今度は命令じゃない「……ねえ駿君。もう、ついて来いって言わないんですか?」
すぐ隣から静かに降ってきた声は、言いようもなく重い響きと化し、俺の鼓膜を震わせた。思わずぱっと見上げてみれば、声の主はとっくに俺のことを見つめている。
「……冬居、そりゃどういう」
「はぐらかさないで。お願い」
切羽詰まった台詞に、思い詰めたような表情。縋るみたいな色をして俺を捉える、この瞳。身長なんかとうの昔に抜かしていったくせに、子どもの頃と変わることなく冬居は見上げるように俺を見る。自分より小さい相手に上目遣いだなんて、まったく器用な真似をする奴だ。
テーブル上にちらりと目をやる。部屋に入ってすぐ気付いてはいたのだ、これ見よがしに広げた進路希望調査票の存在には。そういえば飲み物を拝借しに一階へ寄ったとき、「進路の相談乗ってやってね、駿君。迷惑じゃなければだけど」とおばさんに話しかけられたことも思い出した。そっか、もうそんな時期なんだな。今一度、隣の男へと視線を戻してみる。数秒前と変わらず、その両目はじっと俺に向けられていた。
「あー……そーだなあ、ちょっとタイム」
冬居に断りを入れてから、少しのあいだ思考に沈むことにする。
——ついて来いって、言ってほしいのか?
——わざわざ言ったところで、なにが変わる?
——言わなくたって、ついてくるくせに。
ぽんぽんと頭に浮かんできた言葉たち。そのすべてが、冬居への答えとしては相応しくないように思えた。疑問形に疑問形で返すのは据わりが悪いから一つめと二つめは却下。三つめは俺の自信と甘えが滲みすぎているから、もちろんこれも却下。
そもそも、どうして冬居はそんなことを尋ねるのだろう。だって俺がああしろこうしろと言ったところでどうせ聞きやしないのだ、この男は。俺の助言や命令を素直に受け入れるようなタマじゃないことは、もうずいぶん前から知ってしまっている——俺が思っていたよりずっと強くて揺るがない意志が、冬居にはあるという事実を。だから今回もきっと、冬居自身の中では答えがすでに固まっていて、その選択に対して迷ったり悩んだりしてはいないはずなのだ。俺にはそう思える。つまるところ、冬居はただ——俺の口からその言葉がほしい、というだけなんじゃないだろうか。
「あの……いつまで続くんですか、これ」
戸惑い混じりの声。意識がふっと浮上する。
「タイム取ったと思ったら急に、僕のほっぺた触りだして……いいかげん恥ずかしいんですけど」
冬居の不貞腐れた表情に、思わず笑みが漏れる。手慰みに人差し指の背で撫で続けていた左頬も、空いた右頬も、いつの間にかうっすらと赤く染まっていた。
「や、止めらんなくなっちまってさ……もーちょい、このまま」
はあと溜め息をついた冬居は、「で、考えごとはどうなりましたか」と赤い顔のまま真剣なまなざしを俺に注いだ。——誤魔化したり茶化したり、そういう半端な態度をこの瞳に見せたくはないなと、心底そう思った。
この数ヶ月間の俺は、いったいこいつの目にどう映っていたのだろうか。自分は大学での出来事をたびたび話題に乗せるくせに、冬居の進路について尋ねることは避けてきた、無意識の俺の振る舞いを。昔と違い、恋人同士として付き合い始めた今だからこそ——自分が冬居に与える影響について、慎重になってしまっていたのかもしれない。問われてみて、ようやく思い至る。望んでもないのに冬居の選択肢を狭めてしまう、そんな可能性に頭の片隅で気付いていたから。——けれどやっぱり、この頑固者の心のうちはすでに決まっているに違いないのだ。それならもう、俺にできることはただひとつだった。お前が腹を決めたのなら、俺も同じだとちゃんと教えてやりたい。
「……うん。いっぺんしか言わねーからよく聞けよ」
頬を撫でていた指を翻して、すべすべの肌を軽くつねってやった。冬居の目がすっと細められる。
「いいよ、冬居。俺について来い」
スローモーションみたいに、大きなまばたきをひとつ。ぱっちりと見開かれた両目が、新鮮な光を取り込んできらきら輝いた。その様子を正面から見つめて、ほしい言葉をくれてやるのもたまには悪くないな、と胸がすくような心地がした。