『甘い香り、甘い微睡み』「ツル、なんか今日甘いニオイするね」
"始末書タイム"が始まって幾許もない頃、ハチドリさんがぽつりと呟いた。
少し早い夕食後のことだった。ちょうど食堂で出会した副司令に、溜め込んだ始末書についてせっつかれた。
「えー!クロ達とアリーナで遊ぶ予定なのに…」
「いや一応遊びじゃなくて訓練だろ…。いいからさっさと片付けてこい」
思い切り眉を下げて不満を示すハチドリさんが、アリーナで訓練をする約束をしていたらしいカラスさんに諭されている。いったいどちらが年上なんだかわからなくなりそうだ。
カラスさんも案外始末書を書かされているとは聞くが、なんだかんだで真面目な性格ゆえか、すぐに片付けてしまうようだ。
「ねーツルが書いてよ」
眉を下げて少し唇を尖らせたハチドリさんが身体を寄せてきた。腕に軽くジャケットの袖が触れる。
ほんの少しだけ低いところから見上げるようなそんな目でこちらを見つめられても、私の答えはいつも変わらない。
「絶対に嫌です」
「ハチドリくんは来られないって?それは残念だなあ。…じゃあ私は急用ができたから、これで。」
モズさんがくるりと踵を返して足早に去っていく。全く逃げ足の速い人だ。
「…ハチドリさんもモズさんも、来られないの…? …じゃあ今日はもうお開き、ってことで…」
「あいつどさくさに紛れて…おいフクロウ、あたしと二人は嫌だってか?」
逃げ遅れたフクロウさんの肩に、カラスさんが腕を回す。
「ヒイッ!そ、そんなことは…!」
「じゃあ行くぞ!」
フクロウさんをアリーナへと強制連行するカラスさんと、助けてフラミンゴ〜…といつもの台詞を呟きながらも、渋々歩き出すフクロウさん。
「いいなー…」と二人を見送るハチドリさんの「角」の位置が、心なしかいつもより下がって見える。まるで散歩に連れて行かないと言われた犬のよう。いつも片方ずり落ちているサスペンダーが、しょんぼりと元気のない尻尾に見えてきそうなくらいだ。
カラスさんは「早く片付けて来い」とは言ったが、「いい子」のカラスさんとハチドリさんの始末書の量には雲泥の差があるのだ。とても今日中には終わりそうもない。
そうして食後の優雅なひとときはあえなく、溜め込みに溜め込んだ始末書を処理する時間となった。
「甘い匂いがする」と言われ、瞬きをひとつ。すぐにその理由に思い当たった。
「…ああ、ボディクリームですね。訓練や任務などで目まぐるしい日々を、せめてこういった季節の風物詩で彩るのも悪くないかと…」
ツバメさん主催の先日のお茶会で、金木犀の香りのお茶をいただいたことを思い出す。
まだまだ暑い日もあるけど、こういうところから秋を感じるのも良いと思ってね。そう言って華麗に片目を瞑ってみせた彼女が記憶に新しい。
そのフレーバーティーから話が広がり、お茶会常連のフラミンゴさんやハクチョウさん、おしゃれに興味津々のスズメさんやエナガさんも交え、秋限定の新色コスメや香りものの話に花を咲かせたのだ。
そんなきっかけで初めて手に取ったものだったが、香りも使用感もなかなか悪くなかった。
…次のお茶会の際に、皆さんにおすすめしてみるのも悪くないかもしれませんね。
そんなことを考えながら、ハチドリさんにそう答えた。
「へー。…なんかこのニオイ、どっかで嗅いだことある気がするなー」
「それなら道端ではないですか?香りが良いこともあり、金木犀は街路樹としてよく好まれますから」
「"キンモクセー"…?ふーん…」
いまいち納得がいかない様子のハチドリさん。手持ち無沙汰なのか、利き手でボールペンを器用にくるくると回転させている。
…これはもうかなり飽き始めてしまっているようですね。
ペンの回転がピタリと止まった。
「あ、あれだ。学校で使ってたノリ。黄色い…犬?の入れ物に赤いフタのヤツ。」
「……糊、ですか…?」
自分が小学生だった頃の記憶を辿っても心当たりがない。肩口にかかった髪が、さらりと音を立てて滑り落ちた。
「だからなんか懐かしい感じがしたのかー」
首を傾げる私の様子など気にもせず、ひとり納得した様子のハチドリさんはペンを机の上に置いた。立ち上がって机に両手をつき、ぐぐ、と背を伸ばす。そしてベッドに腰掛けていた私に歩み寄ってきた。音を立てずに歩くその様はしなやかで、ネコ科の大型肉食獣のようだ。
そんな印象を裏切るように、スプリングをきしませて勢いよく、半ば飛び乗る形でベッドに腰掛ける。そのまま首筋に頬を寄せてきた。ツンとした愛らしい鼻先が、跳ね気味の毛先が肌に当たる。少しだけ擽ったい。
「…ほんと、甘いニオイだね」
なんかおいしそー。スン、と鼻を鳴らした後にハチドリさんが呟いた。…流石に少々気恥ずかしい。
