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    凛潔(プロ設定)/酔った勢いでくっつく凛潔

    酩酊 消失 その後で、 午後二十一時過ぎの繁華街──色鮮やかなネオン輝く路地のひと際奥まった場所に存在しているとある店舗。
     ガヤガヤと騒ぎ立てる人々の声がその店舗内にある個室で響いている。
     店の中で一番広い座敷になっている部屋の中央を横に割るように置かれた長テーブルの上には、数多くの料理が並べられていた形跡だけが残っていた。

     青い監獄ブルーロックプロジェクトの総指揮者である絵心から招集が掛かったのは約二週間前。
     突然の伝令をけた潔は、二日前に現在自分が所属しているバスタード・ミュンヘンがあるドイツから日本へと迷いなく帰国した。
     いきなりの呼び立てに今度は一体どんな無理難題を言われるのかと恐怖と興奮がぜのまま、かつて世話になった鬼コーチの元に向かった潔は、そこで青い監獄ブルーロックの仲間たちと再会する事となったのだ。
     現在、各国のサッカークラブで活躍し"華麗なる点取り蜂ダンシングキラービー"と呼ばれる蜂楽や、"麗しき赤豹帝レッドパンサークイーン"などど呼ばれる千切。それから"変幻自在の絶対的双璧ゴールデンペア"の凪と玲王。
     彼らだけではなく、あの激闘を勝ち抜いたメンバー全員が絵心に召集をかけられていたらしい。
     普段はヨーロッパリーグで互いにしのぎを削り合う日々。元々蜂楽や千切とはオフが合えばそれぞれの国に行き来するなどの交流はあったものの、ここまで全員が一堂にかいするのは、それこそ青い監獄ブルーロック以来だった。
     しかも今の潔にはどちらかと言えばその両名よりも頻繁ひんぱんに会うようになった相手が居るのもあって、オフだとしても時間を取るのが難しいのもある。
     恐らくそれは潔だけではなく、この場にいる全員がそうなのだろう。
     だからこそ、今後の日本サッカー界の展望及び、第二回目の青い監獄ブルーロックプロジェクト発足に向けた会議の為に呼びつけられたとは言え、同窓会のような様相になるのは当然の帰結ではある。
     そうして、若き英雄エゴイストたちの郷愁きょうしゅうと久々の再会による盛り上がりなど絵心はとうにお見通しだったのか、【帝襟】の名で既に予約してくれていたプライバシー厳守ながらもカジュアルな雰囲気を残した飲食店に集まった面々は、食えや飲めやの宴と相成ったのだった。

     「なぁー、聞いてんの? 潔ぃ」
     「はいはい。聞いてる聞いてる」
     「あはは、ダメだよぉ千切りん。潔はもう酔いどれぇ~なんだってさ」
     「お前らには言われたくねぇよ」
     着ているモスグリーンのパーカーの両肩口に顔を擦り付けるようしていた蜂楽と千切が、潔の頬を両側からむにむにと突っつく。
     二本の指先から緩く頭を振って逃れつつ、この二人は多分年を取っても変わらないな、などとしみじみと潔は思う。
     「なーんか今日は冷たいな。潔、つまんねぇぞ」
     「ねー。最近付き合い悪いしー?」
     「んな事ないだろ。もぉ、お前ら飲みすぎだって」
     「俺達、そんなに飲んでないよねぇ、千切りん?」
     「そうだそうだー!」
     完璧に酔っ払い丸出しの返答にため息をついた潔は、頬を朱色に染めつつケラケラと笑った両隣に座る蜂楽と千切を順繰りに見回しつつ、自身の前に置いてあった残り半分程度となったジョッキに手をかけ中身を飲み干す。
     最初は美味しいだなんて思えなかったビールも、水のようにビールを飲む国に長く籍を置いていれば自然と呑めるようにもなる。
     喉元を過ぎる苦みの強いアルコール。それからこの場の楽しい雰囲気に確かに潔自身も酔っていないとは言いがたい。
     けれどどうしてもこういう場では世話係になるのが多いものだから、胃に料理をしっかりと入れた上で、ほろ酔いになる程度に飲むのが上手くなった。
     「なぁ、アイツん所行って、残ってる酒全部飲ませる泥酔耐久レースさせようぜ」
     「わは! それめちゃくちゃエッゴ! いいねぇいいねぇ、盛り上がってきた!」
     反応の薄い潔を置いて、すぐ近くにいる國神に二人して絡みに行った蜂楽と千切のふらふら揺れる後頭部を見ながら今夜の國神の運命を潔はそっと祈る。──哀れ優しき元ダークヒーロー、頼むからぶっ倒れるなよ。
     そんな雑な祈りも早々に切り上げ、潔は周囲を見渡しつつ視界に映る範囲に居る他メンバーの話の内容にも耳を傾ける事にした。

