ラムネ色の残香 つやりと赤い光沢を帯びたリンゴ飴を眼前に掲げ、そっと唇を寄せた潔の前歯が既にぬるくなりつつある水飴の表面を割る。
パリ、という軽快な音は周囲から聞こえてくる祭囃子や的屋の呼び込みの声に紛れて潔本人の耳にもさして届かなかった。
それでも口の中に広がる甘さを堪能した潔は、さり気なく隣に佇む凛へと視線だけを投げ掛ける。
青い監獄の総指揮者である絵心──というよりも、その助手の帝襟の提案で青い監獄に収監されているストライカー達に、近隣で行われる祭に一日だけ参加する権利が与えられた。
しかし、ただ参加するだけでは面白くないと、以前撮影で宛がわれた浴衣を着て参加する事を絵心から命じられた面々は、おおよそが楽しそうな顔をして祭会場へと繰り出したのだ。
そうして普段とは異なりセンターで分けた前髪から覗く額に滲む汗をリンゴ飴を持っていない方の指先で拭った潔は、暑さなど微塵も感じていないという顔をした凛の長い脚を強調するように結ばれた白い腰帯まで目線を落としてから、含み笑いを零す。
【誰と回るのでも構わないが、必ず青い監獄メンバーの誰かとは一緒にいる事】という命令を帝襟が会場に着いたタイミングで、車内アナウンスをした際、潔の脳裏に過ぎったのは凛の姿だった。
ドイツ棟とフランス棟に分かれてから滅多に会う機会が減ってしまったものの、研究の為に潔は凛の試合をモニター越しに数えきれない程、見ている。
会わなくても分かる圧倒的な成長の兆しに、置いて行かれてなるものかと鍛錬に励む日々。凛が潔をどう思っているのかは知らないが、潔にとって凛はカイザー同様に超えるべき天才の一人だった。
だが、それだけではなく、凛の他人と交われない面倒な性格も潔はよくよく理解している自信があった。
人と親交を深める事を嫌い、友情という概念すらも『ぬるい』と表現する凛がフランス棟で上手くやれているのか心配になるくらいには、凛のコミュニケーション力の低さを知っている。
だからこそ、バスから降り立ち一斉に祭に向かうメンバー達の一番後ろを、ゆったりと歩いている凛の隣をさり気なく確保したのだ。ユニフォームではない、黒い浴衣姿の凛をもっと近くで眺めたかったのもあった。
あからさまに近づいてきた潔に最初は面倒くさそうな顔をしていた凛は、拒否をするでもなく、ただ黙ってゆったりとした歩幅を崩さず潔の隣をキープしている。
周りに居た筈の他のメンバー達はそれぞれが自分の行きたい場所に行ってしまったのか、黙ったままの凛と潔だけが人混みの中を揺蕩うように歩いていた。
会場入り口付近にあったリンゴ飴の屋台から数十メートル。蒸し暑い夏の気配が漂う街は、夜である事を忘れてしまうくらいに鮮やかな色彩の渦で満ちている。
割れたコーティングの隙間から香るリンゴの酸味をもう一度舌先で舐め取った潔は、そのまま静かに声を上げた。
「……そっちはどう? 楽しくやれてんの」
「……楽しいもクソもねぇよ。やるべき事をこなすだけだろ。俺も、お前も」
返ってこないだろうと内心で考えていた潔の言葉に、涼やかな凛の声が答えを返す。
振り向いた潔の横顔を見ていたらしい凛のガラスにも似た瞳が、真っすぐに潔の姿をその瞳の中心に宿していた。
久方ぶりに画面越しでは無い凛の顔を視界に映していると、とうに見慣れた筈の肌の白さときめ細やかさを思い出す。
そんな二人の横をすり抜けていく子供のキャラキャラという笑い声が、尾を引いて消えていく。
非日常的な世界の中にある日常。それとも、さらなる非日常なのか──どちらとも判断のつかないまま、潔は満足げに歯を見せて笑った。
「だよな! お前が変わってなくて安心した」
「保護者面か? 殺すぞ」
「すぐ殺すって言うな。言うなら試合だけにしとけ。……ってか、凛はなんか買わんでいいの?」
「別に興味ない」
「えー……じゃあラムネ飲もうよ。俺が奢ってやるから」
