夜にまみえる 冷蔵庫から取り出したペットボトルの蓋を無造作に開ける。
そのままコンロに乗っている小鍋にマグカップ一杯分よりも遥かに多い量の水を注ぎ入れた。
縁のすぐ下辺りまでなみなみと鍋の中を占拠した無色透明。それ越しに使用感の滲んでいる鍋の底が透けて見える。
渡独した最初の頃はどうにも面倒で日本に居た時と同じく水道水を使用していたが、一度腹の調子が悪くなってからはミネラルウォーターをケースで買い揃えておくようにしていた。
青い監獄での経験を元手に、さらなる成長を求めてドイツのバスタード・ミュンヘンに単身乗り込んできてからもう一年半が経つ。
発声し慣れないドイツ語の習得に加えて、実家で両親に甘えてきた生活をある程度は自分で賄わなければならなくなった。
初年度はクラブチームが管理している寮に入寮していたとは言え、全てを寮母に任せるワケにもいかず、随分と苦労したものだ。その上、サッカーのパフォーマンスを落とす事は許されない。
それも一年経てば自然と慣れるもので、貰える年棒と家事に何の心配も無くなってきたタイミングでマネージャーに頼んで探して貰ったこのアパルトマンに引っ越しを決めた。
ちゃんと料理も自分で作ると決めて借りたこの部屋の電気コンロは三口あるが、大抵は手前の一口しか稼働していない。だから今夜もまた、その手前側のコンロの火を灯す。
出来るだけ弱火に調節し、重たい鍋の底がきちんと加熱部位に当たっているのを確認してから、スウェットのポケットに手を突っ込んでスマートフォンを取り出した。
待ち受けに映し出された時刻は十二時十二分。そのまま指先で画面をスワイプしてメッセージアプリを開く。
青い監獄時代に出会ったメンバーやドイツで仲間になったチームメイトの名がずらりと並ぶ中、一等シンプルなアイコンと名をしている人物を見つけ出した。
この時間は既に横になっている可能性が高い。スリーコールで出なければ、運が無かったと諦めよう。──そう心に決めて通話ボタンをタップし、耳に当てる。
三度目の最初の音が鳴った瞬間にコール音が途切れ、画面の向こう側から微かな息遣いを察して静かに声をかけた。
「もしもし?」
『……んだよ』
掠れた声がスピーカー越しに聞こえ、起こしてしまったのだと理解する。この時間にかけたのは自分だったが、ほんの少しだけ罪悪感が過ぎった。
「悪い、寝てた?」
『……寝てねぇ』
「そっか」
明日も朝から晩まで練習なのだろう。それでも電話に出る事を選んでくれた凛の優しさに甘えて気が付かなかったフリを続ける。
糸師凛という人間が案外"良い奴"なんだと気が付いたのは、かなり早い段階でだった。
しかしながら、青い監獄に居た時から現在にかけてまで態度の悪さが変わったりなどはない。
そこが大幅に変わったら"明日世界が滅亡するんだな"と俺は感じるだろう。でも、確かに変わったモノもある。
例えば、夜中に電話をいきなり掛けても許してくれるくらいの関係性になったりだとか、こういう日に限って声を聞きたくなる相手が凛だったりだとか。
俺と凛の間にある感情を言い表すのは非常に難しい。
友情かと言われれば否のような気もするし、嫌悪かと問われれば、それもまた否のような気がする。
こちらとしては、もう少し歩み寄りたい気持ちも無くはない。
フィールドでは宿敵であっても、それ以外でうまくやっていける例なんて幾らでもあるのを知っているから。
だというのに、凛と作り上げてきた関係はその例のどれにも当て嵌まらず、凛もまた、俺と同じ事を思っているのだと確信していた。
もう青い監獄の時とは違い、俺も凛もそれぞれのチームで自分に出来る事を日々こなしている。
わざとらしい繋がりを残さなくてもいいんだと分かっているのに、画面の向こうで凛が活躍する試合の隅々まで見てしまう自分が居た。
完全な無関心を装いきれればいいのに、青い監獄で凛が決めた鮮やかな放物線がどれだけ試合を重ねても頭の片隅に残ったまま。
結局のところ、やっぱり糸師凛という人間から俺は目を離せない。
それがいつか自分の弱みになるのかもしれないと理解していても、なお。
『テメェから電話してきといて黙り込んでんじゃねぇよ、タコ』
怒りを滲ませた声が鼓膜に届く。
寝入り端に電話で叩き起こされた上、相手が黙り込んでいたら怒るのも当然だろう。
それでも切らないあたり、やはり"良い奴"だとバレないように笑みを浮かべた。そして言い訳の為に用意しておいたセリフを口にする。
「もうちょっとだけ付き合ってよ。今、コーヒー淹れる為に湯沸かしてんだ」
『?』
「あと三分もかかんないから」
チラリと視線を向けた先には気泡を浮かべ始めた鍋があった。
