――ぴこ。
「……」
――ぴこぴこ。
「…………」
クリスタリウムはペンダント居住区。その中でも一際上等な一室は、甘いハーブと花の香りで満たされていた。
備え付けのキッチンでは一人の男――この世界に夜を取り戻した英雄たる闇の戦士――が、手ずからハーブティーを淹れながら上機嫌にティーセッティングを進めている。
そして、それを後ろのダイニングテーブルに腰掛けた青年が見つめ……ていなかった。
――ぴるる。
「………………」
――ふらり。
「ぐっ…………」
小さく眉間に皺を寄せている青年の名はグ・ラハ・ティア。この世界においては水晶公と呼ばれる、闇の戦士と並ぶもう一人の英雄(本人は自分が英雄などおこがましいと言って聞かないのだが)である。
あえて称するならば闇の戦士に対して闇の守護者。光の氾濫から百と数年、時空を超えこの第一世界に僅かに残された命を、希望を、自らの命を賭け護り続けた紅玉の瞳の青年は、今は数多の願いと運命の元に再び未来へ歩まんとしている。
誰より憧れ、恋い焦がれた英雄と共に。
そんな彼の目の前のテーブル上には今、一体の魔法人形が鎮座していた。
一定のパターンで揺れる、猫に似た赤い耳。左は翠玉、右は紅玉の瞳はかつての己を模したもの。
以前にも見せられたそれだが、何度見てもどこかむず痒いような、居たたまれないような気分になる。特に右目を押さえてふらつく様は――当時は本当に痛みとも言えなくない疼きに見舞われていたので仕方が無いと言えば無いのだけれど――どうしてこれを採用したのか発案者を小一時間問い詰めたい。
何とも言えぬ面持ちでマメットと見つめ合う水晶公に口許を緩ませながら、男は「ラハ」と穏やかな声で呼ぶ。水平に近くなっていた紅い耳がピンと跳ねた。
「トリュフチョコレートとキャラメルサブレ、一緒に喰うならどっちが良い?」
「それは……何とも酷な質問だな」
「はは、それもそうか」
口では酷いと言いつつ微笑む恋人に、すまんと謝りながら硝子の保存瓶を二つ開ける。甘い二種類の菓子を半々で皿に取り、ポットから抽出の終わった茶葉を引き上げれば準備はほぼ完了だ。
水晶公は椅子から立ち上がると、ローブの裾をひらめかせて男の隣に立つ。するりと水晶の腕が伸びて、サブレを一つ摘まみ上げた。
「こら、行儀が悪いぞ、水晶公?」
「ふふ、今はあなたしか見ていないし、良いだろう?」
ぱくり。一口大に焼かれたそれを口に放り込み歯を立てれば、さくさくとした心地良い食感と香ばしくほんのり苦いキャラメルの香り。バターをたっぷりと使っているのだろう、贅沢な風味が鼻をぬけていく。
「どうだ、旨いか?」
「ああ、とても」
花が綻ぶような笑顔とはこういったものであろう。心からの喜びを乗せた表情に愛おしさが溢れ、男の指がそっと頬を撫でると、心地好さそうに瞼を閉じてすり寄る。
(あぁ、そうだ。それで良い)
食事や睡眠を取らずとも平気な身体だから、自分には過ぎたものだから、と。苦心の百年の所為なのか、はたまたいずれ散る生命と割り切ってしまっていた為か。水晶公はしばしば控え目を通り越して自分を卑下する嫌いがある。
クリスタリウムの民は勿論、何より男の心はそれが痛いのだと、何度も何度も伝え続けてようやっと。最近こうして二人でいる時は、食べ物類に限らず、ささやかだが自分から手を伸ばしてくれる事が増えた。
非常に喜ばしいがこの猫の事だ。もし言葉にして聞かせたらまた恐縮して逆戻りしてしまいかねないので、男はただひたすら与え続けるのに専念する。無論、それ自体が男の喜びでもあるのだが、もう少し思い知って貰わねばならない。
(何せ、百数年分を倍返ししてやるんだからな)
捧げられた時間と心の分、菓子処ではない程甘やかしてやろうではないか。改めてそう思いながら柔らかな前髪をかき分けて額に口づけを落とす。
