=夏の所為《せい》だから「あっっ……つい」
照りつける太陽が白い砂浜に反射して眩しい。けれどここ、コスタ・デル・ソルの暑さはからりとしていて、海の青さも相まって嫌悪感はあまり無い。
波打ち際では半ば強制的に水泳教室が行われており、サンクレッドに引き上げられるウリエンジェとアリゼーに扱かれているアルフィノによって、定期的に派手な水音が鳴っていた。
「ラハ、これ被っとけ。後々頭痛くなるぞ」
「ん?」
大きな手がグ・ラハの頭上にぱさりと何かを置いた。淡いベージュの、大振りだが軽い帽子だ。
「麦わら帽子。涼しいだろ」
軽く手で押さえながら、ミコッテ用に空けられているのだろう穴に耳を通した。内側は少し空間が取ってあって頭に密着せず、素材の特徴も相まって風通しが良い。広く作られた鍔は首元まで影を落とす。成る程、良く考えられているものだ。
「うん、これは良いな」
帽子からひょこりと覗いた耳が嬉しそうにはためく。冒険者は微笑みながら氷を入れたグラスにアームララッシーを注ぐと、小瓶に入った薄紅色の粉末をほんの少し振り入れた。
「それは?」
「砕いておいたラノシア岩塩。汗かくと水分だけじゃぶっ倒れちまうからな」
ほら、と手渡されたそれに恐る恐る口を付ける。甘いラッシーに塩を入れたりして大丈夫なのだろうかと構えていたグ・ラハは、良い意味で目を丸くした。
「旨い……!全然しょっぱくないんだな」
「ちょっとしか入れてないしな。それに、隠し味程度に塩を入れてやると、却って元の甘さを引き立てるんだ。果物類なんかは特に相性が良い」
「言われてみれば、いつもより甘い気がする」
「だろ?東方の菓子なんかだと良く使われてるぞ。あっちは海塩が多いかな」
「あ、確かに……」
こくりともう一口飲み込みながら、彼に連れられ訪れたクガネで味わった団子を思い出す。黒いペースト状と金茶のソース状の「餡」が絡められた物は、微かな塩気を感じた記憶があった。
「そう考えると逆もあるよな。肉料理にジャムとか」
「そうそう。お前のサンドイッチも、ローストチキンにクランベリージャム合わせてるだろ?」
まだまだ冒険者には及ばないが、原初世界へ帰還してからグ・ラハも多少料理する機会が増えた。半分は純粋な興味、もう半分はキッチンでの恋人の隣が心地よい所為だ。その上出来た料理を喜んで貰えるとあらばやる気が出ない訳もなく。
「月並みだけど、料理って深いなぁ」
「はは、そうだな。新しい所に行く度に知らない料理に出会うし」
それも冒険の醍醐味だ、と冒険者は自らもグラスを呷る。嚥下するのに合わせて上下する喉仏を一筋汗が流れ、それが白いシャツへと吸い込まれて行く様にグ・ラハの心臓がどりきと一つ鳴った。
(ああもう、何しても格好良いんだよなぁ……)
一つ一つの何気無い所作が、時に精悍さを、時に男らしさを、そして時に色気を醸し出す。惚れた欲目は多々あると自覚はしているが、それを差し引いたとしてもこの英雄は頗る男前だ。正直な処、この浜辺に来てから普段より多く視線を感じるのは気の所為ではないと思う。
暑さだけでは無い頬の火照りを感じて、誤魔化すように帽子の鍔に隠れ冷えたグラスを唇に押し当てた――刹那。
「ちょっと、何よアレーーーー」
響いたのはアリゼーの声だった。ちゃっかり冒険者と二人寛いでいたのを見咎められたかと思いきや、彼女の視線は青い海へと向いている。
その視線を追った先を見て、グ・ラハはさっと顔を青褪めさせた。
「あれは……鮫か」
青みがかった山形の鰭が、ぐんぐんと海岸線に迫ってきている。鮫にも種類は居るが、大きさからして大人しい部類の物には見えない。
「皆!すぐに戻って来い」
声を上げた冒険者の身体をエーテルが走る気配がする。見た目の服装は変わらぬまま、流れる炎の様なエーテルを纏うこれはグ・ラハとの手合わせでも披露された覚えがある――モンクの構えだ。
グ・ラハの杖は少し離れた場所に置いていて、取りに行くのも間怠こしい。ならばとこちらもエーテルを操り、白く輝く剣と盾を創り出す。
慌てて走って来る仲間達の背後で、大きな水柱が上がった。
『シャァァァアーーーーーーーーク』
「「――はぁ」」
現れたのは巨大な鮫。いや、グ・ラハの認識で言えば「鮫〝のようなもの〟」
少なくともグ・ラハが見た事のある生体や剥製、記録には「腕や足が生えた鮫」は居なかった……と思う。後、比較的人語に近い鳴き声も何かおかしい。
「何なのよコイツ人なのサメなのハッキリしなさいよ」
