「~~♪」
小さな鼻歌と共に、赤い尻尾が機嫌良く揺れていた。海都に近い冒険者宅の台所は、この時期決まって甘い匂いに満たされる。
ヴァレンティオン・デー。高潔で美しい逸話から、いつしか人の『愛』を尊ぶ季節の代名詞となったこの日に、大切な人へと渡す贈り物の定番。それがこの匂いの正体、チョコレートだ。
秘めた愛を伝える者、今ある愛を菓子の形にのせて確かめ合う者。あるいは昨今、恋人だけでなく大切な仲間へ日々の感謝を『友愛』として伝える為に。こうして人々はこぞってチョコレート菓子を用意する訳だが、当然それは贈り主本人手製の物に限らない。
贈る相手の事を心から想って、気に入りの店で特別な逸品を買い求めるのもまた『愛』であり、故にその愛を支えるべく菓子職人達が寝る間を惜しんで奮闘するのもまたひとつの『愛』である。
そして、暁の英雄ことグ・ラハの恋人である冒険者は、その「職人」側の人間でもあった。
「ん~、温度は……よしっ!」
溶けたチョコレートをゆっくり混ぜていたグ・ラハは、刺した温度計を確かめると手早くガラスのボウルを湯から上げた。チョコレートの艶を出すための温度調整、テンパリングである。
「料理とは即ち科学である」とは行きつけのカフェの店主の言葉だったが、製菓は特にその傾向が強いと言える。ひとつ間違えれば別の物になってしまう繊細な菓子もしばしばで、チョコレートを使ったものも難易度は様々だった。
そしてそんな細かな作業は案外グ・ラハの性にあっていたようで、実は近頃こういった菓子作りが楽しくなってきている。
「うん、上手くいったかな……よし、急がないと」
一度温度を上げ、冷まし、適温まで上げ直す。テンパリングしたチョコレートは、ここからは冷めて行く一方だ。固まってしまえば最初からやり直し、スピード勝負である。
予め焼いて冷ましておいたクッキーを摘まんで、半面を次々チョコレートに潜らせて網の上へ置いていく。固まりきる前に砕いたナッツを振りかけ、小さな金箔も飾ってゆく。素朴な焼き菓子がきらきらと輝きを纏い、たちまち社交場への装いに変わっていった。
整然と並ぶデコレーションクッキー達を満足げに眺めて口許を緩ませる。これらは綺麗に固まったら包んで、後程暁の面々に渡される予定だ。長らく世界の危機に奔走していたから、こう穏やかなヴァレンティオン・デーは久々かもしれない。
喜んでくれると良いな、と思いながら調理器具を片付けていると、背後に愛しい気配が近付いた。
「ふぁ……おはよ……」
「あぁ、起きたのか。おはよう」
端から見たら誰一人として英雄などと思わなかろう。彼がここまで気を許した姿を晒す相手は限られるが、それにしたってまだ半分寝ているような状態で近付くのは恐らくグ・ラハ位のものだ。
彼がヴァレンティオンの特需戦争に駆り出されるのは毎年の事だったが、今年は特に忙しかったらしい。明け方まで作業に追われて、仕上げた菓子を納品して帰宅したのは昼前だった。出迎えたグ・ラハに抱きついたまま寝落ちしかけた英雄をベッドに押し込んでからはや数時間。真冬に比べれば日は伸びたが、太陽は緩やかにオレンジ色へと移ろい始めていた。
帝国との一連の動きが一段落して、世間にも明るい気風が流れ始めた証拠かもしれないと思えば、まぁ喜ばしい事だ。
背後からすっぽり抱き締められ、頬を耳にすり寄せられる。いつもより伸びた髭が耳の毛にじょり……と僅かに引っ掛かる気配がして思わずふふりと笑った。
「ん、皆に渡すやつ出来たのか」
「うん、なかなか上出来だろ?」
「店にも出せそうな出来映えだな」
上手くなったなぁ、と一流職人の賛辞にパタパタと耳がはためく。
「それから……これはあんたへ」
「ん?……おお」
小物の棚にさりげなく置かれていた箱を手渡され、冒険者が感嘆の声を上げた。箱の中には艶やかに仕上げられたトリュフチョコレートが並び、その一つ一つが違った装飾を施されて煌めく。さながら、小さな星が詰め込まれているようだった。
「凄いな、これも作ったのか」
「ああ。……まぁ、幾つか証拠隠滅はシマシタガ……」
「ふはっ」
巻き付いた冒険者の腕の上から尻尾でぽんぽんと己の腹を叩くと、察した様子で吹き出した。食材を無駄にはしていないので許されたい。
「……ありがとな、すげぇ嬉しい。食うのが勿体ないなぁ」
「鞄にしまうのは禁止だからな?」
「うっ、ワカリマシタ」
いつもぎゅうぎゅうに詰まった鞄を指し示されて呻く冒険者の唇に、グ・ラハはクスクスと笑いながらトリュフチョコレートをひとつ摘み上げて押し当ててやった。