デッドエンドオアワンダーランド 明日、俺達の世界は消滅する。
デッドエンド オア ワンダーランド
電車のブレーキ音と車内に響くアナウンスに、目的地の最寄り駅に無事辿り着いたのを理解して、座っていた座席から立ち上がる。
そうして履き慣れたスニーカーで降り立った古めかしさの残るプラットホームはそこそこの面積を有していた。
降り立ってすぐには動き出さなかった俺の真横を、次々と名も知らない他人がドアから飛び出ては足早にそれぞれの行くべき場所へと進んでいく。
電光掲示板の中央に設置されたシンプルな埋め込み式時計へと目を向ければ、時刻は九時四十七分。
学校に行く日だとしたらとうに遅刻だ。けれど今週いっぱい自分達は特別休暇なのもあって、久々に袖を通した私服のパーカーはやけに重く感じた。
その重みを振り切って、先を行く人々の背中を追いかけるように最も近くにあった階段を目指し始める。
これから遠足らしい子供たちのキャラキャラとした笑い声。その他にも耳奥を擽る雑踏と、人の波を避けるように階段の端を進み、改札まで向かう。
この駅に来るのは初めてだったが、観光地なのもあって平日でも人は多かった。
一歩、駅の外へと出れば春先の温かな風が頬を撫で、鼻の中に磯の匂いが漂ってくる。
海が近いというのは、多少距離が離れていてもこんなにハッキリと分かるものなのだと初めて知った。
俺の地元には海が無い。そして、中高の夏休みはほぼサッカー漬けの毎日で、海に繰り出す程の暇も無かった。
子供の頃に二、三回は両親に連れて行って貰ったらしいのだが、なにぶん記憶も曖昧で何も覚えちゃいない。
そんな事よりも、と手に持った紙袋を落とさないようにしつつデニムのポケットに入れていたスマホを取り出す。
慣れた手つきでメッセージアプリを開き、一番上に表示されているトーク画面を開くと『駅に着いた』とだけメッセージを送った。
送ってすぐについた既読の文字に安心しつつ、昨夜のうちに送られてきていた住所を改めて確認してマップアプリにそれを打ち込む。
どうせなら駅まで迎えに来てくれればいいのにな、と思わなくも無い。
でも、そんな優しい心遣いを凛には端から求めていなかった。
そもそも『会いたい』というこちらの誘いにアイツが乗ってきただけでも、俺は心底驚いていたのだから。
マップに示されたナビ通りに住宅街を進み、何軒かある家のうちの一軒で立ち止まる。
白い外壁が印象的で瀟洒な雰囲気が全体に漂っている建物は、まさに"豪邸"と呼ぶに相応しい佇まい。──こんな所に住んでんのかよ、アイツ。
埼玉にある自宅を思い出して、圧倒される。
けれど考えてみたら【日本の至宝】とも呼ばれる糸師冴と、そうして、青い監獄内で常にトップをひた走っていた凛を育てた家だ。
二人の両親にそれなりの財産や教養があるのは当然だろうし、何よりもこの家に凛が住んでいるのが易々と想像出来る時点で、やっぱりこの家は凛の自宅だった。
立派な門扉の前に立ち、何度か深い呼吸を繰り返す。そのまま指先で玄関チャイムを押せば二度、涼やかな音が鳴った。
すぐに誰かが対応してくれたのかチャイムの音が途切れ、インターフォンから声が聞こえてくる。
『……入れ。鍵は開いてる。真っすぐ進んだ先の部屋に来い』
久々に聞いた凛の声に返事をする前に、ブツ、と一方的に通話が切られるのに苛立たなくも無かったが、怒りもそう長くは続かず霧散していく。
こういう奴なのは百も承知だったし、親御さんが出るかと思ったのに凛直々に出迎えてくれるなら気分も良くなるというものだ。
そろりと扉を開いて中に入っていく。人様の自宅にお邪魔するなんて何年振りだろう。
門扉の奥にあるドアを潜り抜けた先に現れた玄関は、いかにも凛の家っぽい匂いと気配がしている。
整理整頓された靴箱や棚、さりげなく置かれている爽やかな匂いをさせている芳香剤だとかが実にそれっぽい。
本当に、凛の実家に来てしまった。
それを意識した瞬間、試合時とはまた違った緊張が背筋をシャンとさせた。