     テーブルの中央付近で烏や乙夜や愛空を中心に海外で見かけた美女の話をしている横にて、雪宮や玲王たちは酒の場ではあるもののなんだか小難しい話を繰り広げている。
     さらにその奥では剣城や我牙丸たちに囲まれた二子の疲れ切った表情と、七星や氷織、黒名の穏やかそうなメンバーで談笑している姿も目に映った。
     けれど、潔はそこには居ない人物を探し続け、そうして一番奥の部屋のすみ。壁に凭れ掛かるようにしながら手に持ったグラスをチビチビと傾けている凛を見つける。
     誰かと話をしているワケでも無く、この騒がしい空間で息を潜めるように密かに溶け込んでいる凛の顔色は遠くからうかがい知る事は出来ない。
     潔は座っていた畳から履いているデニムの生地を擦らせながら立ち上がると、笑っているメンバーたちの死角を突くように静かに移動し、凛の元へと寄った。
     「凛」
     「……んだよ」
     手に持ったグラスは離さないまま、潔を見上げた凛の瞳は普段のとげとげしさを感じさせない程度のまろやかさをしている。
     ハァ、と小さな溜息と共にゆっくりと潔は凛の横に座り込んだ。
     黒スキニーと肌触りの良さそうなネイビーカラーのVネックニットで身を包んだ凛は、どこか幼さの滲んだ反応を返してくる。
     あまり見られない姿だ、と内心で潔は思いながらも他のメンバーには聞こえないくらいの声で囁いた。
     「大丈夫か? ヤバそうなら送ってくけど……ホテルどこだっけ?」
     「いらねぇよ……自分で帰れる……」
     「いや、だってさぁ……結構飲んでるだろ、お前」
     「……まだ……残ってんだろうが」
     そう言い募った凛の握り込んでいるグラスの中身が揺れる。
     透明なガラスの中には薄い黄色の液体が満ちており、細かな気泡が浮かんでいた。
     凛の手からそれをさり気なく取り上げ、顔の近くへと運んだ潔の鼻先にレモンの香りが漂ってくる。
     飲み口に緩やかな丸みのついたロンググラスの表面はうっすらと結露しており、その雫が潔の指先を濡らした。
     凛が酸っぱいものを好まないのを誰よりも潔は知っていた。何故なら、一緒に出かけた際に酸っぱい物が出た場合、凛は何も言わずに潔にそれを押し付けるからだ。
     鼻先から口元へとグラスを寄せた潔の唇の中に入り込んでくるレモンの酸味は氷が溶けだしているのもあって薄く、そこまでアルコール度数は高くない。
     けれど、誰ともそこまで会話が弾んでいなさそうだった凛は一人でひたすら飲んでいたのだろう。
     いつもならこういった集まりに『興味がない』と言って参加すらしない筈の凛がこの場にいる事自体がとても貴重だ。そうしてこんなになるまで人前で酔っているのも。
     もっと早く気にかけてやれば良かったかもしれないな、などと潔は自分の行動を少しだけ反省する。そもそも、この飲み会に行こうと誘ったのは潔からだった。
     他人に興味の無い凛は別に来たくも無かったのだろう。でも、『こんな機会もなかなか無いんだから皆と飲むべきだ』と説得した潔に向かって、『お前が行くなら行ってやる』なんて暴言交じりに凛がそう言ってくれたというのに。
     だからこれはただの潔の想像でしかないが、もしかしたら凛は途中で拗ねてしまったのかもしれない。
     苦手な酸味の強い酒を自分から頼んだ凛の顔を潔は想像する。そんな事をするくらいなら潔の元に来ればいいのに、凛はけしてそうはしない。
     潔が凛の様子を察して、グラスの中身を確認するのを待つ。そういう面倒くさいタイプの甘え方をする。
     それを知っているのはこの場で潔だけであり、そうして凛が恐らく凛本人が思っているよりもはるかに酒に飲まれやすい事もまた、潔だけが知っている秘密だった。
     ────ふわふわとしている凛を、他の誰かに見せたくないし、知られたくない。

     胸のうちに浮かんだ欲求に自分自身で驚きながらも、潔は凛を見ながら持っているグラスを傾けていく。
     少し見ただけでは分からないかもしれないが、話をしたら皆にバレてしまうだろう。
     顔色に変化はなく、行動も一切変わりないように見えるが、こうして目の前でグラスをあっさりと奪い取られ中身を飲み干されても不思議そうな顔をしているのが何よりの証拠だ。
     「もう俺が飲んじゃったよ」
     「……なんで飲んだ」
     ようやく自分の持っていた酒を奪われた事に気が付いたらしい凛が眉をしかめた。
     馬鹿だとかアホだとか、そういった罵倒は飛んでこず、ただただ不満げな顔をしている凛に思わず笑みを浮かべた潔は、さらに凛の耳元に顔を寄せる。
     直接触れるまではしなくとも、潔の方に首を傾けた凛の髪がはらりと散って、奥にある耳殻じかくが酔いのせいでほんのりと赤みを帯びているのが見えた。
     そんな凛に向かって潔が柔く囁きを落とす。
     「もうそろそろ帰って寝たいから。だから抜け出す理由になってくれよ、凛」
     「てめぇのエゴじゃねぇか、そんなの」
     「うん。そうですけど。……ダメなん?」
     あざとさを隠す事もせず顔を離して微笑んだ潔の前で、しかめたままの眉を解かない凛は静かに立ち上がる。
     ふらつきかけた凛の腰をさり気なく片手で支えた潔は、持っていたグラスをテーブルへと置くと同じように立ち上がった。
     凛の腰に当てた掌は離さないまま、凛の近くに座って蟻生と一緒に雪宮たちの会話を聞いていた時光の肩を軽くつつく。
     クルリと振り向いた時光の顔はそこまで変化が無かったが、テーブルの上にはかなりの量の空ジョッキが置かれている。
     伝言を頼んで大丈夫かと不安になった潔の心配を他所に、潔の掌から逃れるように壁にかかったハンガーから黒のロングコートを取って着始めている凛と潔の姿を見上げた時光は真っすぐな目で潔を見返してきた。
     「二人とももう帰る感じ?」
     「ああ。ちょっと凛が酔ってそうだから、俺も送りがてら帰るわ」
     「そっか! 気をつけてね」
     「金だけ置いてくから……」
     途中まで発しかけた言葉をさえぎるように、潔の背後から何枚かの紙幣を握り締めた凛の手が伸びる。
     どう考えても一人分には多すぎる枚数を時光の顔の前にかざした凛は、フン、と鼻を鳴らした。
     凛の不遜ふそんな態度など、青い監獄ブルーロックに居たメンバーたちにとっては慣れっこだ。
     差し出された紙幣を受け取った時光は特に気にした様子も無く、ニコリと人の良い笑みを浮かべた。
     「二人分って事だよね? あとで玲王くんに渡しておくから、安心して」
     青い監獄ブルーロックで出会った当初はネガティブ思考全開で、凛と目が合うだけで怯えた様子を見せていたのが嘘のようだ。
     それとも今はなんだかんだで酔っているから気が大きくなっているだけなのか。潔には判断が付かなかった。
     背後にべったりと張り付いている凛の気配を感じつつ、急いで先ほどまで自分の座っていた場所に戻った潔は、持ってきていたスポンサーから提供されているスポーツブランドのロゴが入ったリュックサックを背負う。
     するとすぐさま國神を取り囲んでいる蜂楽の楽しげな声が潔に向けられた。
     「あれ?もう帰っちゃうの、潔ぃ」
     「おお、悪い。お先するわ」
     「そっかぁ。今日は凛ちゃんとあんまり話せなかったの残念だったなー。またすぐ会えるけどね!」
     うっすらと笑みを浮かべた蜂楽とは対照的に、ツンとした態度を崩さない凛は『さっさと行くぞ』とばかりに潔のリュックの持ち手を掴んで引き寄せる。
     急な勢いにひっくり返りそうになるのをなんとか持ちこたえた潔が後ろにいる凛を睨みつけるものの、凛は何が悪いのかと言わんばかりに目線を合わせるだけだった。
     悪気なさそうな瞳を見ているうちに毒気を抜かれた潔は、自分よりも上にある頭に手を伸ばすと一度だけ緩く撫でる。
     すぐさま嫌そうに顔を振って持ち手を離した凛が、ドスドスという足音を立てながら上がりかまちに向かう一部始終を見ていた蜂楽が今度こそ声を上げて笑った。
     「あはは! 二人とも、まったねー!」
     そんな二人に向かって、蜂楽は全力で両手を振って見送ってくれる。
     蜂楽の声が聞こえたらしいメンバーの数人も潔と凛が帰宅する事に気が付き、口々に別れの挨拶と手を振っているのが潔の視界に映った。
     けれど蜂楽と千切の二人に挟まれている國神だけは、机に突っ伏したままピクリとも動かない。──ヒーロー國神、ここに眠る。アーメン。
     くだらない文言を頭にぎらせながら、潔は既に靴を履いて待っている凛を追いかけるように急いでくたびれ気味のスニーカーを履いた。
     もしかしたら自分が國神側の立場にいた可能性も充分にあったが、なんとかセーフだった事に胸を撫でおろしながら。


