実りある日々 ────なんだ、これは。
闇から緩やかに浮上した意識の中、瞼を閉じたまま顔に当たる感触を確かめるように頬を擦り寄せる。
沈み込んでしまいそうな柔らかさではあるが、かと言って硬さが全く無いのでもない。
言葉で表現するのならば"ふかふか"というのが一番近いだろうか。
額に当たっているその物体は温かくて、布に包まれている。
肌の表面に当たるその布は、クッションにしてはそこまで毛足が長く無いサラリとした生地だ。一番近いのはキルト地に近いかもしれない。
さらにその物体を確認する為に、手を伸ばして顔の前にある触った事の無い感触のそこに手を伸ばしてみる。
"ふかふか"だと思っていたが、しっかりと確かめるように触ってみると、もう少し弾力を感じた。
ゴムボールよりは柔らかくて、クッションよりは固い。これが自室の枕だったらよく眠れるような気さえしてくる。温もりの奥から繰り返し聞こえてくる音も丁度いい。
そこまで考えて、自分が置かれている状況が可笑しい事にようやく気が付く。
【ゲーム】の中継機材トラブルの影響で、レジェンド全員が【ゲーム】用シップの中で暫く待機しなければならなくなった。
ただ無作為に時間を浪費するのも勿体ないと、シップの中でも端の方に位置している空き部屋で、企業から依頼された仕事をしていた筈だったのだが、どうして横たわっているのだろう。
「……おーい……あのさ、起きてるなら……目、開けて欲しいんだけど」
「!? ……は……」
つむじ辺りから投げ掛けられた声に、勢いよく顔を上げる。
そこでやっと目の前の物体がミラージュの胸板だというのを理解して、瞬時に自分の身体全体に血が上って下がるという慣れない経験をした。
言うべき言葉が見つからず、目を白黒させている俺を見つめていたミラージュは気まずそうな顔をしつつもこちらの腰に当てていた手を離す。
「お、俺は悪くないからな!? その、えっと、様子見に来たらお前が椅子の上で寝こけててさ……あのままじゃ風邪ひいちまうと思って」
「ッ、だったら、なんでお前も一緒に寝てるんだ!」
「はぁ!? なんでって、お前を寝かせた時に俺をそのままベッドに引っ張り込んだんだろうが! その上、寝ぼけてるから仕方ないと思ってたけど、……俺の胸ばっか触りやがってよぉ……もしかしてクリプちゃんって胸フェチなワケ? 随分幸せそうな顔しちゃってさ。このむっつりギークボーイめ」
気まずそうな顔をしていたミラージュが段々と調子を取り戻し始め、優位な立場に居ると考えているのかツヤツヤとした顔で俺を覗き込んでくる。
コイツ、本当に顔は良いのにムカつく野郎だ。だがそんな事を言えばもっと調子に乗ると分かっているからこそ、黙ったまま睨みつけた。
どうやら様子を見に来たミラージュが気を利かせてベッドに運んでくれた際に、そのままコイツを捕まえてしまったらしい。
馬鹿な作り話だと思いながらも、ミラージュがそんな嘘をつく理由が存在しない以上、それは事実なのだろう。
だが、一気に喚かれた言葉を納得はしたくないと頭が拒否をしているのが分かった。
「いやー、いきなりベッドに連れ込まれた時はどうなるかと思ったぜ。ま、俺は優しいから? 勿論そんな恥ずかしい話を他の奴になんてしないって。安心してくれよ。あぁでもお前って寝てる時に結構動くのな。なんか死んだように寝るのかと思ってたのに、赤ちゃんみたいに安心しきって顔寄せてくるの可愛かったぜ。いつもそれくらい大人しけりゃいいのにさ。んふふ、……やっぱり言いたくなっちまうな? あのクールぶってるクリプトは寝てると赤ちゃんみたいになっちまうって……」
「うるさいぞ!!」
「ッいででで?! 止めろって! 俺が悪かったよ! 言わないから!! 放してくれぇ!」
意地の悪い顔で普段以上に口が回る男に堪え切れず、先ほどまで頬を摺り寄せていた胸を強く鷲掴む。
大体、なんで男なのにこんなに柔らかい胸筋をしているのか。それの方が問題だろう。