埃ひとつも落ちていない床に置かれた来客用のスリッパへと足を潜らせ、微かに音のする部屋の方へと進んでいく。
美しい絵画が壁面にかけられた廊下を進む度におどおどしてしまうのは、全体的に慣れていない高級感が至るところにあるからだろう。
こういうのを逐一確認するのもどうなのかと思うが、どうしても敏感な感覚が勝手にいつもとは違う要素を拾ってしまうのだ。
「おじゃましまーす……」
命令通り廊下を真っすぐ進んだ所にあった木製のドアを開け、今更ながらの声掛けと共に中へと入る。
途端に目に飛び込んできたのは広いリビングルーム。天井は吹き抜けになっているのか高く取られており、カーテンの開かれた窓は大きいのもあって抜けるような空の青さをガラス越しにでも拝む事が出来た。
その部屋の中でたった一人佇む凛の髪が、窓から射し込む光によって先端を透けさせている。
こういう凛を見るのはこれで最後だと分かっているからこそ、その姿が瞼の裏に残って消えない。
煩わしい感傷を全部振り払って、凛の元へと近づくと、持っていた紙袋を手渡しがてら呟いた。
「はい。これ良かったらみんなで食べて」
「なんだよ、これ」
「きんつばだよ。俺の好きな店のやつ」
紙袋を受け取った凛は手元の袋の中身をチラリと見たかと思うと、特に気にした風でも無く近くにあったダイニングテーブルへと視線を移す。
「この店のきんつばは中々買えないんだぞ」と文句の一つも言いたくなったが、そんな情報を教えた所で「そうかよ」くらいの返事しか戻ってこないのが予想出来た。
そんな事を考えている俺に向かってダイニングテーブルを指さした凛はただ一言だけ呟く。
「座ってろ」
有無を言わさない口調に気圧され、仕方なくダイニングテーブルの横にある椅子を引いた。
音も立てずに動いた椅子に腰かけ、その場から紙袋を持って離れていく凛の後ろ姿を見遣る。
もしや、現在、この家には他に誰も居ないのだろうか。
シンと静まった部屋、白いテーブルの上に視線を向ける。反射した光が目に映って、俺は何度か瞬きをした。
口に含んだきんつばのほのかな甘みが舌の上に広がる。
ご丁寧にも小皿に乗せられたきんつばの横には湯飲みに入った茶が一杯。
丁度いい熱さのお茶が喉元を過ぎる中で、同じように向かい側に座りきんつばを食している凛の姿を視界に映す。
こんな風に凛がもてなしてくれるだなんて思ってもみなかった。
向かい合った俺達は、ほぼ一人で俺が世間話をして、それを凛が聞いているだけだ。
一方的に話しかけるだけの状況にも関わらず居心地のよさを覚えるのは、この関係性に慣れてしまっているからだろう。
持っていた湯飲みを再びテーブルへと置く。同じく向かい側から、コトリと小さな音が聞こえて、凛へと視線を移した。
切れ長の目が俺の動きに合わせてこちらを見つめ返してくる。
「……それで、お前の目的はなんなんだ、潔」
不意に飛んできた言葉と鋭くも聡い瞳はいつだって、俺の思考の上を超えてくるから困惑する。
ずっと会話を続けながらも核心を話さないでいたのをとっくに見透かされていたのだろう。
「……目的って……別に……」
「嘘ついてんじゃねぇよ」
「……へぇ、お前って人の事そんな風に気にする奴だったっけ?」
「茶化すな」
言い返された言葉に息が詰まる。
わざとらしくからかえば大体怒るくせに、今日はその挑発に乗ってこないのが面倒だ。
目的なんて御大層なモノは無い。単純にそういう気分だっただけ。
そう言ったところでこの男は納得しないだろう。目を合わせていられなくて視線を反らす。
横顔に突き刺さる視線に、何か言わなければと唇を開いた。
「……それを聞いて、思ってもいない言葉が来たらどうすんの」
「そんなの聞いてみなきゃわからないだろ。……意味の分かんねぇ御託を並べるな」
結局開いた唇から洩れたのは言うつもりの無かったセリフ。
この状況に持ち込んだのは俺だったけれど、凛が俺をここまで詰めてくるとは思っても居なかった。
それ以前に会ってくれるとも考えていなくて、ただ、絶対に読まれないだろうと思って送ったメッセージに返事が返って来ただけでも嬉しかったのに。
