ペリドットの神秘 凛さんと潔さんは付き合っている。
それは"青い監獄"に居たメンバーならば誰しもが知っている公然の秘密だったらしい。
らしい、と言うのも自分はほんの半年前までその事実を知らなかったからだ。
凛さんの弟子として、あの人の事はよく知ったつもりでいた。
"青い監獄"で自分の新しい武器を見つけてくれた凛さんには感謝してもしきれないくらいの恩があるとも思っている。
あの日、自分から凛さんに頭を下げに行ったのは人生の分岐点だったと思えるくらいに。
その甲斐あって"青い監獄"での厳しい選考の後、俺は凛さんと同じくフランスの名門チームであるP・X・Gにスカウトされた。
勿論、凛さんとの約束を違える気はないので今も同じチームのメンバーとして、凛さんを生かす為の駒となり働いている。
けしてナンバーワンストライカーになる事を諦めたわけではないが、凛さんや潔さんのプレイングを間近で見れば見る程に、自分では絶対に到達できない世界があるのを理解する。
せめてその世界の切れ端を離さないように、必死に握り締めておくことで獲られる物がたくさんあることを学んだ。
そして“青い監獄”で言われたように、凛さんは例え付き合いが長くとも能力が足りていないと思えば迷わず切り捨てる。
尽くしてきたのに──なんてぬるい言い訳は聞く耳もなければ、受け入れる気もないのだろう。
実際に他のチームメイトが練習不足だと切り捨てられた事件があったからだ。
だからといって、心の冷たい人というのでもない。
基本的には優しくて真面目でまっすぐな人だ。言葉遣いやら伝え方がキツイというだけであって。
そんな凛さんと潔さんが付き合っているのを知ってしまったのは、自分のタイミングがとても悪かったのだ。
半年前、明日から数日オフという事でどこかそわそわとした空気が練習場を覆っている最中、珍しく凛さんが自主トレーニングをしないですぐさま帰った日があった。
あまり過剰な負荷をかけてはいけないというコーチの方針もあるにはあるが、誰よりも努力家な凛さんは大体軽いシュート練習などを行ってから帰る事が多い。
だから大切な予定があるんだろうとは、何となく察していた。
そんな凛さんを見送った後、簡単な自主トレを行ってからシャワーを浴び、そろそろ帰ろうとした所で青いカバーのかけられたスマホをロッカールームのベンチで発見した。
シンプルながらも上質そうな革製のカバーがかかったそれは何度か見た事があり、聞かずとも誰の物なのかすぐに分かった。
そこで凛さんのマネージャーにでも渡せばよかったのかもしれない。
けれど自宅から凛さんの家までそう遠くは無いのを知っていたのもあって、帰りがけに届けてあげようなどとお節介にも思ってしまったのだ。
しっかりとした造りかつ、高級住宅街にあるアパルトマン。
だがフランスならではと言うべきか、建物自体に物々しさは無く、景観に溶け込むおしゃれな物件の最上階に凛さんは住んでいる。
パリ中心部は歴史ある都市なのもあって、基準が厳しいらしく新規に建物をつくるのが難しい。
もっと都市部から離れれば近代的な建築物でコンシェルジュなどが居る物件は数多く存在するが、あえてこのアパルトマンを選んだ凛さんはなんとなく、あの人らしいと思った。
空は端の方がほのかに茜色に染まりつつあり、その光に照らし出された黒いドアの横にあるチャイムを押す。
軽やかに響く音。しかし反応は無い。続けざまに二回目のチャイムを押してみる。
あれだけ急いで帰ったのを考えると、もしかしたら家にはいないのかもしれない。
そうだとしたらポストにでも入れた方が良いかもしれないが、それは流石に不用心過ぎるだろう。
どうしようと思いながら、もう一度だけとチャイムを押す。
するとザラリと音がして、室内のモニターからこちらを確認している気配を感じる。
慌てて持っていたスマホを掲げながら言い訳のように声をあげていた。
「あのっ、凛さんスマホ忘れてたから届けにきたっす!」
『……ちょっと待ってろ』
余計な事をしてしまったかと思いながら要件を告げると、普段より数段低い声が聞こえた。
待つ事数分、ドアを開いて出てきた凛さんはさっきまで寝転んでいたのか髪の毛が少し跳ねている。
まさかの昼寝途中かと思ったのは一瞬で、俺はとんでもない時に来てしまったのだと気が付くのは早かった。
