Le chat porte-bonheur 戸棚にしまっていたキャットフードの袋を取り出し、色違い二セットずつあるエサ皿にそれぞれ同量ほど入れる。
茶色の細かな粒が緑と水色の陶器に当たって、カラカラと軽やかな音を立てた。
採光の為にキッチンの傍らに備え付けられた小窓から覗く空は、まだ薄っすらと暗闇めいている。
ついに真冬が近付いてきているのを肌で感じ取りながら、ついでに冷蔵庫にあるミネラルウォーターのボトルを出し、水用の皿に入っていた水を一度捨ててから新鮮なもので満たした。
普段なら催促をしにベッドまで小突きにくる筈なのだが、どうやら今日は流石にまだ早すぎたようだ。
この家に居る猫二匹と、限りなく猫に近い奴を起こさないように細心の注意を払ったのが功を奏したらしい。
そうでもしなければ、本来の朝食当番である俺が起きるよりも先に、その三匹が俺を起こしにくるのが常だから。
ミネラルウォーターのボトルをしまうついでに、勝手に脳裏に浮かんだ懐かしいCMソングを口ずさみつつ、手早く卵や野菜類を手に取り簡単な朝食を作り始める。
本当は気合の入った日本風の朝食でもいいのだが、生憎と米を炊くのを忘れてしまった。──いや、厳密に言うと忘れてしまったワケでは無い。
この家に住んでいる一番大きくて獰猛な"猫"がソファーでじゃれついてきたものだから、流されてしまっただけ。
二人揃っての完全オフは久しぶりなのもあって、昨晩は随分と盛り上がってしまった。
だからアイツだけのせいにするのもどうかと、未だジンジンと熱を持っているような体も含めて自身を叱責する。
そうして、油を引いて熱したフライパンに割り入れた卵の白身が焼けてしまう前に、ひとかけらだけ入ってしまった殻を菜箸で慌てて取り去った。
凛が所属しているチームに移籍し、フランスで一緒に暮らすようになってから何年か経つが、アイツがフィールド外では優しいのを改めて思い知らされる場面は多い。
互いのオフ前夜、そういう空気を向こうから出してきた時の朝は特にその傾向が強くなる。
けして女子扱いをされるワケでは無いものの、ボトム側を受け入れている俺に対して負担を強いていると感じてしまうらしい。
確かに大抵はすぐに起きられないくらいぐったりとしてしまう事の方が多いが、それでも朝になれば何事も無かったかのように綺麗になった体でベッドに寝かされている上に、朝飯や下手すれば掃除まで済んでいるのはこちらとしても悪いと思うのだ。
一応、オフの時くらいは年下の可愛いパートナーを甘やかしてやりたいと、そんな風に思うから尚更。
「……よっし」
さっさと手を動かしている内に、目玉焼きとベーコン、それから適当に野菜を盛りつけた簡単な朝食が完成する。
ついでにコーヒーメーカーとトースターにパンと豆を投げ込んでから、再度手を洗って何の音もしない寝室の方へ、やや重だるい体で向かった。
底に厚みのあるスリッパで進むフローリングの廊下の最奥。
木製の扉についている丸っこいドアノブを捻って開ければ、暗い寝室の中央にあるベッドの足元に白と灰色の猫がそれぞれ丸まって眠っているのが見えた。
さらに視線を動かせば、一般的な人間分よりは少し大きく盛り上がった布団も見え、まだ凛も眠っているのだろう。
そろりそろりとベッドへと近付いていくと、気持ち良さそうな顔をして全員熟睡している姿に顔が思わずにやける。
元々犬派だったのに、今ではすっかり猫派になってしまったのを自覚しながら、勝手に柔らかくなってしまう声で呼びかけていた。
「おはよーございまーす……朝ですよー……」
一昔前のバラエティー番組さながらに声掛けしながら、まずは白と灰色の毛並みをそれぞれ撫でる。
艶のある滑らかなビロードに似た触り心地。その毛皮の持ち主達はリラックスしきっているのか、脱力していた体がかすかに震えて、閉じられている瞼が煩わしそうに何度か動いている。
【まめ】と【大福】と名付けた猫たちは、俺と凛と同じチームに所属しているメンバーが拾った子猫の中の二匹だった。
仕事柄、自宅にいる時間が少ない事もあり最初はペットを飼う気は無かったものの、二人暮らしなのがバレているのもあって頼み込まれてしまえば断れない。
それに『犬よりはまだマシだろ』と、凛が思ったよりは飼うのに抵抗を示さなかったのも後押しになった。
結果的には兄弟で飼ったのも良かったのか、どちらものびのびと楽しそうに暮らしてくれているので安心している。
「まめ、ふく。もう朝だから起きな。ご飯出してあるから」
うにゃうにゃと文句を言いつつ、腹を撫でろとひっくり返りながら要求してくるまめと、欠伸をしながら伸びをしている大福の背を両手で触れた。
この二匹は兄弟ではあるけれど、甘えたがりのまめとマイペースな大福で、かなり性格が異なる。
でもなんだかんだくっついている事が多いから、兄弟間の格差はそこまで無いようだった。
