Uncertain eyes『虹彩とは、人のいわゆる目の色・瞳の色のことで、遺伝性の身体的特徴である。おもにその表面にある色素に由来するとされ、色のバリエーションは虹彩の中の細胞が作り出す色素の割合によって決定される。色合いは成長や環境によって多少の変動が見られるものの、基本的に分類が変わる程の色の変化は無い。
-ピュシス治療院 眼科研究論文より-』
無限の光を切り裂いて、現れた漆黒の夜空を背負い振り向いた彼の姿を見たあの瞬間。『私/オレ』は二つの意味で息を飲んだのだった。
「あの人が帰ってこない?」
石の家の広間に置かれた机を一つ陣取り、暁の記録を片っ端から読み漁っていたグ・ラハは顔を上げると目を瞬かせた。
「そ。朝食の後に少し近くを見てくるって出たきり、もうお昼だって言うのに。どうせまた道中でギガースやら暴走ヒッポグリフやらの細々したトラブルに首を突っ込んでいるんでしょうけど」
まったくもう、とアリゼ-は腰に手を当てて短くため息をついた。ここ、レヴナンツトール周辺の魔物は今やあの冒険者にとって、絡まれるどころか避けられるようなレベルのものである。が、誰かが困っていたり被害が出るならば放っておかないだろう事は容易に想像できる。
「もうじき食事が出来るからってタタルがリンクパール通信で呼んだらしいんだけど、それにも出ないんですって。だから直接呼びに行こうと思ったんだけど……ほら、ザナラーン方面とクリスタルタワー方面、どっちに居るかわからないでしょ?」
「なる程。じゃあ手分けして探しに行くか」
ぱたんと軽い音を立てて本を閉じ、椅子から立ち上がる。連絡も入れず遠出はしていないだろうが、なまじ危険が少ない地域だ。自由という単語が人の形を得たような冒険者を探すのに、彼女一人では荷が重い。
「丁度そろそろ身体を動かしたくなってきた頃合いだったんだ。あんまり文字ばかり読んでるとまた叱られそうだしな」
「そうね。机で突っ伏して寝たりしたら、どこかをふらふらしてる誰かさんがまた過保護になるわよ」
「はは、違いない」
「ま、今はその誰かさんのほうが心配なんだけど……。あの人ったら、一応病み上がりなんだからって言っても聞きやしないんだから!」
そうして頬を膨らませる彼女に、今回ばかりはグ・ラハも同意せざるを得なかった。何せ宇宙の果てから瀕死で帰還し、療養を経てようやく医者からオールドシャーレアンを離れるお許しが出たばかりなのである。
とは言え久方振りの自由時間を満喫している様子に、あまり強く言えないでいるのは惚れた弱みと言うものだろうか。
「よし、じゃあラハはクリスタルタワーのほうをお願い」
「ああ、任された」
タワー近辺は昔から歩き慣れているグ・ラハのほうが適任だ。入れ替わりで戻る事も考慮しタタルに声をかけ、お互い見つけ次第リンクパールで連絡する手筈にして東西へ分かれる。ひとまずは街道沿いに見通せる範囲を探すことにした。
「天気が良いのが幸いだな……釣りでもしてれば分かりやすいんだけど」
出掛けた時には軽装だったと聞いたが果たして。道沿いに見渡しながら、ちらほらと見える冒険者達を確認して行く。おそらくはまだ駆け出しであろうか。依頼の魔物を狩ったり一般人の護衛をしたりしている彼らに時折回復魔法を飛ばして支援しつつ歩くと、かつての“ノア”の頃の自分達を思い出してクスリと笑みが溢れた。既に頭角を現し始めていたとは言え、あの頃は英雄もまだまだ芽吹いたばかりの若葉だったのだ。
聖コイナク調査団のキャンプに顔を見せ、程なくしてクリスタルタワーの麓へと至る。タワーの内部は先日張り巡らせた結界によりグ・ラハが感知できる為、実質ここで行き止まりだ。
「ここまでで会わないなら、後は南か……」
もしくは、と塔から少しだけ逸れた方角を見やる。この先にあるのは次元の切れ目……現状ただ1人だけが開き、潜る事の出来る“世界を渡る扉”だ。
「第一世界に行くなら、事前に一言あるとは思うが……」
次元を超えて英雄を呼び寄せるべく、水晶公が導いた場所。第一世界のクリスタルタワー内部・水晶公の居る星見の間に直接繋がる為、彼はあえてテレポを使わずに良くそこを通って来ていた。そんなささやかな選択を当時は嬉しく感じたものだが、今思うと少し面映ゆい。
さておき、現在の彼の行き先としてはいささか確率が低い筈の場所だが、不思議と気配を感じるような気がした。塔の敷地内であるからだろうか。半ば確信めいた予感に従ってグ・ラハは足を向けた。
「あ……」
水晶の壁に囲まれたそこは、心なしかひんやりと涼しい。その空間のほぼ中央に、はたして見慣れた背中が佇んでいた。
「見つけた……――」
「…………」
いつも通り名を呼び、声をかけた筈だ。怒鳴りこそしていないが、声量も差程小さくは無かっただろう。何なら手練の冒険者である彼は、グ・ラハが近付いた時点で先に気付く事のほうが多い。
だが、男は無反応だ。
(何だ……?)