問題というのも可笑しいのかもしれない。とにかく、同僚をベッドに引き込んだ上、文字通り"胸を借りて"寝てしまっていたなど、あり得ない愚行だ。
幾ら酷く疲れていたとは言え、自分でも自分の行動が信じられなかった。
そもそも他人が部屋に入ってきた時点で起きられなかったのだって、眠りが浅い俺にしては滅多にない話だというのに。
段々とミラージュに対しての苛立ちよりも、自己嫌悪の感情の方が強まっていく。
掴んでいた手を放し、ミラージュを睨みつけていた顔を俯かせる。今回は全面的に俺が悪いのを認めるしかないのだ。
この男が妙に他人へ配慮する人間なのは知っているし、誰にも居場所を伝えずに空き部屋に移動した俺を心配して探しに来たのは本当なのだろう。
好きでも無い男と狭いベッドで添い寝する羽目になってしまったというのに、無理矢理起こさなかったのだって、コイツの優しさ故だと思えば責める気にもならない。
近頃寝つきが悪かったのが嘘のように深い眠りにつけたのもあり、そこそこ疲れが取れたのも間違いではなかった。
はぁ、とため息を吐きつつゆっくりとベッドから上体を起こす。
ミラージュの方を見るのは出来なかったが、頭を掻きながらもどうにか唇を動かしていた。
「その、……悪かったな。……不快な思いをさせた。……近頃、余りよく眠れていなかったから……」
「あぁ、やっぱり寝れてねぇのか。確かに、いつもよりクマが濃いし、そうだろうなとは思ってたが」
「……え」
思わず向けた視線の先、ベッドにまだ体を横たえたままのミラージュが俺を見上げてくる。
俺が睡眠不足なのをコイツが感づいているだなんて考えてもいなかったのもあって、動揺してしまう。
そんな俺の反応に楽しげな笑みを浮かべたミラージュは、こちらに向かって両手を広げたかと思うと一度ウィンクをしてみせた。
「なんならもっかい寝るか? 俺の広い胸を貸してやるよ、胸フェチのおっさん」
「…………いらない」
ハッキリ言って、バカバカしいと直ぐに切り捨てられないくらいにその問いは魅力的なものに思えた。
だが、それを求めてしまう自分の気持ちを押し殺して出来るだけ低い声で否定を告げる。
俺の言葉に意味深に片眉だけを上げたミラージュは、サッとベッドから起き上がると未だにベッドの上で座っている俺を見つめて肩を竦めた。
その顔はどこか不満そうな表情をしているようにも見えて、混乱する。
「あっそ。それなら良いけどさ。……そういえば三十分後に集合のア、ア……アナウンスが流れてたからそろそろ準備しといた方がいいぜ」
「……あぁ」
「じゃあ俺は先に行くから。二度寝すんなよ」
不満げな顔のまま金属製ドアを潜り抜けて出て行ってしまったミラージュの後ろ姿を見送ってから、ついつい頭を抱え込んだ。
アイツにとんだ失態を晒してしまった。ついでに寝顔もだ。
他言しないとは言っていたが、アイツが面白がって誰かに言いふらさないとも限らない。まぁ、流石に俺と一緒にベッドに入ったのを暴露する事になるので、それはしないと信じたいが。
それよりも、と頭を抱え込んでいた両手を離して目の前に翳す。
掌に残る感触が生々しく感じるのは、あれがクッションなどではなくミラージュの胸だと知ってしまったからだろうか。
トクトクと耳に心地よく響いていた音はアイツの心拍で、改めて考えてみれば、時々身動ぎをする度にあやすように髪や背を撫でる何かを感じ取っていた。
誰かと共にベッドで眠るなんて、幼い時にミラと昼寝をした以来かもしれない。
それだって、余りにも昔の話で詳細など思い出せないが、少なくともこんな風に思ったりなど一度だって無かった筈だ。
人と眠るのはこんなに、安心するものなのか? そんな経験がないから分からなかった。
考えれば考える程に自分の行動が恥ずかしくなってくる。
まだアイツが笑い飛ばしてくれただけよかったのかもしれないと、今更ながら思った。
とりあえず三十分の猶予が残されているのだけが僥倖だ。
勝手に熱くなっている頬をどうにか冷まそうと、他に誰も居ない部屋で一人、細く長い息を吐き出していた。