     □ □ □


     水滴の落ちる髪を白いフェイスタオルで拭きながらバスルームから出てきた潔は、まとっているホテル備え付けのバスローブの裾をひるがえしながら部屋の中央にあるベットへと近づく。
     そこには着ていたロングコートをベッドの下に放り出し、うつ伏せかつ大の字で横たわっている凛の姿があった。
     「マジで結構飲んでたんだなぁ……」
     すうすうと安らかな寝息を立てつつ眠っている凛を見ながらぽつりと呟いた潔は、ベッドの端に腰かけ、普段からは考えられないくらいあどけない表情をしている凛の長い前髪を指先ではらう。
     凛と潔が店舗を出てからすぐに大通りで捕まえたタクシーで約四十分弱走って辿り着いた都内の一等地に建つ高級ホテル。
     タクシーの後部座席に座り、ホテルの名前だけを伝えてからはひたすら潔の肩に頭をもたれて目を閉じていた凛は、この部屋に戻ってからもずっと沈黙を貫いていた。
     あの場で伝えた通り、送るだけ送って自身のホテルに帰るつもりだった潔の手を掴んだまま凛がドアのロックを解除した時点で、今日はここに泊まる事が確定したのを潔は理解したのだ。
     特に何も言われずとも、手を掴んでくる指先に『帰るな』という凛の意思を汲み取ったからだった。


     青い監獄ブルーロックから世界各地へと飛び立ったメンバー達は、それぞれにスカウトされたチームの中でどんどんと成長を遂げていく。
     それはサッカーだけを見つめ続けてきた潔たちにとって、最高の環境だと言えた。
     進化を重ね、敵として対峙し、ただひたすらに勝利の為に互いを喰らい合う。そういったライバル関係は青い監獄ブルーロック時代からさしたる変化は無い。
     そんな環境下で唯一変わったのは、凛と潔の関係性だけだ。
     凛にとってのキッカケがなんだったのかは未だに潔には分からない。聞いた事も無かった。
     ただ、過去に対戦した際に歴史に残ってもいいくらいの非常にいい試合をして、その日の夜に勢いのまま食事に誘ったのが最初だったのは覚えている。
     どうせ断られるだろうと考えていた潔の予想を裏切って、凛はその誘いに乗った。
     そこから試合で敵同士になれば、勝敗に関わらず悔しさや喜びを胸に夕食を共にし、その日の反省や総評を語り合うようになった。
     かつて青い監獄ブルーロックで"最良のパートナー"と絵心から評されたのもあり、凛と潔のサッカーに対する思考はよく似ている。
     だからこそ、敵であっても考察を一緒にする事で得られるモノは非常に多かった。

     そうしていつしか試合の日だけではなく、何でもないオフの日にも凛と潔は時々会うようになった。例えば、『お前の家の近くにあるジェラート屋に久々に行きたいから』だとか、そんな適当な理由と手土産を携えて。
     理由にもならない理由を作ってまで国境を越えて潔は凛に会いに行くものの、蜂楽たちと過ごす時のような気安い会話や遊びを行う事はほとんどない。
     わざわざ時間と金をかけて互いの自宅に行き来しても、片方はゲームをして、もう片方は映画を見ていたりとバラバラな事をするのなんてしょっちゅうだったし、中間地点で食事だけしてあっさりと解散したりなども良くある出来事だった。
     でもその時間が何よりも心安らぐ時間になっていくのを、潔はきちんと自覚していた。
     一から十まで言わずとも互いに考えている事を察せられる。そういう付かず離れずの関係。
     売り言葉に買い言葉で喧嘩をするのも多々あったが、それでも会おうと連絡すればその日を空けておいてくれる凛に安心したし、逆にそろそろ連絡が来るだろうと丸一日予定を空けておく場合もある。
     当然のように空けておいた日を指定してくる凛のメッセージを見て、潔が画面に向けて笑った回数はもう覚えていないくらいだった。
     ヨーロッパという異国の地に自分の意思で足を踏み入れたとはいえ、寂しさが全く無かったといえば嘘になる。
     青い監獄ブルーロックで勝利の方程式を徹底的に叩き込まれたバスタード・ミュンヘンを選んだ過去の自分は正しい選択をしたと思っているし、ドイツでの生活に何ら不満はない。
     その上で、凛と構築している友情ともライバルとも言い表しにくい不可思議な関係が潔の芯を支えていると言っても過言では無かった。