虚空を見つめて動かないように見える姿に、グ・ラハは小さく眉を潜める。今は己の管理下にあるとは言え、ここはアラグ帝国の遺した特殊機構の最たる場所だ。
――幻影の類いか、あるいは何らかの阻害魔法(デバフ)か―
自然と耳がピンと立つ。
実体は……ある。纏う気配も、本人のように思える。妙なエーテルが絡み付いている様子も無い。
「……なぁ!どうしたんだ?」
「っ、」
少しだけ大きな声で再度呼ぶと、男はハッとしてようやく振り返った。グ・ラハの姿を認めると、極淡い青色の瞳がふわりと揺らぐ。
「すまん、ちょっとボーッとしてた。どうしたんだ?」
「あ、えっと……。昼前なのにあんたが帰ってこなくて、タタルが飯だってリンクパールで呼んでも返事が無いって心配しててさ。アリゼ-と手分けして探しに来てたんだ」
「何だって?そいつは悪い事をしちまったな……」
とりあえず謝っておくか、と男はすぐさまリンクパールを耳に当てた。グ・ラハもそれに倣い、合流の旨を伝える。
リンクパールから聞こえる小言に苦笑しながら謝罪を述べる顔はいつもの彼だ。怪我や異常も見られない事にひとまず胸を撫で下ろす。通信を終えると踵を返してグ・ラハの隣に並んだ。
「手間をかけさせたな。戻ろうか」
「それは気にしないでくれ。……でも何だってこんな所に?あっちに用事でもあったのか」
「いいや。ただ……何となくなんだが……、っ」
肩を並べて歩き出したのも束の間。急に男が何者かに引き留められたように足を止める。
「どうした」
「…………やっぱり、聞こえる」
「え……?」
ゆっくり、男は再度振り向く。聞こえる、とは言うがグ・ラハの鋭い聴覚には変わった音は何も聞こえない。だが、男はまるで吸い込まれるようにある一点へと足を進めた。
(あ……)
一抹の不安が、グ・ラハの胸を過る。この人に時折感じる、奇妙な揺らぎのような感覚だ。しかしそれは、思わず縋るように伸ばしかけた手の先……男の背の向こうに生じた異常に飲み込まざるを得なかった。
何もない筈の空間に、突如として波紋が広がる。歪んだそこは、明らかに“ここ”ではない何かに繋がるものだ。
「なっ!まさか、次元の切れ目……」
「……ああ、そうか。……そこに居たんだな」
慌てるグ・ラハと対照的な、静かな男の呟きに呼応するように、波紋はやがて凪いだ水面のように淡く光る膜になる。
「居る……?どう、い、う……」
そっと男の手が触れると起きた変化に、グ・ラハは目を見開いた。
触れた指先を起点とするように像が結ばれていく。そこに映るのは、男と瓜二つの顔だ。対照的に掌が重ねられている様はまるで鏡のようだが、しかし異なる出立ちがそれを否定する。
“向こう側”の男の姿は、グ・ラハには見慣れない黒を基調とした少し荒々しい旅装を纏っている。髪は今より気持ち短いだろうか。そしてその瞳の色は、今よりも少し濃い青色だ。
雲一つ無い空か大海原を連想させるそれは、かつて己の使命に眠りにつく前に見た色だった。更に言うなら、第一世界へ降り立ち、最初の大罪食いを屠る前の色。
その青色がふとグ・ラハの方を向き――泣きそうに微笑んだ。
「……ずっと、気になってたんだ。お前は……ずっと探して、呼び続けてたんだな」
囁くように語りかける“こちら側”の男の声は、何故か酷く温かい。まるで、迷子の子供に話しかけるように。
「遅くなって、すまなかった。お前は……俺だな」
合せ鏡の英雄が二人、ゆっくりと目を閉じる。それを合図とするかのように、つかの間の次元の隙間は端から細い糸のようにほろほろと解け、男に吸い込まれるように消えていった。
ふらり、と身体が傾く。
「危なっ……」
倒れる男が地面に頭を撃ち付ける既の所で、グ・ラハの腕が滑り込んだ。
「大丈夫かしっかり」
「っ……ああ」
ゆるりと上がる瞼の下から、グ・ラハを見上げる男の瞳は。
――深い蒼天の色をしていた。
無限の光を切り裂いて、現れた漆黒の夜空を背負い振り向いた英雄の瞳は、一等星のように輝く銀色をしていた。
あの日……およそ百年ぶりの夜空の煌めきと、身に宿した光の代償のようなその眼差しに射貫かれて、水晶公は息を飲んだ。
やがて夜を取り戻し原初世界へ帰還した後、時を遡るように英雄の瞳は緩やかに青みを帯び始めていた。
「一説には、東方等の日差しの強い地域に住まう人の瞳は、それに抗うべく色濃く……琥珀や黒へ寄ったのだと言います。逆に最も明るいのは青や緑、次いで灰銀だとか」
かつて目にした医学書の一説を、ウリエンジェは語って聞かせた。
「通常、人の瞳とは生涯そう大きく色を変えるものではありませんが、此度の状況は特殊なものでしたので……。然れば、我らが英雄の瞳の変化は、強い光のエーテルに抗う為に、身体が対応した事象のひとつであった……とも考えられるかもしれません」
故に、身体が平穏を取り戻した今、少しずつ昔の色に戻りつつあるのではないか。そんな仮説に、世の中妙な事もあるもんだと当の本人は半ば面白がって居たものだ。
「あなたは……あんたは、本当に不思議な人だな」
懐かしい瞳に何故か胸が締め付けられるのは、果たしてどちらの時間の自分のものか。分かりはしないが、この人が今ここに居る事実を確かめるようにグ・ラハは男を掻き抱く。
「おかえり、私の……オレの英雄」
「……ああ、ただいま」
『Uncertain eyes』 了