なんでもない日 万歳! 黒い天板の上に並べた様々な食材と調理器具を見回す。
我が家のキッチンの管理者は主に同居している凛と、それからシーズン中にクラブから派遣されてくるハウスキーパーだ。
けれど自分が日本食を食べたくなった事もあり、昨夜のうちから『自分が明日の夕飯を作る』と息巻いて凛に宣言したのだ。
午前中に買い物を終え、午後のトレーニングの後、すぐにキッチンに立つ方が良いと察したのは久々すぎて包丁の扱いが自分でも怖かったから。
とは言っても、作ろうとしている物は非常に簡単な物ばかり──定番の日本食である肉じゃがに菜の花と卵のサラダと白米、余った野菜をごった煮にした味噌汁だとか。
フランスにも肉じゃがに似た料理はあり、ハウスキーパーが作ってくれる時もあるにはある。
白ワインとローリエなどのハーブで煮込んで作るらしい"ベックオフ"は大好きな料理のひとつで、冷蔵庫に作り置きを発見した際は嬉しくて小躍りしそうになるほど美味い。
だがしかし、今回は実家から送られてきた物資があるのだ。醤油や出汁や米などは当然ながら日本の物の方が数段味が良い。
パリの日本人向けマーケットに醤油もあるにはあったが、値段が高い上に状態も良くない事が殆どだった。
だからこそ実家から送られてきた貴重な調味料を無駄にすることは許されない。
そうして、とびっきりの美味しい夕飯を作って凛に喜んでもらうのだ。
まずは手を洗う所から。いそいそと着ていたスウェットの袖を捲り上げ、シンクの蛇口から水を出しつつ石鹸で手を洗っていると、水音に混じって小さな足音が聞こえる。
凛が自室でゲームをしている間に秘密裏に作っておこうと考えていたのだが、早速その計画は破綻してしまいそうだ。
案の定リビングに現れた凛はキッチンに立つ俺を見ると、片眉をあげてこちらに近づいてきた。
「本気だったのか」
「どういう意味だよ」
「……そのままの意味だ」
「ひっど。もぉ、早く部屋戻れよ」
手の水滴をタオルで拭ってから食材に手をつけた俺の隣に立った凛の手の中には、空になったマグカップ。
こちらの言葉に目を細めた凛は、マグカップをコーヒーメーカーにセットしがてら足元にある戸棚を指さした。
「使うなら左側のやつ使え」
「左? これ?」
指差されたオーブン横の戸棚を開くと中には何本かの包丁がストックに刺されている。
そのまま凛の方に顔を向けると、無言で冷凍庫から取り出したコーヒー豆をメーカーに入れている凛と目が合った。
使いやすいのがそちらなのだろうと納得しつつ、背後でコーヒーが淹れられていく音を聞きながら丸っこいジャガイモを手に取る。
一個ずつ皮を剥くのは面倒だが、こちらにはピーラーという武器があるのだ。
脳内で組み立てたイメージに従って、握り込んだジャガイモと一緒にピーラーを持った俺の背中に強い視線を感じた。ここまで見られていると緊張するから止めて欲しい。
首だけを後ろに回し、視線の主へと顔を向ける。すると長い睫毛をゆるりと動かした凛と目があった。
「なに」
「別に。……ちゃんと手元見てろ、怪我すんぞ」
「分かってるよ」
そこまで言われずとも子供じゃないのだから野菜の皮むきくらい出来ると、手元を凝視しながら指を動かしていく。
勢いをつけすぎないようにしつつ、剥かれていくジャガイモの白い表面が帯びるぬめりを水で流す。
どうにか一個目を剥き終わったタイミングで凛の静かな声が聞こえた。
「潔、米は」
「米……あ、忘れてた。まぁでも俺が作り終わる前に炊き上がりそう」
「……予約だけしとけばいいだろ」
今日は米を炊かなければならない事を失念していたのを凛の言葉で思い出した。
いつもは使っていない炊飯器を取り出して、米を研いで……という一連の流れが追加タスクとして発生したのもあり、思考しつつ止まっていた俺の後ろでメーカーから取り出したのだろうマグカップをカウンターに置いた音がする。
そうして何も言わずに凛がガタガタと音を立てて炊飯器を出しているのを察して、もう一度背後を振り返った。
「やってくれんの?」
「良いから手元見とけ。これで怪我したら殺す」
かち合った視線。呆れた顔をした凛がその綺麗な顔に似合わない炊飯器を持っているのが可笑しい。それから、心配している筈なのに口から飛び出したとびきり物騒な言葉も。