会えたらそれでよかった。それだけで構わなかった。
埼玉から鎌倉までわざわざ出向いてきたのは、最後の最後に凛に会いたくて。
「潔」
凛の声がする。たった一言、名を呼ばれただけなのに、その声に吸い寄せられるように視線を凛へと戻した。
何百と繰り返した練習や熾烈な試合の中で染みついている。──凛が"俺を見ろ"という意思を乗せた声に抗えない。
澄んだ湖面のようなターコイズブルー。一切の揺らぎも無いその瞳が俺を見ている。
誤魔化そうと考えているのが愚かだとでも言わんばかりのその強い光を見ている内に、ずっと隠し続けてきた感情が露呈していく。
「俺さ、……お前が好きだよ、凛。……だから、お前と最後にもう一回だけ会いたかった」
「……最後?」
「そう。最後」
凛の言葉をもう一度繰り返す。そのままテーブルに置かれた湯飲みを握り込み唇へと当てた。
喉元を通り過ぎた茶の味を先ほどより濃く感じるのは、喉を震わせた言葉が苦いからだ。
「ふざけてんのか」
「……それってどっちの意味?」
────青い監獄プロジェクトは明日、完全終了する。
そうして俺達は日本を離れ、それぞれ最大金額を提示してくれたチームへと移籍する事となった。
俺はドイツに、凛はフランスへ、あと数日も経たずに旅立っていく。
青い監獄という空間が無ければ俺と凛の繋がりなど驚くくらいに希薄で、空気よりも軽い。
【歪な関係】だと凛は俺達をそう呼称したが、それ以上に凛という存在に俺は魅せられていた。
けれど、それを伝えたところで今さら何の意味がある? サッカーというモノが無ければ俺達はそもそも出会う事すらなかったのに。
青い監獄は俺達の世界だった。その世界が、全てを教えてくれた。
それが無くなった後、俺達はプライベートで直接顔を会わせる機会などほぼ無くなるだろう。
無論、敵チームとして喰らい合う相手なのは変わらないし、俺の中でずっと凛は倒すべき相手として存在し続ける。
それでいい。そう思っていたのに、胸の中に巣食うサッカーには不必要な感情が最後の賭けに出てしまった。
例え最上級のエゴイストだとしても、このエゴだけは封じておきたかった。流石に俺だって、絶望的なまでに叶わない初恋に枕を濡らす日もあるから。
「もういい。ガタガタ抜かすな。……殺すぞ」
「……な……に」
ガタリと大きな音がして、椅子から立ち上がり大股で俺の方に寄ってきた凛が鋭い視線で見下ろしてくる。
いきなりの殺害予告に持っていた湯飲みを落としかけたのをどうにか握って堪えた。
確かに俺に好意を告げられた凛が拒絶するなんて予想がついていたが、どうやら怒りの源が違うような気がする。
答えを探している間に胸倉を掴まれ、上向かされた。
「諦めきった顔しやがって。ムカつくんだよ」
「……だって……」
「だってじゃねぇ。俺はまだ何も言ってねぇだろ。俺の思考をお前ごときの枠にはめるな、クソ潔」
「んな事言ったって、……お前はそういう奴じゃん」
ピリついた空気に肺がキリキリと絞られる。一触即発なこの雰囲気は何度も凛との間で発生してきたが、今までの時とは明らかに質が違うのだ。
凛の考えている事が読めなくて混乱する。試合中ならまるでトレースしたように凛の考えている事が手に取るように分かるのに。
「なら"そういう"俺が、なんで家にお前を呼んだ? その足りねぇ脳みそを働かせろ」
苛立った様子の凛が囁いた言葉に、思考のピースがバラけて形成し直されていく。
もしも最初からこの男の掌の上だったとしたら、俺はまんまと踊らされていたという事になってしまう。
でも、期待するなと自分自身で課した枷を外し、己で設定した目標のさらに上を常に提示してくれるのは、いつだって凛だった。
張りつめていた糸が緩まって、知らず知らずのうちに強く握っていた湯飲みをテーブルへと置く。
「……正直、茶とかぶっ掛けられて速攻で追い出されるかと思ったのに」
「お前は俺をなんだと思ってんだ。まぁ、でも、熱くなかったらやってた」