     「……ん……」

     前髪をけるついでに頭を自然と撫でていたらしく、潔の掌の下でむずがるような声を上げた凛に意識を戻す。
     うっすらと開かれた瞼が何度か瞬きをしている様を見つめていると、うつ伏せだった凛がベッドの上で仰向けに変わり、焦点の怪しい瞳が潔と天井を行き来していた。
     視界が回っているのだろうかと不安になる潔へとようやく戻ってきたターコイズブルーは、わずかに濡れている。
     絶妙な色気に満ちたその瞳を見ていた潔は、さり気なく目を反らすと肩にかけていたフェイスタオルの端で鼻先を擦った。
     会う回数が増える度に、凛は無防備な姿を潔に晒す事を気にしなくなった。それに対して友情が深まっているだけなのだと思っていても、男から見ても美しい顔立ちをしている凛は、時々ではあるものの潔の理性を惑わせる。
     その度に、潔は何も見なかったフリを試みるのだ。それが最良の択だと信じて。
     けれどそんな潔の努力など何も知らない凛は、面倒くさそうにVネックの襟元に指をかけて小さく呟いた。
     「……あちぃ……」
     上質な生地で縫製されているだろう服を容赦なく引っ張る凛に、思わずフェイスタオルから手を離し、その手を抑え込む。
     明日起きて襟元がたるんでいるのを見たら、凛はその行為を止めなかった潔に苛立ちを向けるだろう。
     どう考えても潔に責任は無いのだが、これまでの経験と凛の性格を熟知しているからこそ、そんな未来は簡単に予想出来た。
     「ダメだって。引っ張んなよ。いくらそうやってても脱げないから」
     押さえられた手を見てから、その腕を伝って潔を見つめてくる凛は襟元を引く力を弱めたかと思うと急に黙り込んでしまう。
     恐らく今の凛は思考能力が極端に低下しているのだろうと結論付けた潔は、凛の手を離してトップスの裾へと両手を移動させる。
     とりあえず上を脱がせておけば暑さは何とかなるだろう。バスルームに置かれていたローブはもう一着予備で残っていた筈だから、必要であれば着せ掛ければいい。
     そもそも、これは介抱なのだと思い出した潔は出来るだけ明るい調子を保ちつつ、黙って潔を見つめている凛へと微笑んだ。
     「ほら、万歳出来るか? 凛」
     まくり上げたトップスの向こう側、いつもよりも体温の高い引き締まった肉体があらわになる。
     触れないように気を付けながら胸元まで押し上げると、抵抗も無いまま両手を上げた凛の体から引き抜かれたニットは無事、潔の手の中に収まった。
     下から剥ぎ取ったせいで裏表が逆になってしまったそれを膝の上に乗せて直しがてら畳む潔の鼻腔には、凛が身に着けているオーデトワレの残り香が入り込んでくる。
     ラベンダーとユーカリの奥に潜む爽やかなハーバルグリーン。簡単には触れさせないような鋭さの中にこちらを惹き付けて止まない強い主張があるものの、けして気高さを失わない。
     嗅ぎ慣れている筈なのに、それでもふと、目で追ってしまう。──凛の匂いだ。
     「う、わ……!」
     「いさぎ」
     「ッ……ちょ、……ま……」
     その匂いに意識を取られたほんの数瞬。横たわっていた筈の凛が飛び起き、気が付けば潔はベッドの上に押し倒されていた。
     さながら猛禽類の捕食シーンのように、両手で潔の肩を掴んだ凛が潔の上へとまたがる。
     あっさりと取られてしまったマウントポジション。その上、凛の目は据わっていた。
     このままではマズイ、どうにか主導権だけは握らねばならないと潔は焦る頭を回す。
     「なに、凛。どうしたん」
     「……どうもしない」
     「いやいや、この格好は可笑しいだろ。流石に俺もビックリするし。……なんもないなら下りて?」
     「ダメだ」
     『下りて?』という子供にかけるようなセリフを使ったのは、潔なりの酔っている凛への配慮のつもりだった。
     『ふざけんな、重いからどけよ』だとか、そういう言葉を使う方が楽なのは分かっている。
     でも、凛が信頼している相手に拒絶されるのを本当は誰よりも恐れているのを潔だけは知ってしまっていた。
     単純に心が弱いという事ではなく、凛の中で深い傷口になっている場所のかさぶたがまだ治りきっていないのだ。無理矢理引き剥がすという所業など、出来るワケが無い。
     そうして、それ以外にも酒を飲んで驚くほどの素直さを見せる凛の本音が零れ落ちる様が新鮮に映ったのもある。
     この問いを投げ掛けるのは今後の関係にも影響を及ぼしかねないのを理解しながら、思わず潔は唇を動かしていた。
     「…………なんでダメなの」
     「……こうやって、捕まえておかねぇと……」
     両肩を掴んでいた凛の手の力がかすかに緩んで、右手が首筋を通り、頬を撫でる。
     長い指先が輪郭を辿るように耳下から顎先まで触れたかと思うと、親指が呼吸を続ける唇の上を這った。
     その一連の動作は、ずっと触れたくて仕方なかった物に向ける恭しさすら感じてしまう。
     相も変わらずに身勝手な雰囲気をまとっているクセに、と文句の一つでも言ってやりたくなるものの、そのまま触れてきていた唇へと凛が近づいてくるのに反応が遅れた。
     掠めた唇は薄くも柔らかい。勝手に詰めてしまった息を緩やかに吐き出せば、間近で瞬く深みあるブルーが長い睫毛の奥で潔だけを見つめている。
     「逃げるだろ、お前」
     「……あー……そういう事……」
     諦めによって洩れた溜息交じりの潔の声を聞いた凛の眉根が寄った。
     逃げているつもりは無かった。何も理解していなかったという方がどちらかと言えば正しい。
     だが、潔が最良の択だと思って拾ってきた選択肢を"逃げ"だと捉えられても可笑しくはなかった。
     だとしても、だ。この糸師凛エゴイストはいつだって潔の死角から強烈な一撃を容赦なくお見舞いしてくるのだからたまったものではない。
     潔の同意を得る前に、先ほど掠めた唇が今度は湿った髪へと落とされ、続けて瞼から頬、また口元へと戻ってくる。
     チュ、チュ、と軽く音を立てて施されるキスの雨に『ここまでしてもまだわからないのか』という凛の苛立ちを感じ取った。
     もうどうにでもなってしまえ。ぼんやりとし始めてきた脳がそう潔に向かって指令を下す。
     凛が酔っているのと同程度ではなくとも、潔の血中にも十分にアルコールは回っていた。

     自由になっている手を頬にえた潔の前で、伏し目がちになった凛がその掌にすり寄る。
     誰にでも懐くワケではない。気性の荒い巨大な肉食獣めいた生き物。黒い毛並みがサラリと動いて、ターコイズブルーの瞳がもう一度潔を強く見据えた。
     肉食獣に喰われる獲物が最期に見る光景は、これくらい圧があるのかもしれない。
     とんでもない空想が浮かんだ瞬間、凛の顔が寄せられ、掠めるだけだった唇が隙間なく合わせられる。
     どちらも閉じないせいで至近距離で混ざる視線に今までには無かった熱気が確かに存在していた。
     そして、早く開けと急かされるように熱い舌先が唇の合わせ目に潜り込んで、容赦なく貪っていく。
     「ぅ、ん、……っ……は、……」
     「っは……」
     これまでの付き合いで、凛の表情をあらかた見てきた自信が潔にはあった。
     けれど必死に自分の唇に喰らいついて来る凛の顔は初めて見る光景で、脳の中で白い閃光がぱちぱちと弾けては消えていく。
     焦がされていくシナプス。ずっと欲しくても気がつかないフリをし続けていた景色が今、目の前に広がっていた。
     触れ合った唇から、クチリと濡れた音が響いて、うっすらとレモンの風味がして。
     奪い取って飲み干したレモンサワーの味はどちらのモノかも分からない。
     頬を撫でていた手を伸ばして、凛の背中に指を這わせる。
     縋るように軽く爪を立ててしまったものの、熱くて滑らかな皮膚が掌に吸い付くようにそこにあった。
     「……は……ッぁ……」
     「……にげんな……潔」
     呼吸が段々と苦しくなって、無意識に身をよじる。
     潤みだす視界に思わず口腔内を好き勝手にいじくり回す凛の舌先を緩く噛んだ。
     その主張にわずかに唇を離した凛が潔の髪を鷲掴んで、顔を上向かせる。
     こんなにも激しく情欲を煽るキスをしたのはいつぶりだろう。

