打ち明け話は異郷の夜に 世界大会の開幕を明日に控えた夜、異国の宿の一室にて。右藤大元は、同室のチームメイトである霞冬居が寝床に広げる膨大な荷物の数々を見下ろしていた。バスタオル、ミネラルウォーター、救急箱にアイマスク。
「ほんと準備いいよなあ、冬居は。すっげー量」
「不安になっちゃうから……この程度はやっておかないと」
霞が根っからの心配性であることくらい右藤も以前から承知しているが、海外遠征ともなれば普段の比ではないらしい。だがこの気質こそが霞の強みでもあり、攻撃手としての適性を指導陣が見出した理由と無関係ではないのだろう、と右藤は考えていた。
「やっぱ山田さんに色々聞いたのか? こっちで気をつけた方がいいこととかさ」
「……そういうの、全然期待してなかったんだけどね。最近になって突然、あれこれ教えてくるようになってさ。去年自分が帰ってきたときは、ほとんど何も話してくれなかったくせに」
似たようなことは右藤にも覚えがあった。尊敬する先輩たちから土産話をあれこれ聞き出すつもりでいたのに、誰も彼もが試合内容に関しては口を噤んだのだ。詳細は今も知らないままだが、全敗したことだけは監督から伝え聞いている。
「山田さんからインドのこと聞き出すのは諦めようって、とっくに割り切ってたんだよ。なのに僕が代表に選ばれた途端、水に気を付けろだのなんだのってお節介焼き始めてさ。それでも結局、試合のことは教えてくれなかったけど」
幼い頃から付き合いがあるこの二人の間ならもしかして——と右藤は淡い期待を寄せていたのだが、やはり昨年起きたことは上の代のメンバーが共有する秘密らしい。
「心配になっちまったんだろ。冬居のことよーく知ってるからこそ、な」
山田は何事にも大雑把に見えて、あれで結構面倒見が良いほうだ。海外に旅立つ幼馴染みを気に掛ける姿は、想像してみれば意外としっくりくるな、と右藤は思った。
「だったら、知ってることは全部教えてくれたっていいのになって思うよ。……でも意地になる理由があるのも、なんとなくわかるから」
話すうちに興が乗り始めたのか、霞は自らぽつぽつと語り出した。知らない土地、馴染まぬ空気、慣れない宿の作り。彼の口を動かしている一因はきっと、自分たちを取り巻くこの「非日常」だ。右藤は切れ長の目を更に細めて、霞の横顔を静かに見つめた。
「……日本を発つ朝、僕が家を出たら玄関の前で待ってたんだよ、あの人。すっごく複雑そうな顔して、『勝てよ』って。そのひとことを言うためだけに出てきたみたい」
「へえ」
右藤は少し意外に思った。面倒臭がりとして知られるあの先輩が、わざわざ見送りの一瞬のために? 複雑そうな顔、という点は「俺らみたいに全敗で終わるなよ」と発破をかけつつも、勝ち星を上げられてはそれはそれで癪に障るだとか、相反するものが山田の中にあるのかもしれない。
「そんなふうに言われたら、絶対に一勝だけでも持って帰らなきゃって思うでしょ。だから何より、お腹壊すわけにはいかないなあって」
「違いねーな」
荷物の確認を一通り終えたらしい霞が立ち上がり、備え付けの冷蔵庫からペットボトルを一本取り出す。彼は蓋をひねる手元に耳を寄せ、新品の証たる音をパキパキと慎重に鳴らしてみせた。中身をひとくち呷って喉を潤した霞の、次の言葉を右藤はじっと待つ。
「……けどやっぱり、勝ちたいと思うのは自分自身のためだろうな、って。飛行機の中でずっと考えてたんだ」
「……それって、『ただ単純に勝ちたい』ってのとは、また別なのか?」
うーん、チームメイトに言うべきことじゃないと思うけど、と前置きした霞は言葉を選んでいる様子だった。彼がここまで胸の内を明かそうとしてくれるのは実に珍しい。キャプテンとして信頼を得ている手応えを感じ、右藤は相手の気の赴くままに話をさせることにした。
「んー……えっとね。この大会の結果次第で、僕が今後……山田さんにどれだけ強く出られるようになるか、懸かってくるんじゃないかなって。そんなこと考えちゃってさ」