「……あ……えと……すいません……」
「……別に」
勝手に口から謝罪の言葉が洩れる。
何故なら、ついさっきも会っていた筈なのに、それでも息を呑むほどにドアの向こうに立っている凛さんは過剰なまでの色気を醸し出していたからだ。
あまりそういった経験が自分には無くても、チームメイトはよく飲みよく遊ぶメンツが多い。
その上、不機嫌そうな顔をしている凛さんの白い頬はほんのりと赤みを帯びていて、ボタンが半分ほど開かれたワイシャツの奥から鍛え抜かれた胸筋と腹筋が露わになっている。
しかもユニフォームで隠れる首筋辺りには熱烈なキスマークが何個か見えて、グラグラと頭が茹だっていく。
しっとりと汗ばんでいるのか輝きすら帯びているように見える肌は、まさしくついさっきまでそのような事が行われていました、というのを全力で主張してきていた。
凛さんに対してストイックなイメージばかりを持っていたので、いきなりの刺激的な光景に上手く言葉が出てこない。
「……彼女さん、居たんですね……俺、知らなくて……」
どうにか持っていたスマホを凛さんに手渡しつつ、発したセリフは酷く陳腐な音をしていた。
「…………?」
「いや、すいません! 余計な事言って! もう俺帰りますから……!」
「……彼女じゃねぇ」
まさかの否定に余計に頭が混乱する。
彼女では無いなら、本命じゃない人なのか? しかしあれだけサッカーに真剣に取り組んでいる凛さんが遊ぶために女の人を家に連れ込むなんて、考えられない。
でも自分が知らないだけで、凛さんも男だしそういった欲を発散させるのは強いストライカーにとって重要な事なのかも……ぐつぐつと煮込まれるように考えている俺を引き戻したのは凛さんの声では無かった。
「なぁ、りん……まだなの……って、……七星じゃん」
「え、えっ……あ……潔さん?!」
「ッチ……出てくんなっつったろ」
「だってお前、全然戻ってこないから……」
「あ、……あの……俺……」
凛さんがいつまでも戻ってこないのを不審に思ったらしく、ドアの奥から出てきたのは不思議そうな顔をした潔さんだった。
すぐさま頭の中で結論が出てしまう。だって、凛さん以上に潔さんから漏れ出ている色気が凄すぎた。
ピッチで戦っている時の潔さんでもなく、たまに一緒にご飯を食べに行く潔さんでも無い。
気だるげな雰囲気に加えて、やっぱり少し着乱れた服装をしている潔さんの首元には凛さんよりもさらに多くの赤い痕が刻まれていた。
すぐさま舌打ちをした凛さんの反応を眉を顰めて受け流した潔さんは、凛さんの隣に立つと悪戯っ子のように肩をすくめる。
そのまま俺の方に向き直ると、思わず見惚れてしまいそうな美しい微笑みを浮かべた。
「んーと……ビックリさせてごめんな。……実は俺達、こういう仲だからさ……みんなにはまだ内緒にしててくれるか?」
頭を凛さんの方に寄せた潔さんは、唇に人差し指を当てる。
当たり前のように潔さんの行動を受け止めている凛さんの強い視線も相まって、絶対にノーとは言えない圧力を感じた。
勿論、他言するつもりはない。何故なら俺にとって二人は尊敬すべき先輩で絶対的な存在だから。
「い、言うワケ無いです! 俺はお二人の事、全力で応援しますから!」
大声でそう宣言すると、苦笑した潔さんの隣でさらに眉の溝を深めた凛さんにもはや追い返されるようにその場を後にした。
後日、ひょんなことから時光さんと話した際にあの人はずっと前から二人の関係を知っていると聞き、さらにはチームメイトの殆どが凛さんお気に入りの店で潔さんと二人きりで食事しているのを何度も見た事があるらしく、潔さんはともかく凛さんは交際を隠すつもりなどさらさら無いのだという事を知って、自分の恋愛方面の鈍感さを見直す良いきっかけになったのだった。
□ □ □
ふかふかとした絨毯、煌びやかな照明がその下に居る人々が着ている色とりどりのドレスに反射する。
赤青黄色──かつて習った童謡のように軽やかに動く人たちの波から離れるように避難した壁際で皿にサーブした料理を口元に運んだ。なんだか分からないが、とにかく上品な味がする。
こういうパーティーに呼ばれるのも渡仏してから何回か経験しているが、未だに終わった後は緊張でどっと疲れるのが既に目に見えていた。