     渡独してから、お節介気味のチームメンバーに紹介され、一人や二人そういった関係になった時もあった。
     けれど、どうやったってサッカーの事しか考えられない性分であったし、自分がリードする側になるのなら出来るだけ優しくしなければという意識の方が強まる。これ以上はダメだろうな、とか。そういった遠慮が出るのだ。
     それ以前にそこまで夢中になれなかったというのもあった。けして出会った彼女たちが悪かったワケでは無い。
     広いフィールドで白と黒で構成されたボールをライバルたちと奪い合っている時の方がよっぽど興奮するというだけの話。
     潔の"サッカー愛"にお節介を焼いていたチームメンバーはもう何も言わなくなったのもあるし、最後に交際していた女性から『ごめんなさい』を告げられた直後に凛と頻繁ひんぱんに連絡を取るようになったから、結果的にそんな事にかまけていられないくらいにオフが忙しくなってしまったのだ。
     「……あ……」
     再び、シナプスがぱちりと弾ける。
     流石にそんなのは自意識過剰が過ぎると脳が必死に演算を繰り返す。
     この男にそんな殊勝しゅしょうな心があるのか? いや、でも、案外コイツは"良い奴"だから。
     潔の困惑にいぶかしげな顔をしている凛に向かって、潔は演算の結果出た最終解を呟いていた。
     「……お前、俺がフリーになるのずっと待ってたとか……ある?」
     おずおずと潔がそう発した時点で凛の瞳孔が一瞬丸くなって、うっすらと潔にしか分からない程度の笑みを浮かべた。その無言は肯定だ。
     さらに言葉を重ねようとした潔の髪をもう一度強く引いた凛が唇に喰らいついて来る。
     相変わらずの苛烈さの中、少しずつ凛の動きが鈍くなっているのに気が付いた潔は三度目の息継ぎのタイミングに背中に回していた手で凛の背を軽く叩いた。
     「りん」
     「……んだよ」
     「マジな話、別にお前となら良いんだよ、俺。でも俺の予想だとお前がたないだろ、多分」
     「はぁ? テメェはここに来てもまだ節穴なのか? お前だから押し倒してんだろうが。つに決まってんだろ。バカにすんな」
     潔の言葉に憤慨ふんがいした様子の凛は、目を吊り上げて潔を睨みつけた。
     自分の行為が勢いだけで行われた突発的で浅はかなモノだと思われているのが不快だとありありと示している。
     そうじゃない、と潔は緩くシーツの上で頭を振って凛の目元をさすった。
     「違うよ。お前の活動限界があと五分くらいだろって話。やだよ、俺、途中までで放置されんの」
     「……そんな事ねぇ」
     目元を慈しんでいた指先が今度は頭へと動いて、毛流れに従って黒髪を撫ぜていく。
     本気でこのまま夜のふちに腰かけた勢いでふたり溺れてしまうのだって構わないのだと、伝えるように。

     潔の意図を理解したのか、長い睫毛の奥で鎮まっていく瞳が抑え込んでいたらしい眠気で濁っていく。
     この機会を失ったら、もう次は無いと考えていたのだろう凛のいじらしさを嗅ぎ取った潔は出来る限り優しく微笑んだ。
     「眠いくせに」
     「……じゃあ明日にしてやる」
     「そーしろそーしろ。俺は逃げたりしねぇから」
     最後の一押しとばかりに落ちてきていた髪を耳へとかけてやる。
     『逃げない』という声の穏やかさに、それが嘘ではないと理解したらしい凛が小さく頷いて緩く掴んでいた潔の髪を離す。
     そうして、ぐらりとかしいだ凛の体が遠慮も何もなく潔の上にのし掛かってくる。
     百八十センチを優に超えた体躯たいくが一気に体重をかけてきた事で、蛙のようにぐぇ、と呻いた潔の真横で既に寝息を立てている凛の寝顔は穏やかだった。
     「五分も持たねぇのウケるな」
     のし掛かってきている凛を横へと転がした潔は、ついに我慢出来ず満面の笑みを浮かべつつ囁く。
     体の中で渦を巻く熱を何度か深呼吸をして腹底へと押し留め、乱れたバスローブの胸元を戻す。下も脱がせてやろうかと思っていたが、それをしてまた眠れる獅子を起こすワケにもいかないだろう。
     それに凛は潔宅に来た時も暑い日は上半身だけ脱いで寝るなどざらだった。
     「……とっとと寝よ……」
     ベッドからそっと立ち上がり、振り返った先には先ほどの熱烈なキスなど無かったかのように静かに眠る凛の姿。
     ふと、これだけの事をしておいて明日の朝には凛が一切合切を忘れていたらどうしようと、潔はほんの少しだけ心配になった。
     これほどまでに酒に酔った凛を見た事がなかったのもあるし、あれだけの素直さを発揮はっきするなんて思ってもいなかったからだ。
     自分だけが振り回されて、明日になったらすっかり元通り……なんて羽目になったら困る。
     仮に凛が忘れてしまっていたとしても、既に凛の気持ちを知ってしまった以上、前と同じように接せられる気もしない。
     だからこれはちょっとした仕返しと、夢では無かったのだと明日の自分自身に向けたメッセージ。
     一度立ち上がったベッドに片膝を乗せ、眠っている凛の首筋の見えにくい場所に顔を寄せた潔は、慣れないながらもそこに吸い付いて薄くも赤いあとを残した。
     「これでよし。……って、俺も相当酔ってんな……」
     所有の印だなんてこれまで他人に刻んだ事など無い。興味も無かった。
     煩わしそうに眠ったまま頭を振って反対側に寝返りを打った凛の背中を見てから、今度こそ潔は洗面所へと向かったのだった。