甘いモンばっかり食ってるとデブるぞ、という忠告を無視して、少し先に見えるラムネと書かれた露店の前まで向かった潔の後ろに渋々と言った様子で凛がついて来た。
巨大な水槽のようなケースに浮かぶ氷水に浸かったラムネを二本指さし、腕に通していた信玄袋から財布を出そうとした瞬間にリンゴ飴が邪魔をするのに気が付く。
ならばと、潔が後ろに立っている凛の前にリンゴ飴を翳せば、被っていない筈なのに鬼の面でも被ったかのような表情に変化した凛が棒を受け取った。
百円玉四枚と交換で受け渡された水色のガラス瓶を持った潔が店主に礼を告げて後ろを振り返れば、大人しく齧り痕の残るリンゴ飴を握っている凛。
思わず噴き出した潔とは対照的に、不機嫌そうに眉を顰めた凛に潔はラムネとリンゴ飴を交換してやる。
「途中でなんか買い足しつつどっかで食べようぜ。花火大会も近くでやるらしいから、運が良ければちょっと見られるかも」
「バカみてぇに浮かれやがって……」
「……いいじゃん。今日くらい。もうこんな機会無いかもしれないんだから」
普通の高校生ならば、きっとこの程度の夏の思い出を作る事は容易だろう。
けれど、凛も潔も明日になればまたサッカーだけを追い続ける日々に戻っていく。
冷えたラムネ瓶から伝った雫が潔の手の甲を流れて落ちていく最中、黙っていた凛が鳴らした舌打ちに潔が顔を上げた。
そうして、前から向かってくる人々の勢いを遮るように潔の前に立った凛が頭だけで振り返り、長い睫毛に縁取られた目を細める。
"さっさと着いてこい"と、言わずとも伝わるアイコンタクトだけを寄越した凛の広い背中を追いかける為に足を動かした潔の足元で、下駄の底が鳴った。
□ □ □
露店の並ぶ大通りからかなり外れた場所にある長い階段の頂上。
チラホラと人は居るものの、それぞれに自分達の話に夢中になっているのもあり、誰も潔と凛に意識を向ける者はない。
そうして、広場のようになった場所に設置されたベンチの一台を確保した潔と凛は、すっかり空になった食べ物のパッケージをビニール袋に一緒くたに纏めて息をついた。
焼きそばにたこ焼き、かき氷にチョコバナナ。ここに至るまでの道中で購入した大量の品々は、余りにも量が多すぎて最後に立ち寄った露店の店主に持ち運び用に巨大なビニール袋を渡される始末。
しかし健康優良児かつ、育ち盛りの二人の胃袋には、この程度の量などさしたる脅威にもならなかった。
遠くの方でうっすらと見える花火の残滓と、それよりも遥かに明るく見える街の夜景を眺めながら、潔はもう残り僅かとなってしまったラムネを傾ける。
唇から離れたラムネ瓶の中心に埋められたビー玉が、カラカラと小さな音を立てて移動を繰り返した後に収まるべき窪みへと収まった。
そろそろ花火もたけなわらしく、うっすらとしか見えないものの上がる勢いが強くなっている。
花火が終わればこちらの祭も終わり。終わってしまえば、迎えに来たバスに乗って再び青い監獄へと戻るのだと、どこかしんみりとした気持ちが潔の脳内を支配していた。
「……花火、あんまり見えないな」
「……ん」
「でも、久々に屋台の物たくさん食べられて結構満足した。凛は? 食べたかった物とかもうない?」
「ねぇ。……十分食った」
「なら良かった」
ポツポツと続く会話のラリーに、食後の心地よさが相まって、肺に溜め込んだ空気を深く吐き出す。
凛の居るフランスチームと潔の選んだドイツチームとの対戦はまだ先であり、こんな風に直接会話を交わす事も暫くは無い。
離れがたい思いを抱きながらも、次に会う時は互いの首元に喰らい付いて仕留める未来を予知しているのだから、どちらも仕方のないサッカー馬鹿だと潔は一人苦笑した。
はじけた花火がひと際、大きく見えたのと同時に、袋にしまっていたスマホの振動を感知してそれを取り出した潔のスマホの画面には、あと二十分程で集合時間が迫っているというリマインダーが表示されている。