「おーこわ。熱くて命拾いしたよ」
湯飲みの中で、ぬるまった薄緑が波紋を作っている。
凛にしては分かりやすすぎる嘘に、勝手に唇が弧を描いた。
同時に胸倉を掴んでいた手が離れていき、苦しくなっていた呼吸を長く吐き出す。
どうやら、まだ俺達の世界は崩壊していないらしい。それが自分でも驚くほど嬉しくて笑ってしまう。
「向こうでもメッセージ送るな。それか手紙の方が良い? そしたら俺の事、絶対に忘れないだろ」
「キメェ事ぬかすな」
「あはは。……だってさ、向こうには可愛い人がいっぱい居るだろうし、どうせなら他の奴がやらないようなアプローチした方が良いっていうじゃん?」
「んな暇があるならワンゴールでも多く決めろ」
「そりゃそーだ」
頬がにやけるのを止められない。サッカー馬鹿なのは俺も凛も一緒で、そこにどれだけの情熱を費やしているかなんて言わなくたって分かる。
そんな凛だから俺は好きになった。そして凛もそうなんだと暗に示されて安心してしまう。
不意に影が落ちる。先ほどまで胸倉を掴んでいた凛の手がもう一度胸倉を掴んだかと思うと、驚くほどお綺麗な顔が降ってくる。
「……んわ……」
「っは……マヌケ面」
キスされると思わず瞑った顔に吐息がかかって、恐る恐る目蓋を開けばバカにしたように笑う凛がいた。
あっ、と思った瞬間、心臓が強く音を立てる。ずるい狡い、ずるい。
勝手に頬が熱くなって凛の顔を直視できない。
必死になって隠してきた様々なものを一つひとつ炙り出されていくこの感覚は初めてだ。
凛との距離が離れ、胸倉を掴んでいた手が外れたかと思えばいきなり腕を掴まれる。
目まぐるしく変化する状況についていけない。というよりも、俺が付いていく前に凛がどんどん進めていってしまうから。
「おい。俺の部屋行くぞ」
「え」
「なんでお前を家に呼びつけたのか、まだ分からねぇのか?」
力強い指先についに椅子から腰を持ち上げ、凛の前に立つ。
プライベート空間に呼びつけるくらいには俺を許容してくれているんだろうと受け取っていたのだが、違ったのだろうか。
微かに首を傾げた俺に凛が眉根を寄せる。
光の加減かもしれない。でも、凛の目元がほんのりと赤みを帯びているように見えるのは俺の気のせいではない。
「ここなら邪魔されないからだ」
「邪魔って……」
「今日は親も夜まで帰ってこない」
だから、呼んだ。聞こえるか聞こえないかのその声に、もうダメだと口元を掌で覆った。
青い監獄ではそんな素振りなど微塵も見せなかったのに。俺だけが追いかける側で、ずっと引き離されないようにその背中を追い続けていた。
けれど、俺だけじゃなかったと知ってしまったなら、もう離してなんてやれない。
「つまり、マジで今日の俺は全部お前の掌の上ってワケ?」
「気が付くのがおせぇ」
フンと鼻を鳴らした凛は俺の腕を掴んだまま歩き出してしまう。
その勢いに引き摺られるように縺れそうになった足を動かし、凛の隣に並び立つ。
しかし、このまま言われっ放しは性に合わない。俺は生来の負けず嫌いだから。
「……そう考えると腹立つな。俺はちゃんと言ったのにさぁ」
「?」
「別にいいけど? 凛がそういう奴だってのは知ってっから」
掴まれている掌の上から空いている方の手を重ねる。触れ合った皮膚は熱くて、試合後でも無いのに微かに汗ばんでいた。
小さく舌打ちをしつつ立ち止まった凛がこちらを睨みつけてくるのを今度こそ受け止め、高い場所にあるその瞳を見つめ返す。
薄い唇を僅かに開いては閉じを繰り返した凛は、結局何も言わないまま腕を掴んでいた手を離して指と指を絡ませて手を握り込んでくる。
「なら、分かるだろ。……潔」
甘えるようにそう囁いた凛を見て脳内に浮かんだのは【完全敗北】の四文字。
これは負けを認めるしかないと悟った俺から目を離し、再び前を見た凛の首筋は赤い。
俺も、恐らく凛も、柄じゃない事をしている自覚はある。
だけど明日で青い監獄は終わるから、せめてその終わりを迎えるまでの短い期間だけは凛の事のみを一番に考えていたかった。