でも今回は"青い監獄"の元メンバーが集められているのもあって、気持ち的にはまだ楽ではある。
そもそも自分に注目してくる人は多くないから、凛さんたちに比べれば元から気楽な方なのは気が付かないフリをした。
「よ、七星」
「んぐっ……潔さん……!」
「悪い、食ってる時に声かけちゃったな」
今度はテリーヌのような何かをフォークで切り取り、口に入れた瞬間、背後から声をかけられ慌てて振り向く。
そこには申し訳無さそうな顔をしたスーツ姿の潔さんが立っていた。
さっきまで様々な人に囲まれていたのもあって、少しやつれた顔をしている。
多分、人の切れ目を見極めて逃げてきたのだろう。元々人混みが得意ではないのに、こういう場には必ず駆り出されてしまうのだと愚痴のような話を以前聞いた事があった。
「お疲れさまだっぺ……」
「はは……マジでそれな」
ふぅっと深い溜息を吐いた潔さんは、人の良さそうな笑みを浮かべるとこちらの皿にのった料理を見てから呟いた。
「それ、うまそうだなぁ。流石に腹減ってきた」
「ずっと囲まれてて食べる暇も無さそうですもんね」
「改まってそんな話す事も無いんだけどな。……しつこい人はずっとしつこいし……試合で全部出してるつもりなのにさ」
“青い監獄”での潔さんの活躍は世界中に配信されていて、今やその名を知らない人間はいないだろう。
だからなのか常にパーティーなどでは引っ張りだこで、男女問わず潔さんの周りには人が集まってくる。
けれどプライベートと社交の場は分けているらしく、遊ぶのは"青い監獄"やチームメイトなど信用できる仲間だけと決めているというのは、先々月にご飯をみんなで食べに行った時に聞いた話だった。
「良かったらこれ食います? 俺の食べかけで申し訳ないっすけど……」
恐らくやっとの事で壁際までやってきたのに、また会場の中心に行けば潔さんは戻ってこられないかもしれない。
だったら自分のを渡して、その間に新しく取りに行ったものをまた渡せばいいだろう。それくらいしか尊敬する先輩の為にやれることが無い。
俺の差し出した皿を見て声を発しかけた潔さんの背後から急に粘っこい印象の声が聞こえた。
「やぁ、イサギ。せっかく話していたのに急にいなくなってしまうから探したよ」
途端にこちらに向いていた潔さんの眉が顰められ、明らかに背後の人物を歓迎していないのが窺えた。
そろりと目を動かし、こちらに近づいてくる人物を観察する。
ぎょろりとした目と鷲鼻が特徴的で、ブロンドの髪は後ろに撫でつけるようにセットされている。着こなしているスーツは高級そうではあるが色選びが若干奇抜。
背丈は自分達よりやや高いが、そこまで細身では無く欧米系の顔立ち──事前に渡されていた参加者リストに載っていたアメリカで有名なコメディアンだった。
イヤホンをつけているお陰で翻訳されて聞こえてくる言葉は日本語だが、ずいぶんと潔さんに馴れ馴れしい態度を取っているように感じる。
何となく既視感があると考えてから、サッカー協会の不乱蔦に似ているのだと頭の中で結びついた。
はぁ、とため息を吐いてから振り返った潔さんは普段よりも強い語気でその人物に言葉を返す。
「……それはすいません。でも、さっきもお話しましたけど、俺はあなたの番組に出る予定はありませんから」
「どうして? 別に君が過去にやっていたBLTVみたいに無償で受けてくれって話じゃない。ギャランティーだってしっかり払う。悪い話じゃない」
「あなたが提示したスケジュールでは無理だという話をしているんです。それにそういうのは俺に直接話すんじゃなくて、マネージャーかチームにって何度も言ったじゃないですか」
「オー、イサギ。私だって何度も君のマネージャーに打診したけどダメだった。だからこんな所まで来たんじゃないか……首を縦に振るまで帰らないよ」
聞き分けの悪い子供に言い含めるような言動で果敢に潔さんに食い下がるコメディアンのタフさに内心驚く。
「それにね、私は君自身に興味がある。だからこそ番組に招待したいんだ。……大丈夫、ちゃんと打ち合わせはしっかりしよう。緊張する事なんて何一つ無いんだよ……」
「だから……」
そのまま潔さんの肩に伸びてきた指先がそこに触れる前に、一直線に奥の方からこちらに向かってくる人物を見つけた。