どちらもまだ甘えたそうな顔をしているが、珍しく凛が眠ったままなのもあって二匹ともあっさりと手から離れていく。
そのまま俺は足先だけでスリッパを脱ぎ捨てるとキングサイズのベッドに乗りあがり、白いカバーのかかった布団をゆっくりと捲り上げた。
伏せられた瞼に生える睫毛はいつ見ても長く、寝顔だというのに非の打ち所がないくらい整った顔をしている凛は、薄い唇からすうすうと寝息を立てている。
学生時代から今に至るまで一度も染めていない黒髪は、一本一本はそこまで太くは無いがつるりと美しい光沢があった。
俺が覗き込んでいるのが不思議なのか、まめと大福も一緒になって凛の寝顔を眺めている。
「りーん。おはよぉ、ご飯もう出来てるぞ」
猫耳の生えた小さな二つの後頭部の横から手を伸ばして凛の髪を何度か撫でてやれば、長い睫毛が揺れ動く。そうして、中から現れたターコイズブルーが焦点を結ぶ為なのか幾度か瞬いた。
すぐさまギュッとしかめられた眉根に、不機嫌なのかと最初は思ったが、ただ単純によく見えなかっただけらしい。
俺と揃いのスウェットを着た手が布団の中から伸び、相変わらず何かをうにゃうにゃと喋っているまめと、大人しくしている大福の頭を交互に撫でる。
これがこの三人のお決まりな朝の挨拶なのを俺は最近になって知った。何故なら俺よりもコイツらの方が早起きなので。
満足したのか猫二匹は軽やかにベッドから飛び降りると、半ば競い合うようにリビングへと走っていってしまった。
布団の外にある手がシーツの上を滑る。
そのまま流れるようにどこか苛立たしげにマットレスを叩いた指先に思わず苦笑が洩れた。
『察しろ』という言外の圧力に従う為、さらに布団を捲りあげてそのまま横たわれば、今度は両腕が伸びてきて中に引っ張りこまれる。
柔らかな布団は温かく、二度寝したくなるレベルで居心地がいい。
「飯食わないの?」
「……なんで、俺より先に起きてる……」
「だって、今日は俺が朝御飯作る当番だし」
寝起き特有の低く掠れた声が聞こえて、今度は明らかに機嫌が悪くなった凛が両腕で思い切り抱き締めてくるお陰で、うぐ、と呻きが出る。
でもそれを拒否はせずに胸元にある頭を撫でていると、両腕から力が抜けて小さくくぐもった声が聞こえた。
「……俺がやるつもりだったのに、勝手にやるなバカ潔……」
見えないけれど、胸元に顔を埋めている凛は多分ふくれっ面をしているのだろう。
拗ねたりするとそういう表情をするものの、チームメイト達にすらも基本無表情で何を考えているのか分かりにくいと言われがちな凛のワガママさは、"青い監獄"から出ても変わらない。
けれど、冴との諸々が落ち着いて以降、直接的に甘えてくる事が若干増えた。
「いつもオフの間ずっとやってくれてるじゃん。たまには俺もやりたいの」
「いやだ、俺がやる」
やりたくないならまだしも、自分がやりたかったのにと駄々をこねる凛に思わず笑みを噛み殺す。
俺がみんなを起こす係をやりたいのは、寝起きの凛が普段よりも素直な反応を示すから、それを見たいという下心もあるのだ。
「……じゃあ食べてくれないのか? お前の好きなパンも好みの固さに焼いてるし、コーヒーもあるし、卵も半熟だよ。折角作ったのになー、このままじゃ冷めちゃう」
「……食べる」
顔をあげた凛の目に残っていた熱されたあめ玉にも似た蕩け具合が、少しずついつもの強さを取り戻してきている。
どうやら寝ぼけ気味だった状態から覚醒しつつあるのだろう。
では離れようと頭を撫でていた手を動かすと、身体に回っている腕に再度力が籠った。
あぁ、そうだったと顔を寄せて鼻先と鼻先を擦れ合わせる。
それから労るように耳へと指先を滑らせ、ついでに擽る動きで耳殻に触れると、それは嫌なのか軽く頭を振った凛がいつもよりは勢いのついたキスをお見舞いしてくるのを受け入れた。
「おはよ。凛」
「……ん……、はよ……」
昨日、それこそこんなものでは済まないくらいのキスを何度も重ねたというのに、チュという軽いリップ音が響くのが僅かに気恥ずかしい。
凛と猫達に恒例の朝の挨拶があるのなら、俺と凛にも勿論、恒例の挨拶というものがある。
始めたのはどちらからだったか。そんな事も忘れてしまったが、ここは愛の国フランスなのだ。
生粋の日本人であっても多少、影響されたっておかしくはない。
それから、やっぱり俺は公私共に【最良のパートナー】なコイツがとんでもなく可愛くって仕方がないので。
ようやくのそのそと二人揃ってベッドから這い出ると、既に餌を食べきってしまったのか、どこか呆れた表情をしたまめと大福が開いているドアの前で待ち構えていた。──これも、まぁよくある光景。
サッカーモンスター二人と猫二匹。今日も今日とてそんな四匹はなんだかんだとパリ近郊で仲睦まじく密やかに暮らしているのだった。