     □ □ □


     「クソアホ雑魚バカ」
     「すんげぇナチュラルに罵倒すんじゃん……何食ったらそんなナチュラルボーン暴君になれるワケ?」
     「……肉と魚と米」
     「それは俺も幼少期から食ってますけど」
     「くだらねぇ……」
     チッと舌打ちを零した凛が頭を片手で押さえる。
     あの後すぐに自分と凛の上に布団をかけ直して眠った潔が次に起きた時、それは凛が理不尽にも潔の頭を小突いたタイミングだった。
     いきなりの衝撃に目を白黒させて瞼を開けた潔の目の前には、気怠そうな凛の姿。
     のっそりと体を起こして自身が上半身だけ何も着ていないのを確認したらしい凛は、ヘッドボードに身を凭れさせつつ掠れた声で特に変わった様子も無く挨拶代わりの暴言を吐いてくる。
     それも慣れたものだと潔が返せば、冗談が戻ってくる辺り、そこまで酷い二日酔いでも無いのだろう。
     巨大な窓にかけられた豪奢ごうしゃなカーテンの下からは淡い光が射し込み始めている。ベッド横の時計を見れば、もう起きても良い頃合いではあった。
     今日は他の仕事も無く、絵心から告げられていたミーティングの日でもない。
     どうせ飲み会の後は使い物にならないというのすら察していたのだろう。
     スケジュール管理をしてくれている帝襟とマネージャー各位には感謝の気持ちしかない。
     頭を押さえていた凛は、ハァと深いため息を吐いてから上に掛けられていた布団を外して立ち上がる。
     昨日よりかはしっかりとしている足取りに安堵しつつ、バスルームに向かうらしき凛に潔は声をかけた。
     「腹減ったからルームサービス頼んで良い? 最初からそのつもりだろ?」
     「……好きにしろよ」
     「凛は何食べる? 俺は折角だし和食にすっけど」
     「適当に頼んどけ」
     「んー」
     凛から目を反らし、ごろりとベッドの上で回転しつつベッドサイドにある電話を確認した潔に向かって、遠ざかりつつも凛の声がした。"適当に"というのは"お前と一緒のでいい"という事だろう。
     ベッド脇の照明操作盤で室内のライトをつければ、薄暗かった部屋にほのかな明かりが灯った。
     見えやすくなった視界の中、操作盤の横に設置されたフロントへと続く電話を掴んだ潔は一度咳払いをしてからその受話器を上げる。
     そうして軽やかなコール音の後、丁寧な朝の挨拶をしてくれたフロントマンにルームサービスの依頼を無事告げた潔は、なるべく音を立てないように受話器を置いた。
     潔が取っているホテルもそこそこグレードの高い場所ではあるものの、凛の選んだホテルに比べたら格は下がる。
     実家に帰るという選択肢もあるにはあったが、どうせ仕事尽くめの上、青い監獄ブルーロックでのミーティング回数が多いのも分かっていたのでホテルを取ったのだ。それが幸か不幸か事態を進展させたのではあるが。
     「……これは、どうすべきなんだ……?」
     ポツリと呟いた疑問は広々とした空間に溶けていく。
     凛が全く覚えていないとは考えにくいが、あまりにも起き抜けの対応がこれまでと何ら変わらなかった。
     そのままもう一度、体をベッドの上で反転させて仰向けになる。
     見上げた天井は高く、昨晩は気が付かなかったがデザイナーの意匠が細やかに反映された室内はホスピタリティにあふれていた。
     質の良いバスローブの心地よさも、全ては昨夜感じたのと何一つ変わりなくそこにある。
     その上で、凛がシャワーを浴びているかすかな水音もドアの隙間から聞こえてくるのが潔を不思議な気持ちにさせた。
     「ま、考えてもしょうがないな」
     しかしながら"適応力の天才"とすら称される潔にとって、この程度の状況など大した問題にはならない。
     少なくとも凛が潔を好いていて、潔が凛を好ましく思っている。その事実だけは揺らがないのだし、とポジティブに捉えられるのだ。
     そんな風に考えていると、シャワーを浴び終わった凛が腰にタオルを巻いた格好で部屋へと戻ってくる。
     濡れた髪が煩わしいのかオールバックに掻き上げた凛は、特に潔に気を遣うでもなく、自身の持ってきていたスーツケースの中から着替え一式を取り出すと寝そべっている潔に向かって視線は向けないまま声をかけた。
     「シャワー浴びんのか」
     「浴びたいけど着替えがねぇし。まぁ、俺は昨日入ったからいいよ」
     シャワーを浴びたとは言え、昨夜の一件で汗を掻いているのは掻いているから入りたい気持ちはある。
     しかしこのホテルに泊まる気などさらさらなかったのもあって、何一つ準備してきていないのだ。
     そんな事分かっているだろうに、と思う潔に向かって急に何かを後ろ手に投げてきた凛に驚く。
     投げつけられた物はベッドの上に着地し、黒いワイシャツとパッケージに入ったままの新品の下着や靴下類一式である事が分かった。
     「テメェじゃ丈が余るだろうから下は我慢しろ。飯食ったら出るぞ」
     「え?」
     「買い物に付き合え」
     「どこ行くんだよ」
     その問いにはもう答えずに、黙々と自分の着替えを始めてしまった凛の後ろ姿を見ながら再び潔は溜息を洩らした。やはりこの男は相当な暴君である。
     どちらにせよ、ルームサービスを持ってきて貰う前に自分も着替えをするなりシャワーを浴びるなりしなければならない。
     手に取ったシャツを広げると、青い監獄ブルーロックから結局縮まらなかった所か差を広げられてしまった体格差がハッキリと伝わってくる。
     凛の事だから体調を整える為に今日は一人で過ごすのだろうと考えていたのだ。
     なので一緒に朝食をとるだけして自分のホテルに帰り、今日一日の予定を決めればいいと考えていた。
     これはまだ一緒に居たいという凛の気持ちの表れなのだろうか。後ろを向いている凛の顔が見えないせいで思考が読めない。
     とりあえず一旦冷静になる為に、広げたシャツをシーツに置いてから勢いよくベッドから立ち上がる。
     足裏に触れるラグの柔らかな質感が昨日よりも鮮明に感じ取れているのを自覚しつつ、言われるがまま凛の言う事を聞く自分も凛の暴君さにすっかり慣れ切っているのだと潔は苦笑した。