冷たかった筈の水が次第に沸騰していくのを眺めていると、わざとらしい溜息が聞こえる。
この溜息は呆れ半分、諦め半分。すなわちまだ相手をしてくれるという事に他ならない。溜息の後に今度は苛立ちを隠す事のない声が耳元で響く。
『今日の試合、ラスト五分』
「うん」
『舐めた動きしやがって。どうせ敵のスタミナとシュート間合いの管理ミスったんだろ』
「……そだな」
的確な指摘に頷く事しか出来ない。何故なら、それは自分でもハッキリと自覚しているミスだったからだ。
今日の対戦相手は馬狼たちの所属しているユーヴァースだった。
二対二という中盤までほぼ互角で進んでいた試合で起こったラスト五分間のせめぎ合い。
ボールは敵陣前。超越視界で全体を見渡し、これなら通せると確信すらしていた。
けれどセンターバックを任されている二子のスタミナが自分の想定よりも上がっていたのだ。それこそ隠していたとしか思えないくらいの超絶反射守備に加えて、精確無比なロングパスを受けた馬狼の圧倒的なチョップドリブルからの射程距離の伸びた容赦のないミドルシュート。
止める暇もないくらいの見事なカウンターに、俺達のチームは敗北を喫した。
スポーツにおける勝ち負けは上位を目指せば目指す程、必ず避けては通れない道だ。勝者がいれば敗者がいる。至極当然の理なのも理解していた。
それでも悔しいモノは悔しいし、ゴール前で勝利を掴んだと思っていたのにあっさりとすり抜けていった感覚ほど、胸に重くのし掛かるものはない。
こういう時、俺はどうしても自分が情けなくて仕方が無くなる。だから凛の声が無性に聴きたくなる。
"慢心するな"と誰よりもストイックな男に、強く背を叩いて欲しくなってしまう時があるのだ。
『あの場でお前がカウンターを警戒出来てれば、一点取って終われた試合だ』
その通りだと、痛い程に胸に突き刺さる言葉をしっかりと聞きとめる。
他の誰でもない、凛に言われるからこそ意味があるのだと気が付いたのはいつからだっただろう。
『ぬるいプレイをするな。俺に無様な姿を見せるな。テメェにはその義務があるだろうが』
「分かってる。……今度はお前の思考すら凌駕するプレイをする。絶対に」
『……そこまでの大口叩く暇があるなら、行動で示せ』
スピーカーの向こうに居る凛の顔を想像する。
薄闇の中で、何度も見た記憶のある鋭く強い意志を宿した瞳が光っているのだろう。
直接見られないのが残念ではあるが、今の自分の顔を見られたくは無かったので良かったのかもしれない。
弱音を吐く事は出来なくても、こうして電話をかけた時点で自分の脆い部分を晒しているのに違いは無いのだから。
沸々と沸き立っていた湯が無視できないくらいに表面を波立たせ、鍋の底はすっかり見えにくくなっている。
もう頃合いだとスマートフォンを当てている頭を傾け、凛の声がより聞こえるように押し当てていたのを僅かに離す。
そのまま深く長めの息を吐き出すと、思考の散らばっていた脳内がだいぶ整えられて、落ち着きを取り戻していた。
「湯沸いたわ。ありがとな、凛」
『そうかよ』
「うん。明日も朝から練習だろ? 遅くに悪かった。……おやすみ」
通話の締めとして発したおやすみの挨拶に返ってくるのは沈黙だけ。それはいつもの事だった。
これ以上長引かせる気が無かったのもあって、そのまま電話を切ろうと通話ボタンに指を伸ばす。けれど切る前に黙っていた凛が囁いた。
『こんな時間にカフェインなんざ摂ってねぇで、テメェもさっさと寝ろ。潔』
「え」
『……ッチ』
舌打ちの後、ブツリと途切れた通話に思わず耳に当てていた画面を顔の前に持ってくる。
そこに書かれているのは大した分数でもない通話時間と、確かに凛と通話をしたという無機質な記録だけ。
あれは凛なりの『おやすみ』なのだろうか。だとしたら何ともぶっきらぼうでアイツらしい言い方だった。
────素直じゃないのが凛の良い所であり、好ましい部分なのだ。俺にとっては。
そんな風に思いながら、握り締めていたスマホをポケットへとねじ込み、コンロの火を止める。
湯を沸かすのなら、本当は電気ケトルで沸かす方がよっぽど早いし、なんなら高級ブランドのコーヒーメーカーだってこの家には存在していた。
取って付けたような理由でも良いから欲しくて、敢えてこんな手法を取ったのだ。本当に素直じゃないのは俺の方かもしれないと、ひとり苦笑する。
だからせめて、凛の切り際の忠告には素直になるべきだろう。
鍋から立ち上る湯気を眺めながら、淹れるつもりだったコーヒーから予定を変更し、ココアにでもしようとパントリーに貯蔵している茶色の缶を手に取った。