さっきの告白を無かったことにできないだろうか。そんな都合の良すぎる願望を込めて半田の顔を見つめていると、酔って蕩けた目が不満げに細くなった。
「おい。へんじをしろ」
「……嫌だ」
「なぜだ。こくはくがいやならことわればいい」
「そういう問題じゃねぇ。そもそも返事したくないんだよ、分かれよ馬鹿」
付き合いたくない。今の心地良い関係を変えたくない。終わりたくない。なのに半田を突き放す勇気の出ない自分に嫌気が差す。
「ことわらないならつきあえ」
「やなこった。ほら、お前もう眠いだろ。寮まで送るから寝ちまえよ」
「おことわりだばかめぇ!」
「ウワーッ急に暴れんな! 何!? イヤイヤ期が来たの桃ちゃん!?」
寝かしつけようとした途端に全力で抵抗し始めた二十代男性職業公務員にちょっと引いた。どれだけ宥めても頑なに返事を聞くまで帰らないと徹底抗戦の構えである。年甲斐もなく駄々を捏ねるのも辞さない構えとは恐れ入るが、一体何をそんなに必死になっているのだろうか。
いくら説得しても聞き入れてくれない酔っ払いに、ロナルドはだんだん泣きたくなってきた。何故これだけ言っても折れてくれないのだろう。こんな自分なんかにみっともなく縋り付いて、そこまでしてお付き合いとやらがしたいのか。今までずっと積み重ねてきた日々を壊してまで、お前はどうして。
だからとうとう、ロナルドはやけになって言ってしまった。
「付き合っても、どうせ一時間で終わっちまうだろ。だから嫌だ」
ロナルドの高校時代の知り合いで、一時間、と聞いて件のエピソードに思い当たらない人間はいないだろう。特に目の前の男はカメ谷と一緒になって率先して話を吹聴して回った奴なのでピンとこないはずがない。
なのに半田は、一瞬だけきょとんと目を丸くした。びっくりした猫みたいな顔で首を傾げて、黙り込むこと数秒。
「ばかか?」
「ストレートな罵倒腹立つなチクショー! 言っとくけど俺はなぁ! これでも真剣に悩んで、 へ、」
ふと目の前に影が差した、と思った矢先。茹だる様なアルコール臭のする吐息が頬にかかった。見開いた視界で、茹で蛸みたいに赤く染まった半田の顔がどこまでも近付いて、頭の中が真っ白になって。
ひどく不恰好な角度で重なった唇に牙が刺さって、ピリッと痛みが走った。滲む血の味をぼんやりと感じながら、停止すること一秒、二秒、三秒。たったの三秒が気絶しそうなほど長くて死にそうになる。
止まっていた時間が急速に戻っても、ロナルドの身体はちっとも動かなかった。息が苦しい。とうに半田は離れているのに、呼吸をどうすればいいのか分からない。だって、息が荒いとまるで興奮しているみたいで居た堪れないし、でも呼吸をしなければ気絶しそうだし。
あれ。そもそも呼吸って、どのぐらいのペースが普通なんだろう。
「……おい。いきをすえ、ばかるど」
「え、あ……あの、おまえ、なんで、今、きっ、……ちゅーしたの……」
「したいからにきまっているだろうが。いいか、よくきけ」
グッと胸ぐらを掴まれても抵抗ができなかった。さっきまで焦点のぼやけていた半田の目は、いつの間にか真っ直ぐにロナルドを見据えていた。
「お前にしたいことは山ほどある。たった一時間で解放されると思うなよ」
ひとまず一生分は付き合ってもらうからな。ひどく横暴な宣言と共にもう一度キスをされて、ロナルドは今度こそ息が止まって死にそうになった。