こぷん。
海に潜ったような音が身を包んだ。閉じた瞼は柔らかな闇に覆われて、まるで「眠り」というものが形を得たよう。
暑さも寒さも無く、かといって明確な温度も言い表せず。しかし不思議と恐怖や不快感も無かった。
とぷん。こぽ。
泡の音が鳴る度、ゆっくりと身体が沈んで行く。息苦しさは無い。……そもそも、呼吸をしているのかどうか。
はて、これは夢か。ならば己は何処でどう寝入ったのか。
眠る前にはどうしていたのか……思い出せないのは夢の中故か、だが何故「思い出せない」と思うのだ?
こぽり。
また少し沈んで行く。底まで沈めば、目覚めるだろうか?霞む記憶が形を持つか……魂の奥底に眠る、遠い遠い記憶まで。
「……はぁ、全くお前と言う奴は」
「いやはや、今回もなかなか無茶をしたねぇ?」
――ああ、この声は……覚えがあるな。
「当たり前だ。覚えていろと言っただろうが……昨日の今日で忘れるんじゃない」
「フフ、ほら、ねぇキミ?そろそろ目を覚ましてやらないと、我らが友が心配しすぎて泣いてしまうかもよ?」
――泣く?自分の所為でか?それは良くないな……。
「誰・が・泣くか!……それだけ聞こえているのなら、とっとと起きたらどうだ」
「フフフッ……素直じゃないんだか――あいたっ」
ゆるゆると、重い瞼を上げた。視界に入るのは、やはり海の中のようで。
己を覗き込むように、淡い色彩の髪と煌めく瞳を持つ人が、二人。
――ハーデス、ヒュトロダエウス。
「うん、よしよし。ちゃんと意識が浮かび上がったようだね。キミ、ここが何処だか分かるかい?」
――海の中……いや、二人が居ると言うことは……星海?
「半分正解だ。はぁ、漸く休めるかと思ったら……軽率に落ちて来るな馬鹿者が」
「ここはね、星の海の渚。終焉を謳うものと戦ったのは覚えているかい?」
――終焉……ああ、そうだ……青い鳥……メーティオンが、元に戻って……それから……そうだ。あいつが。
「うんうん。キミ、少しばかり熱烈な子とだいぶやんちゃをしたものだから……肉体を限界まで酷使してしまったようだね」
――……そうか。
「全く、何だあの様は……まるで子供の喧嘩ではないか。余りに勢い任せすぎる」
――……それ、多少……いや大分アンタの曾孫の所為だと思うんだが、ってのは言わないほうが良いか……。
「駄々漏れで聴こえているわ大馬鹿者」
「ンッフフフフ、この会話じゃ声も思考も同列だものねぇ、ふふ、フフフフ」
――あー……星海って事は身体が無いから、思念みたいなもので今喋ってるのか?俺。
「概ねそう言う事。理解が早いね!柔軟な姿勢は良いことだと思うよ」
成る程、どうりで物理的な感覚が曖昧な訳だ。記憶と魂だけの状態とはこういうものか。そして、つまり。
――……俺、死んだのか。
星の海の入江、肉体を失った魂が還る場所の入り口。つまりは、そう言う事なのだろう。
「……早合点するな。お前は『まだ』完全に死んではいない」
――……『まだ』?
「そうだ。ここは星海と現し世の境目。お前と、お前の肉体を繋ぐエーテルの『糸』はまだ切れていない。……完全に切れていたら、問答無用で一気に底まで沈んで来ていただろうな」
「とはいえ、このままゆっくりでも沈んで行ったら、いつかは途切れてしまう所だったから。ちゃんと留まってくれてて良かったよ」
――つまり、死にかけ?
「うん、何ならちょっと身体の機能は時々止まったりしちゃってるかも。でも、何とか繋ぎ止めようとしてくれているよ」
繋ぎ止めようとしてくれている。誰が、なんて考える必要もない。ああ、そうなのか。
――そうか……まだ、帰れるのか。
「……そうだ。お前の意志があればな」
「このまま星海に身を委ねて星に還り、次の転生へ進む道もあるけれど。キミはまだそうじゃないんでしょ?」
こくり、と迷うこと無く頷いた。
――帰りたい。……まだ、足りないから。
「うん。ちゃんとキミの意志が聞けて良かった。もう心配は要らないね」
「ならばさっさと、振り返る事無く行け。冥界から帰るというのは、古今東西そういうものだ」
――ああ、ひんがしの国だと「黄泉還り」とか言うんだっけ。振り向くと引きずり込まれちまうって聞いたな。
「フフッ、そんな伝承もあると言うね。でも多分、キミの場合は真逆の扱いをされるよ?……ほらね」
え?と問う前に、くっと押し上げられるような感覚がした。押されている、何かに……誰かに。
振り向かずとも、これが誰か……誰“達”なのかは、分かる気がした。そう、だからきっと、振り向く必要が無いのだろう。
「……行ってこい、お前が満足するまで。次の舞台の緞帳は、自ら上げてみせろ」
「そうしてキミが存分に物語を紡ぎきったなら、その時はまたここでキミを迎えよう。土産話を楽しみに待っているよ」
押し上げられて、浮き上がる。水面に近づくにつれて、声が聞こえた。
ふ、と小さく息を吐いた。
ぐすり、と啜り泣く声がする。堪えるような呻き声に似た声がする。
――どうしたんだ?何か困っているのか?力になれる事はあるだろうか?
そう、冒険者というものはこれが基本なのだ。勿論職業上、こうして稼がねばならない訳ではあるのだが……それ以上に、気になって仕方がないのだ。
お人好しだとよく言われるが、大いに結構。勿論毎度すっきり解決するものばかりじゃないが、こうしてやって来た中での出会いが、掛け替えの無い絆を自分に与えてくれた。
それがどれだけの価値有るものか。何せ、世界を救うほどのものだったのだから。
柔らかい、温かい光を瞼に感じる。
呼び声に応える為に、ゆっくりと眼を開けた。