言われた通りに前を向き直し、二個目のジャガイモへと手を伸ばす。
ピーラーの刃先を当てて引き下ろす度にシュルシュルと簡単に皮がむけていく様は、もはや心地よさすら感じた。
「おい、ちょっとそっち避けろ」
「ん」
凛の言葉で半歩左にズレると、シンクの中に米の入った炊飯器の釜を置いた凛がスウェットの袖を捲っている。
俺の使っていた蛇口の向きを変え、釜の中に水を注いだ凛が釜に手を突っ込んで米を研ぐ姿を手を止めつつ改めて見つめた。
あの"糸師凛"が米を研いでいる。──なんだっけ、こういう状況を示す言葉があったような気がするのに思い出せない。
所帯じみた? 顔に似合わず? なんでも構わないけれど、こんな日常動作でもまるで絵画のように見えるこの男の美しさはとっくに慣れた筈なのに、たまに笑えるのは何故だろう。
「テメェ、見てないで早くやれよ。真夜中になる」
「はぁーい」
俺の視線に気が付いたらしい凛がこちらを見ないまま、眉根を寄せる。
流石に真夜中にはならないだろうと突っ込むのは止めた。確かにこの遅さではそれもありえなくはないと思ったからだ。
シャキシャキ、と長い指先が白い粒を混ぜて磨き、水を捨てて、もう一度水を満たしていく音に合わせるようにこちらも指を動かす。
フィールドの上で味方にも関わらず互いを喰い合うようなサッカーをする俺達も、こうしてオフになれば当たり前に隣に並んで生活を共にしている。
慣れ合うつもりなんてなかったのに、どうせ一生を添い遂げるならコイツしか居ないなんて結論に至ったからだ。
だって俺のサッカーに関する概念だけではなく、人生全部をぶっ壊したのは凛だったし、俺は俺で凛の心を土足で踏み荒らしたのだから。
そこまでやったなら、それなりの責任というモノがある。
そしてまだまだ長い人生を予見した時に、自分以外の人間の隣で呑気に笑っている凛の姿が想像だとしても絶対に許せなかった。
地獄だろうが天国だろうが、この地上であろうが、俺を壊したのならずっと隣に居るべきだ。
真っ当な思考では無くても、エゴイストとは、そういった生き物なので。
「凛」
調子よくジャガイモの皮を剥き終わり、今度はニンジンへと手を伸ばした辺りで捲っていた袖口が落ちてくる。
既に釜を炊飯器にセットした凛に声をかけて、視線だけで袖に意識を向けさせた。
こちらに近づいてきた凛は、丁寧とは言いがたい手つきで袖を捲り上げてくれる。水に触れていたからかヒンヤリとした指先が肌の上を一瞬だけ撫でていくのが心地いい。
「なにニヤついてる」
「んー? なんでもねぇよ。頑張って作るから、もうちょっと待っててな」
「……フン」
鼻を鳴らした凛がさりげなくこちらの頭に一度手を乗せ、マグカップを持ってリビングにあるソファーへと向かった。
部屋に戻らずにいるのは、俺が呼んだらすぐに駆け付けられるようにだろう。
言葉は素直ではないが、行動は素直な凛はやっぱり何年経っても可愛い。
そんな凛の背中を見送ってから気合を入れ直し、ニンジンへと向き合う。まだまだやらなければならない事は多いのだ。
□ □ □
落とし蓋をした具材が鍋の中で煮えている。
ふんわりと醤油やみりんなどの匂いが漂い、隣で作り終わった味噌汁の香りと混ざって如何にも"日本"めいた雰囲気に満ちていた。
「凛ー、ちょっと来て」
あの後も心配だったのか、ちょこちょことこちらの様子を見に来ていた凛の丸っこい後頭部に呼び掛ける。
ホラー映画の映し出されたテレビの前に置かれたソファーから立ち上がった凛は相変わらず無表情ではあったが、どこかそわついた気配を宿していた。
そのまま俺の隣に立った凛がジッとこちらを見つめてくる中で、落とし蓋を避けるようにスプーンで煮汁を掬い上げる。
湯気の立つそれを何度か息を吹きかけて冷まし、凛へと向ければ何も言わずに口を開けた凛の唇へと差し込んだ。
「どぉ?」
「……もう少しだけ砂糖が欲しい」
「おっけ」
薄い唇を赤い舌で拭った凛がそう囁く。リクエスト通りに近くにあった砂糖の入ったケースを開くと小さじ一杯分だけ砂糖を足した。
