楡の林に雪は積もりて パリから南西におよそ三十キロ地点。車で向かうと約一時間ほど。
都市から比較的簡単に行ける割に自然溢れるシュヴルーズは、オート・ヴァレ・ド・シュヴルーズ地域圏自然公園の中心地に位置するコミューンのひとつだ。
北部では現在廃墟となっているラ・マドレーヌ城を仰ぎ見る事が出来るこの田舎町は昨晩珍しく起きた降雪によって、うっすらと雪化粧を施されていた。
真っさらな白が薄く降り積もる小道を、潔と凛をそれぞれ背に乗せた馬二頭が軽快な足取りで進んでいく。
潔の跨っている艶やかな栗毛をしている一頭と、凛の跨る大柄な青鹿毛はどちらも強靭な肉体を持つセルフランセであり、この程度の残雪などものともしない。
そして、凛のさらに先を行く馬に跨っている今回のプライベートツアーを担当しているフランス人インストラクターであるマルタンは、潔と凛が世界でも名だたるプロサッカー選手であると理解した上で、適切な距離を取りつつ二人を見守ってくれていた。
凛と潔の故郷である日本では、乗馬は敷居の高いものだと思われがちだが、ヨーロッパでは極一般的なスポーツのひとつである。
また、普段はあまり使用しない筋肉を利用するのもあって、体幹を鍛えるのにも持ってこいなホーストレッキングをオフシーズンのタイミングで一度体験してみないかと誘ったのは潔の方からだった。
単純に別の仕事の関係でたまたま見かけたポニーがとても可愛らしかったのと、一応名目上は"恋人"としてお付き合いをしている凛が楽しめそうなアクティビティを探していたのもある。
それにシーズン中は常に試合や練習で精神をすり減らす日々を送っている潔と凛にとって、人が多い場所に出るよりかは片田舎でゆったりと過ごす方が余程リラックス出来た。
心地よいリズムで左右に揺れる馬上にて、潔は凛の藍色のダウンを着ている大きな背中を見つめる。
その際に吐き出した呼気は白く濁り、昨日よりは明るさを取り戻しつつある空へとのぼっていく。
フランスの冬は日本よりも厳しいが、それでも今日は薄曇り程度なのもあって、芯から冷えるまではいかなかった。
手袋をはめていても分かる握っている手綱の感触と、固さもありつつもサラリとしている鬣。凛の跨っている馬の上質なタッセルのように揺れる尻尾に目線を移動させながら、潔は澄んだ空気を今度は胸いっぱいに吸い込んだ。
ほのかに漂う牧草地帯特有の土と草木の匂いのするそれは、肺を冷たく満たして、ダウンを着込んで温まった体と脳をすっきりとさせてくれる。
潔がそんな風に考えている間にも、着々と歩を進める一行の目に映る景色が変わった。
小道を抜けた先、これまで通ってきた空間よりもさらに幅の広い道へとぶつかり、マルタンの誘導でそのまま右折して大きな道へと入っていく。
「すっご」
思わず声をあげた潔の眼前、地球の向こう側まで続いているのでは無いのかと錯覚しそうな程に遠くまで長く伸びた道が現れ、道の両端には等間隔で並んだ楡の木が立っている。
赤褐色に変色した葉が所々についた枝には霜のように雪が積もっており、キラキラと光を乱反射して存在感をさらに増して見せていた。
これらの立派な楡の木々が春の日差しの中で一斉に芽吹き、青葉を広げている光景はきっと圧巻だろう。
ほぅ、と感嘆にも似た溜息を潔が紡いだタイミングで、凛の前に居たマルタンが乗っている鹿毛色の馬の手綱を引いて立ち止まった。
そのまま黒のキャップとライラックカラーのジャケットに身を包み、口元に髭を蓄えたマルタンは穏やかな表情を潔と凛へ向ける。
そして一本の楡の木の天辺あたりを指さして、当然の事ながら流暢なフランス語で何かを説明し始めた。
フランス語にはあまり明るくない潔とは違い、既に数年もの月日をフランスで過ごしている凛にとって、ネイティブの言葉を聞き取るのは造作もない。
それはフランスに遊びにくる度に、現地人との会話の通訳をほぼ凛に任せている潔にとっては理解しきっている事柄だ。
ちなみに凛が潔に文句を言いつつドイツのミュンヘンまで"わざわざ"会いに来る際は、潔が殆どの通訳を買って出ているので、等価交換であると潔は主張していた。
二人の会話の中で聞きかじった単語の欠片を耳でちょこちょこと拾いあげつつ、相槌を打っている凛の横顔を眺めていた潔はダウンのポケットにしまっていたスマホを取り出す。
時間を確認したかったのもあるが、折角ならばこの雄大な自然の中に溶け込む凛の姿を写真に収めたかったからだった。