「アリゼー、論点はそこでは無い気がするのだけれど……」
「ヒトか、サメか……見目は違えども、しかしながら……サハギン族のように……人語を解し……和平の道を見いだす者は……ヒトとして……しかし彼らの矜持として……」
「おいウリエンジェ、良いからお前はちょっとあっちで休んでろ」
個々の混乱の様子からもこの鮫らしきものを知る様子は無い。しかし、少なくとも興奮状態にあるように見えるこの相手を野放しにするわけにもいかない。
直ぐに戦闘が出来そうなのは自分と冒険者だけだ。未知の相手ではあるが、とにかく注意を此方に向けて――。そうグ・ラハが相手の敵視を取らんとした、その隣で。
重々しく、例えるならテンペストの海より深い溜息が、冒険者の口から零れた。
「……た……」
「えっ?」
ぐ、と拳を握る。
「まぁあたぁぁああ……!」
踏み込んだ足が、砂を抉る。
「お前かぁぁああああっっっッッッ」
一瞬で懐に入り、拳を真っ直ぐ天に突き上げる。鍛え抜かれたモンクの強烈な一撃をもろに顎に食らい、鮫らしきものが打ち上げられた。
『グシャァァァアーーーーーーーーッ』
「はぁぁあっ」
砂浜を蹴り跳んだ冒険者が、続け様に拳を脳天に叩き込む。仕上げとばかりに回し蹴りを撃ち込めば、くらくらと目を回した鮫らしきものは海へと強制送還されて行ったのだった。
「――ふぅ……」
ぽたぽたと、冒険者の髪から雫が垂れる。呆気に取られる仲間達を振り返り、飛沫に濡れて視界に張り付く前髪を鬱陶し気に片手で掻き上げた。
(――ッ――――)
少しだけ顰められた眉に、濡れた睫毛から覗く澄んだ空色。滴る水が頬から顎へ線を描く。強い日差しと今しがた暴れた反動で、僅かに上気した息と肌は言い様の無い艶を醸し出していて。
否応無しに、情事の時の彼を思い出してしまい、グ・ラハは声にならない叫びを上げた。
その上、派手に濡れたせいで一枚しか着ていない彼の白いシャツが――透けているのだ、色々と。
ぶわり、と己の尻尾が膨らむのを止められるはずも無かった。
「何だったんだあれは……お前は知ってるのか?あいつ……」
「あー……一昨年のだっけかな……紅蓮祭でひと騒ぎ起こした奴。第一世界のテンペストにも居たぞ」
「マジか。俺は見覚えが無いが……」
「あぁ、居たのはアーモロートのアナイダアカデミア……現影の施設内だったからな。後、エルピスに居たわ」
「つまり元は例の古代人の産物と……現代まで生き残ってたって訳か」
「ヒュトロダエウスにもう少し文句言っときゃ良かった」
がしがしと己の髪をかき混ぜながら再び溜息をつく冒険者にサンクレッドが苦笑した。
「さて、とんだ災難だったな。ウリエンジェもバテちまってる事だし、我らが英雄殿もずぶ濡れだ。そろそろ帰るか」
「そうだな、皆も帰る前に水分取っておけよ。あっちにアームララッシー作ってあるからな」
「本当?飲む飲む!アルフィノも行きましょ!」
「ああ、貴方の作るものはいつも美味しいからね。有り難く頂くよ」
嬉しそうに向かって行く双子の後ろ姿を穏やかな瞳で見送ると、冒険者はグ・ラハの方を振り返る。
「……ラハ、大丈夫か、顔赤いぞ?逆上せたんじゃ無いだろうな?」
「ひぇあ」
ぴたりと額に手を当てると、グ・ラハは裏返った声を上げて大袈裟な程にびくりと肩を跳ねさせた。「え、あ、……ぅー……」と呻きながら冒険者の胸元辺りでおろおろと視線をさ迷わせている。忙し無く揺れる赤い尻尾が普段の倍以上の太さに膨らんでいるのを見て、はてと首を傾げた。
「本当にどうした。具合が悪いなら隠したりしないで――」
怪訝な顔をしてグ・ラハの顎に指先を掛け、軽く押し上げ上を向かせる。紅玉と藍玉がお互いを映し込んだ。
交錯する視線に、冒険者の表情が変わる。
「ラハ……お前――」
「……ひ……」
一瞬驚いたように見開かれたアイスブルーの瞳が緩やかに溶け、その奥にチリリと焔が灯る。ゆっくりと唇が弧を描いて、顎に掛けられた親指が優しく輪郭を擦って行った。
――見透かされているのだ、全て。
「――サンクレッド」
「おう、どうした?」
「ラハが少し熱さにやられたみたいでな。今日はこのままミスト・ヴィレッジの家に帰るよ」
顔だけ振り向いた冒険者の身体に隠れて、グ・ラハの様子は見えない――が。
「あぁ、解った……お前もやられないよう、程々にな。――お大事に」
元・愛を唄う詩人は唇の端を上げて、長い付き合いの友人に向かって片目を瞑った。