ペンダント居住区には、ずっと昔から「主無き部屋」がひとつある。利便性の良い手前の集合住宅よりも少しだけ奥、独立した棟になっている上等な一室だ。
こんな好条件の部屋が空いているのには理由がある。その昔このクリスタリウムの街を作ったという張本人、水晶公のきっての願いだったからだ。曰く、『いつか訪れるであろう大切な客人の為に、なるべく快適かつゆっくりと静かに過ごして貰える一室を用意しておいて欲しい』と。
何においても民を優先し、己の希望を滅多に口にしない敬愛すべき指導者の稀有な願いは当然皆を二つ返事で頷かせ、以来その部屋は代々ペンダント居住区の管理人に引き継がれ、守られている。
しかしながら数十年に渡って空室のままの部屋だ。長命のヴィース属ならともかく、親子数代にわたって待ち人が現れぬその部屋は、いつしか住民達のささやかな好奇の的にもなっていた。
「ねぇねぇ知ってる?ペンダント居住区にある、誰も住まない部屋の話」
「当たり前だろ。水晶公の大事な客人の為に押さえてあるって言う」
「手入れはしてても、何十年もずっと空き部屋のままなんでしょう?おばあちゃんの頃からあるって話だわ」
「どんな人を待ってるんだろうね」
未だこの世界は尽きぬ光と白い侵略者に苛まれ決して穏やかとは言えないが、それでも今を生きる世代は先人の弛まぬ努力のお陰で人間として健やかだ。そして僅かながらも生まれた心の余力は、戦いの日々の中にあっても人々の何気ない会話や笑顔を生む。こと若い世代なら尚更である。
「もう数十年も経ってるって事は、相手はヴィースとか?」
「あるいは公のように何か不思議な力を持った賢者なのかも知れないぞ」
「公ほどの方が待ち続ける位だもんなぁ」
「男の人かしら、女の人かしら?」
ほんの少しの酒と、簡素ながらも心尽くしの肴。ひとときの休息の伴に、あの謎めいた部屋の話題は大いに弾んで。
ふと、一人の青年がエールのジョッキを傾けながら口を開いた。
「なぁ、俺ちょっと思ったんだけどさ」
「おう、何だ何だ?」
「大切な客人……と言われてはいるが、もしかしたら特定の個人では無いのかも」
「と、言うと?」
「何て言うかなぁ、こう……何かしらの条件があって、それに当てはまる人?が現れるのを待っているとか」
「成る程~?それなら確かになかなかやって来ないのも納得かも!」
「条件かぁ……それこそ、言い伝えの“闇の戦士”みたいな?」
「あり得るかもな……!もしそうだったら最高だな。他にはどうだろう?」
「うーん、条件、条件か……」
頬を己の指先でとんとんと叩きながら思案していたミステル族の娘が、はっとしたように耳を跳ねさせた。
「望む条件を満たす……公のお眼鏡に叶う相手……!つまり、恋人か花嫁候補……!?」
「「「それだぁ」」」
「「「なるほど」」」
酌み交わした酒精の効果もあろうか。彼らのテーブルはおろか、何の気なしに会話を拾っていた周囲のテーブルの面々までがわっと色めき立つ。
古今東西いかなる時も、恋の話題というのは酒の席で大いに盛り上がるものだ。それがそういったものと一見無縁そうな人間、更には彼らの慕うこの街の長についてなのである。騒ぐなというのが無理な話だった。
「この人ならばという相手の為かぁ、それなら公が自ら押さえて手入れをしてるのも頷けるわ」
「今はお一人でタワーに住まわれているが、恋人が出来たなら公だってそりゃあ職場とプライベートは分けたいよなぁ」
長年現れぬ相手、その為に維持され続ける部屋。程よく辻褄が合ってしまった考察にすっかり納得した人々がうんうんと頷きあう。
そして、判明した(かもしれない)事実をしみじみ噛み締めた後、強く前向きなクリスタリウムの民らが行うは『行動』であった。
「お二人で過ごされるには手狭じゃないか?」
「向かいの部屋も改装すれば……」
「台所も設備を今のうちに新しい型に入れ換えておくべきか?」
「待て待て、あくまで“客人”の線もまだある。ロンゾやガルジェントであっても問題無いよう家具も見直しておいたほうが……」
「インテリアは公の意向に添ったものである事が大事だろう?いくつか候補を纏めたカタログのようなものをだな……」
知恵は眠らず、とは誰が言ったか。勤勉な彼らの白熱した臨時会議は夜更けまで続き、そしてこの新たな課題は以来じわじわと住民達に密かに広まって行ったのだった。
***
「あー、そう言えばさ」
「ん?」
ふっくら分厚く焼かれたパンケーキにロランベリーチーズのクリームをたっぷり絡めて頬張ると、グ・ラハは年末の大掃除がてら部屋の模様替えに唸っていた男に向かって口を開いた。
「クリスタリウムのあんたの部屋、何でか知らないけどあんたが来る10年位前からやたら街の皆が世話焼いてくれてさ」
「へぇ?」
ハウジングはひとまず休憩、と男も紅茶を含む。思い出すのは決め細やかな配慮がそこここに感じられる第一世界の拠点だ。
「元々向かいの部屋は別の空室だったんだけど、そっちを改装して風呂とかの水回りにしたのも当時の管理人の案でさ。その分居室を二部屋繋いで広くして、ベッドも新しいものに入れ替えたんだ。ガルジェント族でもゆったり寝られるぞって」
「そういやあそこワンフロア使わせて貰ってるし、やたらでかいもんなあのベッド。でも、お前俺がヒューランだって知ってたろ?」
「それだけくつろげるようにって事さ。公の大事な客人の為なら自分達にも手伝わせてくれって。家具やインテリアも色々提案してくれたし、良いものが出来ると『客人の為に良ければ是非置いてくれ』と持ち込まれたり、キッチンなんかは新しい設備のが出来ると『ついでに試させてくれ』って都度新装されてたりしたよ。おかげであっちに居る時からあんたの手料理が味わえたな」
「もの凄い待遇の良さなんだが」
「はは。でも、これがある時から急にでさ……まるで皆、あんたがやって来る予感を感じとっていたみたいだ」
懐かしそうに目を細め、かつそのての反逆都市の指導者は微笑む。愛し、愛されたあの街の皆との絆はいまだ健在なのだろう。
男もまた、初めて訪れた日の事を思い出していた。先立って暁の面々が喚ばれていた事もあろうが、行く先々で温かく迎え入れられ、ずっと今でも自分を仲間と呼んで支えてくれる人々。
「ホント、いい街を育てたな、おじいちゃん」
「……へへ」
男の手がくしゃりと柔らかな耳ごと赤毛を撫でる。あの極限を乗り越えられたのは間違いなく周りの人間に恵まれたお陰だ。今、世界の危機を乗り越えて、一旦英雄の肩書きを下ろす事が出来るのも。
「……何だかクリスタリウム様式の家具増やしたくなってきたな。丁度良い、食い終わったらちょっと相談にのってくれないか、ラハ。居住区の再現じゃなくて、今のお前と住んでるこの家らしく模様替えしたい」
「ああ、勿論!」
窓の外にはうっすらと雪が積もり始め、柔らかな光を放っていた。
「ところでラハ……“水晶公”さんや」
「うん?」
「お前、あの時『たまたま部屋が空いていた』っていわなかったか」
「アッ」
【来年も宜しくお願い致します! 天晴】