機密情報 No.66 第一話
ベイカー・ストリート221B。
常なら騒々しさの絶えないそのフラットに、今は気まずい沈黙が漂っていた。
「マイクロフト、だよな?」
開け放されたままになっている扉のすぐ前に、見慣れない青年が立っていた。
其だけならば、依頼人が直接やってくるこのフラットでは、よくある見慣れた日常の光景であった。
しかし、彼は、今日初めてやって来た依頼人などではない。
本来其処に立っているべきは、フラットの住居人、シャーロック・ホームズにとって、最も忌むべき相手である、兄のマイクロフト・ホームズであった。
マイクロフトが弟を訪ねて来るのに、いちいちアポイントを取ることはない。
いつも通り兄の足音を聞いて、シャーロックが不機嫌になる、そしてマイクロフトが入ってきた所で、シャーロックが罵詈雑言を浴びせ、面倒な兄弟ゲンカが始まる…。
そうであれば、まだ平穏に事がすむ筈だった。
しかし今日は、本当にタイミングが悪かったのだ。
イタリアから送られてきた連続殺人事件の現場に落いてあったという薬品が、丁度手元に届いた所であり。
それを珍しいとはしゃいだシャーロックが、薬瓶をもったまま扉の近辺を踊るように跳ね回っていた所であり。
…また、珍しくシャーロックとジョンで酒を飲み交わした次の日の、酔いの覚めきらない朝でもあったのだ。
早々に自分の精神の内に逃げ込んだフラットメイトの代わりに、ジョン・ワトソンは動揺で震える声をどうにか吐き出した。
目の前の、成人を迎えたかどうか程の青年も、流石に事態を把握できて居ないらしく、忙しなく目をしばたいている。
しかし暫くもしない内に、その目がやがてじろりと目の前に陣取る二人を見やった後、足元に落ちていた長い傘を丁重な手付きで拾い上げ、穏やかに微笑んだ。
「シャーロック。お前は愚かだと思っていたが、此処までとはな。幼少期から成長していないようだ…、取り敢えずその手元の薬品を渡しなさい。この退行以外の効果があったら堪らない。」
何時もより少し早口気味にそう言いきった青年姿のマイクロフトが、その腕を優雅にシャーロックに伸ばした。
いくら待っても動かないシャーロックに、大袈裟に溜め息をついて今度は苛立ちの滲む乱暴な動作でその腕から薬瓶をひったくった。
そしてその中の元あった量の3分の1くらいになってしまった薄紫色の液体を揺らしたり、光に翳しながら暫く観察したと思うと、今度は大袈裟に眉間に皺を寄せて、ジョンの方に振り返った。
「すまない、ドクター…」
「…ワトソン。」
「ああ、すまない、Dr.ワトソン。差し支えなければ君の所の機材を幾つかお借りできるかな?少々厄介な事になったようだ、周囲に情報を漏らすのは避けたい。」
ジョンは答える事が出来ないまま、もう一度現実逃避を図っているフラットメイトを見やった。
記憶がないらしいぞ、だとか、何が起こっているんだ、とか幾ら思考を巡らせても、この兄弟にはどうせ見透かされていそうな、凡庸な言葉しか浮かばない。
ジョン視線の先のその男が微かに、すぅ、と空気を吸い込んだのを聞いて、マイクロフトもそちらにゆるりと向き直った。
「…モリーの所に警察から借りた器具がそのままになっている。それを使おう。」
そうして足早に出ていったシャーロックの後を、溜め息を吐いて追いかけていった。