     様々なブランドショップが混在している商業施設は、平日の昼間だというのもあってそこまで混雑していなかった。
     一般的な社会人や学生も休み期間ではないし、海外の旅行客が来るにしてもシーズンがズレている。それに対して潔は内心安堵していた。
     青い監獄ブルーロックで撮影されていたBLTVもあり、青い監獄ブルーロックに居た頃から声をかけられる回数は多かったが、潔と凛がサッカーで活躍すればする程にそれらはますます増えている。
     基本的に人当たりの良い潔にとって、多少のファンサービスは仕事の一環だと割り切れた。けれど、凛はよっぽどの事が無ければファンサービスなど施さない。だからこそホテルからタクシーを使おうと言ったのは凛の方だ。
     潔は電車に乗るのでも構わなかったが、フランスで生活している凛が煩わしさを嫌って自家用車と国際免許をいの一番に取得したのを知っていたので文句を言うつもりも無い。
     そんなこんなで乗り込んだタクシーの車内では、凛はずっと外を見ていたし、潔はスマホで蜂楽から来ていたメッセージを返したり今朝のニュースを確認していたのもあって互いに何も話はしなかった。ついでに昨日は凛が凭れてきていた肩先にも重みはなかった。
     けれど、当然のごとくタクシー代を払った凛は、あっという間に辿り着いた施設内を颯爽さっそう闊歩かっぽしていく。
     「なぁ、なに買う予定なの」
     「……靴」
     「靴? 丁度俺も買いたかったんだよなー」
     足のコンパスが違うものの、特に苦も無くついて来る潔に一瞥いちべつだけを投げた凛はそのまま施設の奥まった場所にある靴屋へと一直線に向かった。──そこではたと、潔は気が付く。
     基本的に凛は私服時に革ジャンやロングコートを着ている事が多く、履いている靴もそれに合わせてシックな革靴やブーツである事がほとんどだ。
     勿論、朝のロードワークにはランニングシューズ、それから試合ではスパイクを履いているものの、フランスの大企業がスポンサーについているのもあって大体はプレゼントされたりオーダーしたりしている。
     しかし、凛が向かっている靴屋はどちらかと言えばカジュアルなテイストの物が多く取り揃えられており、潔が日本に来た際は必ず見に行くブランドの店舗だった。

     何故凛はあの店に向かっているのだろう? と潔の疑問を他所に、凛は店内へと歩を進めていく。
     入った店舗の壁面に設置された棚には色とりどりの靴が並び、比較的広い店内は明るい暖色系のライトに照らし出され、商品を隅々すみずみまでより良く見せていた。
     何名かの客とスタッフが店内を回っているが、凛が店内に入った途端にほぼ全員の視線が凛へと注がれる。
     しかし"糸師凛"であると察したのか、知らないけれど存在感のある凛に自然と目線が引き寄せられただけなのか皆、見ていたもののすぐに視線を反らした。
     仮に"糸師凛"であるならば、声をかけただけでも何を言われるか分からないとネットで持ち切りであるし、正体不明のイケメンだとしても、まとう雰囲気が酷く冷たそうに見えるものだから、いつまでも眺めていたらどう思われるか分からない。恐らく、店内に居る人たちの考えはそんな所だろうか。
     凛と共に出かけると往々おうおうにしてこういう状況になりがちな潔は、凛から付かず離れずの距離で好みの靴を探す事にする。
     近頃は多忙なのもあり、ネットで買い物をするのが多かったが、こうして日本に一時的にも帰ってきたのならばなるべく外に出たい。
     周囲がドイツ語であふれている環境にはとうに慣れたものの、聞こえる言語や表記されている文字が日本語なのは潔にとって、里心を満たすのには十分だからだ。
     「……お」
     ふと天井に近いくらいの上段にある靴に目が行き、ついつい興味のひかれた声が洩れる。
     全体には白を基調としているが、ポイントで使われている緑と青の差し色のバランスが丁度いい。
     あまり厚底でも無く、カジュアルさもあり、どんな服装でも合いそうなそれを取ろうと潔が手を伸ばすものの、その前に知らぬ間に隣に来ていた凛の手が靴を掴み取った。
     「サンキュー、凛」
     「お前はチビなんだから言えよ」
     「チビじゃねーって。お前がデカいの」
     全く、一言余計なんだから。ぶちぶちとそう言う潔の前に靴を差し出した凛はジッと潔を見つめ続けたまま。
     普段凛と買い物に行く時は、一緒の店舗内に居てもそれぞれに自分の物を探す方が多い。要は個人行動をしがちなのだ。
     けれど今日の凛は潔から離れるつもりはないらしく、早くしろとばかりに潔の動きを注視していた。
     まぁそんな日もあるかと、傍にある椅子に腰かけながら一番近くで別の客に対応している店員にアイコンタクトを取る。
     店員が穏やかな笑みで会釈を返してきたのに安心した潔は、履いている靴を脱いで新しい靴特有の固さがあるそれを履く。
     そうしてしつらえたようにピッタリと両足を包んだ靴の履き心地を確かめる為に椅子から立ち上がり、その場で足踏みをしてみせた。
     「やっぱりこれめっちゃいいわ。気に入った!」
     「……そうかよ」
     「うん。もう買ってくるよ。 凛は? 他に見に行かなくていいのか」
     嫌に当たる箇所も無く、軽やかさも十分。散歩時にも普段使いにも良さそうなこの靴は履いた瞬間から購入すべきだと潔は心の中で決定していた。
     もう一度椅子に座り、履いてきた靴に戻しながら丁重に試着した靴を腕に抱きかかえる。
     最初から日本に帰ってきた際には新しい靴を買おうと考えてはいたものの、一発でここまで気に入る物に出会えるとは運がいい。
     「俺は良い」
     機嫌よくその靴を見ていた潔に向かってそう言った凛に、首を傾げる。凛が靴が欲しいと言い出してこの場に来たというのに。
     やはり疑問符が脳内に浮かび上がっている潔の腕の中にある靴を取り上げた凛は、風のような速度でレジの方まで歩いて行ってしまった。
     「……あ、おい。凛?」
     まさか、と思っている潔の様子を気にも留めずに行ってしまった凛を慌てて追いかけた潔がレジにたどり着いた頃には、靴は紙袋にしまい込まれ、カードで支払いを終えた凛が店員から袋を受け取っている最中だった。
     さも当然のようにその袋を潔に差し出してきた凛の意図がまだ読めない。
     だが、早くしろとばかりに胸元に押し付けられれば受け取らないワケにはいかなかった。
     入ってきたのと同様に颯爽さっそうと店舗を後にしようとする凛の隣に潔もまた追いつくように足を動かす。
     「マジで良いの? お前の買わなくて」
     「言ったろ。靴買いに来たって」
     「うん……うん? 最初っから俺のやつ買いに来たって事?」
     無言で潔を一顧いっこしてからまた前を向いてしまった凛の横顔は、特に変化が無いように見えた。だが、直近で潔の誕生日があるのでもなく、何か祝われるような特別な事柄も無い。
     しかも靴を他人に贈るというのは、どちらかと言えばネガティブな意味合いの方が海外では強い。
     そんなつもりは無いのかもしれないが、凛の思考が分からないのもあって、どうしても不安になってしまう。
     凛が覚えているのかいないのかは別にしても、このままの友人関係を継続した方が良いのは潔にも理解出来た。
     互いに酒を摂取し過ぎた状況で、一緒の部屋に一晩泊まっただけ。本気の過ちも起こらなかったのだからまだやり直せる。
     けれど、凛がこうやって何かを潔に自発的に与えようとするのは初めての経験だった。

