ラッキーなんとか紫色の霧がゆらゆらと漂う。妖霧の日のモードゥナは昼間からほの暗く、肌を滑る空気はどこか生々しい冷たさだ。
こういう日は用事が無ければ出歩くもんじゃない。グ・ラハは二の腕を擦りながら赤色の耳を小刻みに震えさせた。
「グ・ラハ。ほらよ」
「んっ?」
ぱさりと布状の何かを投げて寄越したのは、珍しく出掛けずに天幕で寛いでいる冒険者だ。反射的に空中で掴んだそれを広げてみると、手触りの良い織物で出来た上着だった。
「余分に作ったは良いんだけど、俺は着なそうでなぁ。良かったらやるよ」
「え、これあんたが作ったのか」
グ・ラハが驚きながら見返せば冒険者は「おうよ」と笑ってみせた。そういえば、少し暇ができたから色々と職人ギルドの依頼も受け始めたのだと言っていたか。薄手だが丁寧に仕立て上げられた上着は軽く、なるほどコートやジャケットと違い室内着にも丁度良い。
袖を通すとゆったり目に作られた腕ぐりは動きやすく、肘の下位までを覆う七分袖は肌寒さを和らげつつもペンを走らせたり本のページを繰る手元を邪魔しない。
「すげー快適。ホントに貰っちゃっていいのか?これ」
「あぁ、サイズも丁度良さそうだしな。この辺りはクルザスが近いのもあって結構冷えるし、よければ使ってくれよ。お前今日はまだちょっと袖のあるシャツ着てるけど、普段のタブレットベストだと特に寒いだろ?」
「ん、じゃあ遠慮なく。……へへっ、あんた器用だなぁ」
ふさふさした尻尾が機嫌良く揺れて上着の裾を揺らした。気に入った様子に冒険者の笑みも深まる。
「さて、ぼちぼち小腹空いたな。何か作るか……グ・ラハ、もうちょいしたら机片しておけよ?」
「おっ、今日は何作るんだ?」
色違いの宝石のような瞳が期待に輝き、早速いそいそ片付け始める様に冒険者は本人にバレぬようくつりと笑う。
「温まるやつが良いな、煮込み系とか。今朝狩ったロフタンの肉があるから、あとはポポトとオニオン、カロットと……」
「旨いやつだ、絶対旨いやつだ」
グ・ラハの手のペースが上がる。これはさっさと片して一刻も早く旨い物が出来上がるよう手伝うのが今の最良ルートだ。近頃すっかり胃袋を掴まれている自覚はあるが、この男の料理が本当に旨いのだから仕方が無いのである。
グ・ラハも簡単な料理は出来るが、冒険者のように各国の職人ギルドに所属したりは難しいし、悲しいかな研究職の性とでも言うべきか『生命維持が出来れば良い』と言う生活を長らく送ってきた為レパートリーはそう多くない。
気さくな冒険者はグ・ラハが興味を示せばそれが何であれ、見せたり教えたり実際にやらせてもくれる。例えば剣を触る経験など、彼と知り合わなければ一生無かったかもしれない。初心者向けだと手渡された片手剣、腕に伝わるずっしりとした鋼の重さは、いつも軽々操ってみせる彼を見ているだけでは到底想像出来なかった物だ。
図書館や研究室では得られなかったもの。この冒険者と出会ってから次々手にしたそれは、その度にグ・ラハの心を踊らせた。
「この本片付けたら手伝うぜ」
「おう、頼むわ……って、そんなに沢山一気に持って大丈夫か?」
「へーきへーき!この位いつも……」
景気良く持ち上げた本の塔は、グ・ラハの頭を拳ひとつ分ほど越えていて。
「「あ」」
支える手が重さにほんの少し傾いだら、あとは雪崩のようなものだった。
「っわ、うわわわわ」
「あっぶね……」
共倒れになりかけたグ・ラハの手首を冒険者が素早く掴み引き寄せる。積み上げられた本の山に、更に本が積もる音。それと重なるようにドサリと音を立てて二人倒れ込んだ。
「っはぁ、危なかった……。無茶するからだぞ、大丈夫かグ・ラハ」
「……」
「……おい?」
つんつん、と顎の下にある赤い三角耳をつつく。ぴこ、と動く様子を見るに無事ではあるようなのだが、何故か本体が微動だにしない。
「おーい、グ・ラハ?大丈夫かー?」
「…………こい」
「ん?」
「思ったより、柔こい」
「うひぁ」
至極真面目な声色で応えながら、唐突にグ・ラハの手がわしっと掴んだ――クッション代わりになった冒険者の、丁度グ・ラハの顔面を受け止めている胸を。
「すげー、話には聞いてたけどマジで分厚い筋肉ってこんなに柔らかいのな」
「……キャー、グ・ラハのえっちー」
「ぶふっ、棒読みにも程があるだろ色気ねぇな!」
「セクシーサービスは別料金だぞ」
「なんっだそりゃ!」
腹の上にグ・ラハを乗せたまま冒険者が軽快に言葉を返せば堪えきれずに吹き出した。つられて笑いながら、なおも胸を押すように揉み続ける猫に悪戯心がつい顔を出す。
「……そぉい」
「んっぶふっ!ちょ、やめ、っふ、堅った急に力入れんな堅ってえぇ」
脱力して良いように揉まれていた胸筋にわざと力を込めれば、急に堅くなったクッションにけらけらとグ・ラハが笑う。
「ふふ、ほれほれサービスだ、堪能するが良い」
「ふっはは、やめ、力入れたり抜いたりすんのやめ、笑うからんぐっ、ふっ、無理もう無理だ腹痛いンッフフっ」
「くっふふ、そう言いつつちゃっかり揉んでんじゃねえか」
「ふぐっ、ンン~凝ってますねぇお客サーン?」
「ぶはっ!おいこら馬鹿やめろ寄せるな上げるな擽ってぇってうっはははは」
ふざけて戯れ合いながら二人揃って涙が出る程に笑い転げていれば、いつの間にか肌寒さはすっかり消え失せていた。鮮やかな紅い髪を冒険者の大きな手がくしゃくしゃとかき混ぜると、上機嫌な赤い尻尾が応えるようにもう片方の腕をふわりと撫でていく。その擽ったさにまた冒険者がふふ、と笑った。
ああ、たまにはこんな何もしない、何にもならない休日も悪くない。
――尚、この後天幕の外まで響く大笑いに二人揃って仲良くラムブルースの説教を食らったのは言うまでもない。