その間にも炊飯器が稼働している微かな音が聞こえてきた。米の炊けるタイミングも恐らくバッチリだろう。
手に持ったスプーンでもう一度煮汁を掬い上げつつ、それを冷ましていると、既に顔を寄せてきていた凛の唇へとそれを当てた。
飲み込んだ凛の表情を窺うと、どうやら文句は無いらしく、安心する。
料理に関しては凛の方が得意なのもあって、味見をした凛が何も言ってこない時点で失敗はしていないのだろう。
これで一通り作り終わったし、あとは米が炊き上がるのを待つだけ。
昨夜のうちにしっかり冷蔵庫に移動して解凍済みの納豆もあるし、もう準備は万端だと持っていたスプーンを流しで軽く洗いつつ、隣に居る凛を見上げた。
「あとは米だけな。凛も納豆食べるだろ? 一応、ニ個解凍してるけど」
「あぁ」
素直な返事を聞きながら、濡れた手をタオルで拭う。
納豆に良い思い出はあるかどうかと聞かれると、正直なところ無い。
別に嫌いでは無いが、流石に毎日食べさせられていた青い監獄での日々で飽き飽きしていたのも事実だ。
そんな青い監獄から離れてから早数年、こうなるとは当時の自分でも予想していなかっただろう。
「あの時はもう納豆なんてこりごりだーってなってたのに、離れてみると妙に恋しくなるんだよなぁ」
「何の話だ」
「ほら、青い監獄では最初の頃に納豆ばっか……ってお前は違うのか。あの時、凛は何食べてた?」
こちらの問いの意図を理解したのか、ぼんやりと考え込んでいた様子の凛は心底どうでも良さそうに呟いた。
「……その時々で食いたいもん食ってた」
「はぁー!? お前、マジでか! 俺、途中から納豆アレルギーになるかと思うくらい納豆食ってたのに!」
当時青い監獄ナンバーワンであった凛と自分の食事が違うのは仕方が無いにしても、こちらが納豆地獄で苦しんでいた間にこの男は悠々と好きな物を食べていたと聞かされればこんな反応にもなる。
俺の反応に露骨に肩を竦めてバカにした顔をした凛が、戸棚を開けて食器を出し始めたのを確認しつつ、鍋を煮込んでいた火を止めた。
あまり沸騰させるのも良くない。そうして味噌汁は米が炊き上がったら火をつければいい。それくらいの判断は普段料理をしない俺にもつく。
「それはお前が雑魚だったからだろ」
「うっ、それを言われると反論の余地が無いから止めて」
わざとらしく胸元を押さえた俺に、凛がほんの僅か笑う。
こうして凛と共に居る事を選んでから、俺にしか見せない顔を凛が見せるようになってからはもう随分と経つ。
他人には区別がつかないらしい凛の機微を自分だけはつぶさに理解出来るのは良い気分だと毎回思うが、それを本人に言うと怒られるので言わない。
「大体、今は好きなモンを好きな時に食えるんだから良いだろうが」
そう言った凛の言葉に、それもそうかと思い直す。
現在所属しているチームでの活躍は上々で、まだまだ目指したい高みは先ではあるものの、今の自分のパフォーマンスには満足していた。
苦しみも多くあった青い監獄で得た力は、俺の中に様々なピースとして息づいている。
そうして、凛と出会ったあの場所には本当に色々な思い出があった。
当然のように自分と俺の二人分の食器を用意しつつそう言った凛が無性に恋しくなって、凛の肩を掴んで引き寄せた。そのまま唇に軽く口づける。
離れた後には、複雑な顔をした凛が俺を睨みつけていた。
「……なんでそうなる」
「なんでって聞かれると困るんだけど……しいて言うなら、したかったから?」
「……お前は本当に……」
呆れたように溜息を吐いた凛が何かを言う前に、炊飯器が通知音を鳴らした。
その音に気を取られた俺の頭を凛の手がくしゃくしゃに撫ぜて、前が見えなくなる。
乱れた前髪を直している間に漂いかけた甘い雰囲気は吹き飛んでいたものの、勝手に顔がほころぶ。
「マヌケ面晒してんじゃねぇよ、潔」
「いて」
「早くしろ。冷める」
だって、あの凛がいつの間にか準備していたらしいしゃもじを持って待ち構えているのだ。笑わないでいられる筈がない。
凛の長い脚がこちらの膝裏を軽く蹴る感覚に、痛くも無いのに痛いと文句をつけてみる。
────そんなに俺の作った飯が食べたかったの、お前。
その言葉を発するかわりに、急いで二つの鍋の下にあるコンロのスイッチを入れた。