「ふふ、擽ったいよ――さて、運ぶ位は手伝おう」
「座っててくれていいのに」
「貴方は私を甘やかし過ぎだよ。それに私だって貴方と一緒に用意から楽しみたい」
「ん、そうか。じゃあ菓子の皿の方頼む」
「ああ」
頷いた水晶公が皿に手を伸ばしながら、くるりと踵を返そうとした処で。
――ちょろっ。
「わ……っ!」
いつの間にか足元に来ていたマメットに驚いてたたらを踏んだ。皿を引っ掛けないよう咄嗟に手を引っ込めるも、反動でバランスを失った身体がぐらりと仰け反る。
「ラハっ」
あわやカウンターに頭を打ち付けそうになった水晶公を、男の腕が抱えるようにして引き寄せた。腰を落として床への距離を縮め、衝撃を逃がしながら倒れ混む。
「っは、大丈夫か?」
「っ……ああ、すまない」
ほぅ、と男が息を吐く。慌てて起き上がろうとする水晶公の背を宥めるように撫でて軽く抱き締めた。とてとてと近寄ってきたマメットが何か申し訳なさそうに見えてふっと笑うと、片手で掬い上げ水晶公の上にぽすっと乗せる。
「……動けないのだが」
「そうだな」
動きを封じられた水晶公に、悪戯が成功した子供のような顔をしてみせながら、ふっと昔の記憶を思い出す。
「なんだか懐かしいな、これ」
「え?」
「昔『ノア』の頃、よくこうやって枕にされてただろ、俺」
「っ!あ、あれは、その……!」
何も詳しい事がわかっていなかったクリスタルタワー。その謎を追ってただ真っ直ぐに走っていた頃の自分達の無邪気な戯れ。「ちょっとクッション貸せよ」と本を読むグ・ラハの背もたれにされたり、時には二人して今のような体勢で折り重なるように眠りこけ、経緯がわからないラムブルースに怪訝な顔をされたものだ。
「いや、その……あの頃は申し訳ない……」
「謝る事ないぞ。別に嫌じゃなかったし」
何なら今はむしろ大歓迎なんだが?そう言えば可愛い恋人は頬をぽっと赤くした。お互い当時はそんなに意識していなかったとはいえ昔に比べて何とも可憐しい反応に愛しさが込み上げる。
「で、百うん年ぶりの俺枕の寝心地はどうだ?」
「う、その、相変わらず柔らか……うん?」
はた、と水晶公の目付きが変わった。ハの字になっていた眉はすっと伸びて、目の前の男(の胸筋)をじっと見据える――何かに興味を引かれた時の研究者の顔だ。
徐に手が伸ばされ、脇側から寄せるようにむにっと掴まれた。
「……前より……厚みが増してるな……」
「ああうん、まぁあれからもだいぶ鍛えたし?」
「そっか……そうだよな……流石オレの英雄……」
ふにふに、むにむに。無心に男の胸を揉む姿は完全に好奇心に支配された昔と同じそれで。うっかり胸筋に力を入れぬよう、かつ吹き出しそうになるのをぐっと奥歯を噛み締めて堪える。敬愛する長のこんな姿をクリスタリウムの民が見たならどんな反応をするのやら。
(他に見せる気なんて毛頭無いけどな)
「――お前のお眼鏡に適ったようで何よりだよ。……処でだ、ラハ」
「んー……」
このまま好きにさせていても良いのだが、今夜は折角の二人きり。
腰に回した腕に少しだけ力を込め、囁く。
「……今ならセクシーサービス無料キャンペーン中だけど、どう?」
「ッ――――」
ぼんっ、と音が出そうな勢いで膨らんだ尻尾がローブの裾を捲って跳ね上がった。今日は固定していなかったらしい。
いつかの戯れ合いで言った、たわいもない言葉。けれど今の二人の関係では少々、持つ意味合いが違って聞こえてしまうもの。
ちら、と見上げてくる瞳の周りは、再び桜色に染まっていた。
「……そ、の」
「うん」
「……そのサービスは……私専用の限定品か?」
精一杯の言葉返しに、男の眼差しがとろりと蕩ける。
柔らかな赤い耳に唇を寄せて、
「――勿論」
蜜のような甘さを吐息に乗せて囁いた。