「強く出られる……普段の態度含めて、っつーことか?」
「まあ、そういう感じ」
「……苦労してんだなあ、お前」
右藤から見た二人はごく普通に仲の良い幼馴染みといった印象だが、山田は霞に対して時たま身勝手な振る舞いを見せることがある。たった一歳差であっても、生まれた順というものはやはり大きいのかもしれない。世界大会での勝ち星はそんな幼馴染みを牽制し得るカードになるはずだと、霞は考えているらしい。普段は鳴りを潜めている彼の負けん気を垣間見て、右藤はそれを好ましく思った。またひとくちミネラルウォーターに口をつけ、霞は言葉を続ける。
「なんていうか、後から追いかけるのも悪いことばかりじゃないのかもって……そう思えるようになってきたんだ。最低限の目標ははっきり見えてる、ってことでもあるでしょ? たった一勝でも掴めれば、結果の上では山田さんに『勝てる』んだって」
「そりゃー確かにな。俺らがあの先輩たちの上を行けるかもって考えたら、ワクワクしちまうよな」
いつになく強い言葉を選ぶ彼の中に、大会を目前にした静かな高揚が見て取れた。右藤もそれに同調して、これは明日メンバーに掛ける言葉として使えるな、と心のメモに書き込んでおくことにする。
「……高校、山田さんと同じところにしようと思ってるんだ」
「あー、たしか奥武だっけ。カバディ部は結構歴史古いらしいじゃん」
「そう、奥武。先に行って待ってるかんな、って……簡単に言うんだよあの人。待たれてる側の気持ちも知らないでさ」
「それは……いったいどういう意味だ?」
右藤は自身の内に小さな引っ掛かりを覚え、思わず疑問をぶつけていた。
「ん……後から入っていく身分としてはね。ここで勝って箔を付けるべきなのかなあとか、柄にもないこと考えちゃってさ。僕にプレッシャーかけてやろうだとか、山田さんにはそんなつもりないってことくらい、わかってはいるんだけど……」
——待たれる側の気持ち。一方の右藤は、背番号一を背負うはずだった男を待つ側の立場にある。いつの日かあの男が——佐倉学がカバディに戻ってくる、そのときのために。右藤は経験と実績を何よりも、誰よりも必要としているのだった。佐倉と並び立つに値する、そんなプレイヤーでありたい。待つ者と待たれる者、立場は違えど「箔を付けたい」と思う霞の心情は、右藤にも痛いほど共感することができた。なるほどな、よくわかるよ、と心からの相槌がこぼれる。
「そういえば、ヒロは東京の高校に行くんだっけ? 井浦さんたちと同じところにするって言ってたよね、たしか」
佐倉が競技から離れた詳しい理由は、もちろん霞の知るところではない。進路の最終決定にはまだしばらくの猶予を残しておきたいと、今の右藤は考えていた。「そーだなあ、そろそろちゃんと決めないとだよなー」と明確な答えをはぐらかしつつ、右藤は自分のベッドに腰掛ける。
「さっきの話に戻るけどさ……つまりだ。一試合だけでも勝てれば、山田さん相手に切れる冬居の手札が増える、ってことだろ? いいモチベーションになってくれそうじゃん。持ち札は増やしとくに越したことねーからな」
「手札……うん。その表現、ちょっとしっくりくるかも」
「ま、一勝ぽっちじゃ俺は満足できねーけどな! ありったけの手土産抱えて凱旋するために、俺はここまで来たんだ。一緒にがんばろうぜ、明日から」
「……うん! よろしくね、ヒロ」
内心を打ち明けたおかげか、霞の表情はすっきりとして不安が抜けきったように思える。右藤はそんなチームメイトの様子を眺めながら、人とコミュニケーションを取ることの醍醐味を改めて噛み締めるのだった。
——勝つべき理由が、またひとつ増えちまったな。ただ点数を取った取られただけではない、コート外の闘いというものがひとりひとりの中にあるのだ。仰向けに寝転がり、明日からの激闘に右藤は思いを巡らせる。それぞれの内に秘めた野望を闇に灯して、開戦前夜は刻々と更けてゆくのだった。