顔の前に掲げた四角いデバイスの中、姿勢よく馬に跨っている凛はまるでどこぞの物語に王子様役で出てきそうなくらい様になっている。
潔がシャッターを押そうと画面に指先を伸ばした途端、番らしい二羽のゴシキヒワが軽やかかつ美しい独特の囀りを響かせながら頭上を通り過ぎていった。
その声に顔を上げた凛の長い前髪が風によって靡き、画家が渾身の力で描き上げた絵画のような瞬間が潔のスマホ内へと収まる。
そうして潔が勝手にカメラを向けている事に気が付いた凛は、すぐさま眉根を寄せてあからさまに不機嫌そうな顔へと変化し、唇を開いた。
「おい、何勝手に撮ってやがる」
「いいじゃん。さっき撮れたの王子様みたいでカッコ良かったし。それに、どっちにしてもSNS用の写真も撮らなきゃだから」
「チッ……」
プロサッカー選手にとって、グッズなどから得られる収入は大切。それからサポーターを獲得する事も。
青い監獄時代に既に大人気だったプロ選手から潔たちが学んだ事は数多くあったが、ファンサービスの重要性も教えられたものに含まれている。
無論、試合で結果を残せばそれだけで良いと考える選手も多いが、潔はバスタード・ミュンヘンに所属した際にチーム側から出来る限りSNSでの宣伝活動を行う事も契約の条件に含まれていた。
凛の契約内容に関して潔が確認した事は無かったが、少なくとも凛の名で稼働しているSNSに凛本人が投稿した文が乗ったのを確認出来たのはもう数か月も前だ。
逆に、潔が投稿する写真にはかなりの頻度で出てくる凛のプライベートを求めて凛のファンがチーム違いの潔のSNSをフォローする始末だった。
きっとさっきの上手く撮れた写真を載せれば、凛のサポーター達も喜んでくれるだろう。──そんな空想が潔の脳裏をよぎる。
フィールドでは最上級のエゴイストの名を欲しいままにしている潔は、それ以外ではファンサービスを欠かさない優しい選手として認識されていた。
「凛、笑ってみ?」
ふふ、と目を細めて笑った潔が続けざまに凛の名を呼びながらもう一枚、とカメラを向ければ顰め面のまま片方の手を手綱から離した凛が、手袋をはめたまま容赦なく中指以外の指を畳んで潔へと向けるサインを作ってみせる。
いわゆる"ミドルフィンガー"のサインに、苦笑しながらもシャッターを切った潔のスマホの中には、なんとも物騒な凛の写真が残された。
「こらぁ、お下品だから止めなさい」
「うっせぇ」
「……まぁいっか。さっきの一枚載せればオッケーだろ」
相当な侮辱のポーズではあるものの、もう慣れたものだと気にも留めない潔は撮った二枚の写真をスワイプして確かめる。
一枚は誰に見せても文句の付けようがない眉目秀麗な男で、もう一枚は潔にだけ向けられた横暴なエゴイストの姿。どちらも潔にしてみれば青い監獄時代から慣れ親しんだ"糸師凛"だった。
その内の後者をお気に入りに設定してから、二枚とも【凛フォルダ】に放り込んだ潔に手綱に手を戻した凛が声をかける。
「ここから十五分ほど進んだ先に休憩出来る場所がある。……今日の昼はそこで食べるらしい」
「了解。色々用意してくれてたっぽいもんなー。めっちゃ楽しみ」
先ほど話していた内容の一部を通訳してくれた凛と、さらにその奥で笑っているマルタンを見た潔は歯を見せて笑い返した。
このツアーではトレッキング後のランチもついており、『今日はガーリックチキンのカスクートサンドなどのメニューを沢山用意しているんだ』と持っているボックスの蓋を僅かに開けつつ悪戯っ子のように笑っていたマルタンの姿を思い出す。
カフェのオーナーも兼任しているマルタンの料理は『美味しい』と数多くネットのレビューで書かれていたのもあって、潔はずっと楽しみにしていたのだ。
「おい、早く行くぞ」
期待に胸を膨らませている潔に呆れた顔をした凛がそう言って、止まらせていた馬を歩かせ始めた。
雪の上につく蹄の跡を追いかけるように潔も持っていたスマホをポケットにしまい込んでから、乗っている馬の首を一撫でする。賢い馬はそれだけでまた足を動かし、潔の体を運び始めた。
オフシーズンは始まったばかり。一体今回のオフでどれくらい【凛フォルダ】の写真が増えるだろうか。どうせならば、思いっきり面白い写真や楽しい思い出を作れたらいい。
くふくふと笑った潔の耳脇を抜けるように、さぁ、と柔らかな風が吹く。
姿は見えなくなってしまったものの、風の影響によってゴシキヒワの特徴的な鳴き声が再度響き渡り、薄曇りだった空は爽やかな光を増し始めていた。