     もう直接意図を問いただした方が早い、と潔は凛の着ている上着の肘辺りを軽く引いた。
     隣に居る潔のその動きに気が付いたのか、ゆるりと凛が振り返る。
     揺れる前髪の向こう側で、昨夜見た記憶のある目が潔を射抜いた。
     フィールド上で自分が潰すべき獲物を余さず喰らおうとする際にも似ている、激しさと熱を帯びた見惚れる程に美しいターコイズブルーの瞳。
     「……ぜんぶ……覚えてるなら、そう言えよ……」
     思わず地面にへたり込んでしまいそうな程の衝撃と、勝手に頬に熱が集まるのを隠す為に片腕で顔を押さえた。
     そんな潔に向かって一歩近づいてきた凛は表情こそ変わらないものの、ほんのわずか見えている耳が赤くなっていてそれが余計に潔を混乱させる。
     青い監獄ブルーロックに居る時のメンバーや現在のチームメイト達から"朴念仁ぼくねんじん"やら、"乙女心の分からない奴"などと言われ続けてきた潔ではあったが、流石に人並みの羞恥心と恋心は持ち合わせていた。
     「……忘れたなんて一言も言ってねぇだろうが」
     「そうだけどさぁ……ってかなんで靴? お前らしいっちゃらしいけど……勝手に色々深読みした俺がバカみてぇじゃん」
     「……あ? お前がボロいの履いてっからだろ」
     疑問と共に首をかしげた凛に、その発言をした事を潔は後悔した。
     説明しろという無言の圧を感じ取り、顔を押さえていた腕を外して近づいてきた凛へと視線を向ける。
     「手切れのつもりとかさぁ、……期待するなとか。……靴を贈るのって『その靴を履いて自分から離れていけ』とかいうジンクスあるじゃん……まさにそれかと思ったわ」
     「バカ言ってんじゃねぇ。俺が買ってやったモン履いて違う場所に行くなんざ、許可すると思うのか」
     「そういう奴だよな、お前は……」
     心底不愉快だというのを隠さずにそう言った凛の周囲には、怒りの感情が漂っていた。
     「潔」
     「……なに」
     「これからテメェの泊まってるホテル行くぞ」
     さも当然のように突飛な発言をした凛に、目を丸くした潔は手に持ったままの袋を無意識に抱え込んだ。
     「どうせなら色々見て回ってからのつもりだったが、気が変わった」
     「なんで俺のホテルに行くんだ……?」
     「チェックアウトして俺の居る方に来い。荷物も大して無いんだろ」
     「だから、なんで勝手に決めるんだってば……俺行くなんて一言も……」
     「うるせぇ」
     潔の腕を凛の手が鷲掴み、シャツの上から指先が食い込む。周囲に人が居るというのに、目の前の凛にしか意識が向かない。
     かつて、大舞台を目前に『俺を見ろ』と言った凛の姿を思い出す。
     年月が経ってもあの日の歓声と勝利を忘れた日は無く、凛に言われた数々の発言を潔が忘れた事は一度たりとも無い。
     「逃げたりしないんだろ。とっとと諦めて腹括れ」
     考えてみればそれはずっと呪縛のように潔の中に存在していた。
     そうして一度気が付いてしまえば最後。それを見て見ぬフリをするなんて不可能なのは分かり切っている。
     ならばもう結末は決まり切っていて、逃げる逃げないなど関係なくそこに至る道筋しかない。
     「……分かったよ。約束したもんな」
     強気さを滲ませつつ凛を見上げ、そう囁いた潔の腕から凛の指先が離れていく。
     昨夜のようにアルコールで酩酊めいていした思考ではなく、互いのハッキリとした意思を持って同じ場所に帰ると決めた。そうして、この先にある未来を思い描けないほど愚かでも初心でもない。
     「凛」
     気恥ずかしさからか、既に少し先を行く凛に声をかける。
     体温が勝手に上がっていくのを止められない。おおよそ期待八割、不安二割といった所だろうか。
     きっと凛も潔と同じように、この後の未来を予測出来ている筈だ。
     手に持った紙袋が揺れる。不器用ながらも凛が潔を想って贈ってくれた初めてのプレゼントの重みが心地よい。
     紙袋を持っていない方の手で今度は振り返らなかった凛の背中に触れ、グッと顔を寄せて凛にだけ聞こえる距離にまで近づいた潔が囁く。
     「次は俺がお前にプレゼントあげる番……って事でいい?」
     ビクリと凛の体が硬直するが、すぐに硬直は解け、舌打ちと共に前を向いていた凛が潔を睨みつけた。
     心底嫌そうな顔をしながらも潔の頭に手を乗せた凛の大きな掌がその黒髪をかき乱す。そのまま潔の頭を引き寄せた凛は、耳元に吹き込むように低く囁いた。
     「クソが。……そこまで大見得切った事を後悔させてやるよ。潔」
     離れる間際、昨夜のうちに潔があとをつけたのと同じ場所を意味深に指先でなぞっていった凛に、もうとっくに自分は獅子を叩き起こしていた事を理解する。
     胸の中でさらに鼓動を速めた自身の心臓の音が全身に響く感覚を享受きょうじゅしながら、"せめて骨くらいは残して貰わないと"などと物騒な妄想が潔の脳内で浮かぶ。
     そして施設の外にあるタクシー乗り場の方向へと向かう凛に負けないくらいの早足で歩き始めたのだった。
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