「もぉ戻らないとヤバい。二十分しかない」
その一声に薄闇を見つめていた凛の目が潔へと向いた。握っているラムネ瓶よりも透き通っているのに思考の読めない深い碧色。試合中なら幾らでも凛の考えている事を見透せる自信があるのに、今の凛が何を考えているのか潔にはさっぱり分からなかった。
数秒交わされた視線を先に反らした凛が立ち上がったのを追いかける為にスマホと瓶をそれぞれしまった潔も立ち上がろうとするが、途端にピリリとした痛みを感じて息を詰めた。
潔の変化を目敏く見つけた凛はすぐさま立ち上がろうとした潔をベンチに押し戻し、唇を開く。
「痛めたのか」
「いや……さっきまで全然痛くなかったんだけど、なんか……」
「……見せろ」
「え、っちょ、凛!」
黒い浴衣の裾が地面に擦れるのも厭わず潔の前にしゃがみ込んだ凛は、止める間も無く潔の下駄の片方を脱がせて、自身の膝の上に足を置かせる。
踵とつま先に添えられた長い指と大きな掌から伝わる体温は温かく、皮膚を通してその熱が浸透してしまいそうな錯覚すら起きてしまう。
爪先が見分するように触れた親指と人差し指の間には、鼻緒によって出来た擦り傷が僅かな血を滲ませていた。
本当に楽しいという気持ちが余りにも強くて、痛みすら気が付かなかったらしい。
凛に言われた通り、かなり浮かれていたのを自覚した潔は、ほぼ見る事の叶わない凛のつむじを見ながら囁いていた。
「あとは帰るだけだから大丈夫。それより、裾汚れち、……んむ!」
「黙れ。もっと早く言え」
「っぷは……、それじゃどっちか分かんねぇよ!」
足に触れていた手の片方で潔の顔面を鷲掴んだ凛の攻撃から逃れるように首を振った潔へ、じっとりと責める視線を凛が投げ掛ける。
けれどそれ以上に、見下ろされる視線しか受けた事の無い潔にとって凛に見上げられる感覚は新鮮そのものだった。
慣れない光景にくらつく脳を潔が整え切る前に、再び下駄を潔の足に戻した凛がしゃがんだまま潔に背を向ける。
意図を理解出来ずその背を見ていた潔に、特大の舌打ちを落とした凛は、またもや潔を睨みつけた。
そこでやっと凛の考えているプランを察したものの、それでも困惑しか浮かばない潔を追い立てるように凛が声をあげる。
「早くしろ。階段下りる所までは行ってやる。あとはテメェで歩け」
「俺、重いから良いって……」
「貧弱フィジカルのクセに何言ってやがんだ。大体、お前ひとり分くらいの負荷なんざ重石にもならねぇんだよ」
「貧弱じゃないっつーの! ……本当に良いんだな? 途中でやっぱ無しで落とすなよ?」
「……これ以上、時間を無駄にすんなら置いてく」
「分かった! 分かったから……」
ゴミをまとめたビニール袋を持ちつつ、凛の背に体を預けた潔の視界が高くなる。
重石にもならないという言葉通り、一切の体幹のぶれも無く階段の方面へと進んでいく凛の肉体は、潔が最後に凛とトレーニングをしていた頃よりも数段仕上がっているのが薄い布越しにでも理解出来た。
一歩一歩階段を下りていく揺れに合わせ、凛の背中も揺れるものの、なるべく衝撃を与えないように注意を払っているらしく潔の頭はそこまで上下しない。
段々と見えてくる階段の終着点を見ながら、潔は思わず凛の肩を掴んでいる手に力を込めていた。
「……もし、青い監獄の全部が終わったら、また祭来たいな。……お前と一緒に」
どうせ突っぱねられるか、『くだらない』と一蹴されるだろうささやかな願い。
カラリと凛の履いている下駄がコンクリートで出来た階段を叩き、花火の音はおろか、近い筈の祭の喧騒すらもその音にかき消される。
「……気が向いたらな」
今度は目を合わせる為に振り返ってはこないものの、代わりに明瞭に戻って来た温かな返答。
顔が見えなくて良かったと凛のうなじに額をすり寄せ、あと少ししかない階段の終わりまでに頬の熱を冷まさなければと、潔は高揚を誤魔化すように湧き出た唾を飲み込んだ。