照れとほんの少しの動揺を誤魔化すように、惰性で読んでいた文庫本に栞を挟んで、サイドテーブルに置いた。
「あらあら…もうお眠ですか?昨日のこの時間は元気が有り余っていらしたというのに…」
「昨日はアリーナで遊べたからよかったけどさー。今はお腹いっぱいだし、始末書書いてたら眠くなってきた。…ねー、ツルが書いてよ」
眉を下げて唇を少し尖らせる、たまに見せる甘えた表情。
「そんな可愛らしいお顔をされても、始末書は代わって差し上げられませんよ。ちゃんと貴方自身が書かなくては。」
そう言いながらハチドリさんの背に腕を回し、手慰みに後ろ髪を梳く。
以前彼女の寝癖を直して差し上げた際に、「髪を触られると眠くなる」とこぼしていたことを思い出す。そのため"始末書タイム"である今行うには本来相応しくない行為なのだが、この様子では今日はもう、始末書を片付けるのは無理だろう。
まるで幼子のように、肩口にぐりぐりと頭を押し付けてくる。お気に入りのヘアスタイルが崩れてしまいそうなものだが、夜も更けてきたこともあってか、そんなことはもう気にも留めていないのかもしれない。髪型も相まって、本当に猫のようだ。
「ふあぁ…。…ねー、ツールー…。今日はもういーじゃん。ツルも寝よーよ」
ひとつあくびをした後に、首に腕を回され無理やり寝転がされた。ぼふんと間抜けな音を立て、二人仲良くベッドに倒れ込む。
彼女が好んで飲むエナジードリンクと同じくらいに鮮やかな緑色の瞳が、ちょうど目の前にある。戦闘時にはギラギラと言っていいほど輝いているその瞳が今は生理的な涙で潤んで、輪郭が滲んでいる。溶けかけの飴玉みたいだ。猫のように大きな目が、ゆっくりと瞬く。
首に回されていた腕がそのまま背に周り、彼女にしてはゆるく抱きしめられた。
「…ツル、ちょっとひんやりしてる」
筋肉質であるハチドリさんはいつも体温が高いが、眠たいせいなのかいつもよりさらにあたたかい。そんな彼女に抱きしめられたことでこちらも体温が上がってくる。二人の間で空気が温まり、甘い香りが強くなる。ポカポカとあたたかいハチドリさんにつられて、こちらも眠くなってきた。…半分眠ったような状態の彼女が、口を開く。
「…ツルからはさー……」
「……なんでしょう…?」
「……いつもはなんか…花?みたいな……高そーな…?ニオイがするけどさ…」
「…はい……」
「…たまにはこういう、甘いのも…いいね……」
…すう、すう……。規則的な寝息が聞こえる。
金木犀も花の一種ですよ、だとか。せめて髪を解いては、だとか。普段の私ってそんな香りがするんですか、だとか。
言いたかったことは全部全部、甘い微睡の中に溶けていった。
…金木犀の香りがする。姉さんに優しく手を引いてもらった記憶が、頭を撫でてもらった甘やかな記憶が蘇る。
まだ幼かった私にはその甘い香りが花の香りであるとはわからず、姉さんの手を引いて一生懸命にその出所を探して回ったものだった。茹だるような暑さの季節が過ぎ、上着が必要になる前のほんの数日の心地よい風の温度。細長い形の、桜貝のように美しい爪。ひんやりとした滑らかな肌。そんな感触を今でもよく覚えている。
あの時姉さんはどんな顔をしていたんだろう。甘い香りまでもが鮮明に思い起こせる記憶の中で、そこだけ穴が空いてしまったかのようだ。
いつか私も姉さんくらいに背が高くなれたら、いつか姉さんみたいに上手に舞うことが出来るようになったら。
…背丈が追い付き舞が上達した頃には、姉さんはもう私の前から姿を消していた。
姉さん、待って。行かないで。華奢な背中に手を伸ばす。姉さんが振り返る。
「美鶴ちゃんさえいなければ、私は——…」
同じ高さにあるはずのよく見えるはずの姉さんの顔は、まるでぐしゃぐしゃに塗り潰されたみたいに真っ黒だった。
——不意に覚えた肌寒さに、懐かしい香りの夢がほどけていった。
金木犀の咲く頃は、日中は過ごしやすくても夜は冷えるものだ。
「ん…ツル…?」
思わず身じろいだせいか、健やかな寝息を立てて眠っていたハチドリさんが薄く目を開ける。どうやら起こしてしまったようだ。
「…まだ寝てなよ」
胸元に頭を抱き抱えられる。あたたかな手に雑に後頭部をかき混ぜられた。黒いネイルの施された爪が、ほんの少しだけかさついた指先が首筋に触れる。
『じゃ、アタシが"お姉ちゃん"になってあげよっか?』…いつかの庭園で言われたこと。
何もかもめちゃくちゃで奔放な彼女。姉さんに似ても似つかないはずなのに、彼女の隣が不思議と落ち着くのはなぜだろう。打算で手を伸ばした彼女とのいつか訪れる別れを、少しだけ惜しいと思う自分がいる。
二度と取り戻せはしないあの甘い日々を閉じ込めるように、もう一度目を閉じた。