大股ながらもけして無作法では無い。まるでレッドカーペットを歩いてくるかのように周囲の注目を浴びながら男の後ろからやってくる凛さんは、見るからにとんでもないくらいの怒気で満ちていた。
そのまま男の手から逃れる為に一歩下がった潔さんの横に当然の如く収まった凛さんの手が潔さんの腰を緩く抱く。
そうして、常人には真似できない圧倒的なまでに気高い印象を表すようなトワレが軽やかに香った。
男の気配が一気に霞んでしまうくらい眩い存在感を放っている凛さんは、あえて日本語ではなく英語で男に対して低く鋭い言葉を放っている。
矢継ぎ早に繰り出される言葉を一度に理解する事は出来なかったが、「これ以上はどうなるか分かっているだろうな?」という話をしているようだ。
男はいきなりの乱入にしばし呆然としていたが、夢から覚めたかのように慌ててその場を後にした。
「……なんでさっさと来ないんだよ。あんなクズ野郎にいつまでも付きまとわれてんじゃねぇぞ」
「だって凛も囲まれてたしさぁ……そろそろ来てくれるだろうと思ってたし」
「……ハァ……」
男の姿がそそくさと人混みにまぎれていくのを睨み付けつつそんな会話を繰り広げている凛さんの指は潔さんの腰を掴んだままだ。
でも特に気にした様子も無いので、もうこの距離が二人にとって当たり前なのだろう。
"青い監獄"でもパーソナルスペースが極端に広い凛さんが唯一近づくのを許していたのは潔さんだけだったのを思い出す。
恋人同士になってからさらにその距離が縮まったのだとしても、別におかしくはない。
そのまま静かにこちらに向き直った凛さんと潔さんは、流石に腰から手を離したものの、ほぼ重なるくらいの距離感だ。
まるで周囲から潔さんを隠しているような立ち位置の凛さんはようやく俺に気が付いたのか、涼やかな視線でこちらを見てくる。
しかし、この視線は特に何も感じていない目だ。先ほどまでの怒りが収まって平常運転に戻った凛さんに安心する。
「はーぁ、腹減ったわ……凛も腹減ったろ。全然食べてなかったもんな」
「とっとと抜けるぞ。こんだけ居てやったんだから十分だろ」
「オッケ。帰りにいつもの所でテイクアウトしようぜ。早く帰ってシャワー浴びてぇ」
二対の寒色をした瞳がこちらを見据える。無言の圧力とまではいかないが、流石にその視線の意味は察せる。
主役級の二人が黙ってこの場を離れようとしているのを知っているのは、今のところ俺だけ。
「なんか聞かれたら、適当にやり過ごしておきます……!」
「いつも悪いな七星。助かるよ。今度また飯でも行こうぜ」
「はい!」
パッと花開くように満面の笑みを浮かべた潔さんの隣で、つまらなそうに鼻を鳴らした凛さんが続けて呟く。
「そんくらいやって当然だろ、田舎モンが」
「こら! すぐそうやって圧かけんの止めろって言っただろ!」
「いちいちうぜぇ。はやく帰るぞ」
ツンと澄ました横顔がまたこちらを一瞥する。今度はほんのちょっとだけ怒っている風に見えた。
潔さんはフィールドの外と中で別人のようになってしまうが、凛さんは基本そこまで変わらない。──つまり、この人は大体潔さんの事ばかり考えている。
「あ、待てよ凛。じゃあな七星!」
一応、目立たないように帰る気はあるのか、部屋の隅を通って出口方向に凛さんは無言のままスタスタと歩き去ってしまう。
けれどその背を追う潔さんが隣に追いつくやいなや、凛さんの歩幅が少し狭まる。
無意識なのか意識しているのかは分からないが、素直ではない凛さんの行動は珍しく年相応に思えてしまう。
普段は大人びた凛さんの子供っぽい一面を明確に理解出来るようになってきた自分も、恋愛方面に鈍感なのを脱却しつつあるのかもしれない。
むしろあれだけ分かりやすいのに、この間まで全然気が付いていなかったのが信じられないくらいだ。
ふと、持ったままだった皿の上の料理に視線を向ける。色鮮やかな料理の数々は相変わらず美味しそうに並んでいた。
その中にある肉の切れ端にフォークを突き立て、口に放り込む。
するとオレンジソースがかかっていたのか、甘酸っぱい味が舌の上で広がっていく。
その味がつい先ほど目の前で見せつけられた光景についつい重なってしまい、思わず苦笑を零してしまったのだった。