『緑色の目のマリア』「ハチドリさんは、神様って信じます?」
いつものように大きなハンマーを肩に担いだハチドリさんは、猫のように大きな目をパチリと瞬かせた後に、首を傾げた。
「…なに?いきなり」
そしてじとりとした半眼になってこちらを見てくる。
「もう、そんな顔なさらないでくださいな。ただの世間話の一環ですよ。」
風雨にさらされ朽ちかけた聖母マリア像に視線を向けながら話すと、きょろきょろと周囲を見渡した後に少し考えるような仕草をして、ああ、と合点のいった顔をする。
ぽっかりと穴が空いて青空が見える、かつてはアーチ状だったろう天井。崩れ落ちた柱に壁、割れたステンドグラス、傾いた十字架。そして、ところどころが欠けて色褪せた聖母マリア像。
ハチドリさんは今初めて、ここが朽ちかけた教会であることに気が付いたようだ。
私たち二人にここまで追い込まれた挙句、血溜まりに沈むこととなった魔獣。その死体に視線を落とす。ひびの入ったステンドグラスから差し込む色とりどりの光に照らされたそれはかえって血腥さが強調されて、かつて荘厳だったろうこの空間にはひどく不釣り合いだ。
…そこまで信仰心が強い方ではないが、祈りの場所で殺戮を行うことに抵抗がなかったと言えば流石に嘘になる。
大きな音を立てて勢いよくハンマーを置いたハチドリさんが、心底面倒くさそうに口を開く。
「なに、またメンドクサイこと考えてんの?
…別にいてもいなくてもどっちでもいーよ。だって、アタシのことはアタシが決めるし。」
ひび割れたステンドグラスからの光を背に浴びてそう言い放ったハチドリさんは、不敵に片方の口の端を吊り上げた。壁の隙間から入り込んできた冷たい風が彼女の長い髪を舞い上げたので、彼女がどんな表情をしているのかはすぐに見えなくなった。
「…つまり…あなたの神様はあなた自身、ということですか?」
「あー、そんな感じ?…そう、アタシの神様はアタシ。」
吹き荒ぶ冷たい風が不意に止む。割れた窓から射し込んできた光を反射して、緑色の目がぎらりと光る。
信仰心はあまり持ち合わせていないだろうとは思っていたが、朽ち果てているとはいえ教会で、私のツガイはなんてことを言うんだろう。お腹を抱えて笑い出したいような、呆れてものも言えないような、何とも言い難い気持ちになった。
「ツル、なんで変な顔してんの?…あー、わかった。またアタシのことバカにしてるだろ。」
「変な顔ってあなた、失礼ですね……。別に馬鹿にしてもいませんよ。
…ただ、射し込んでくる光が眩しかっただけです。」
「ふーん?…まあいいけど」
いまいち要領を得ない返事をした私をさして気にする様子もない。手持ち無沙汰なのか、ハンマーのもこもことした飾りを撫でたり捻ったりして暇を潰している。
ハチドリさんとの会話の中では、時折こうした沈黙が訪れることがあった。こんな静寂も悪くはないと思い始めたのは、いったいいつ頃からだったろうか。
心地の良い静寂を切り裂いて、支給された情報端末から、新たな魔獣の侵攻を知らせるけたたましいアラートが鳴った。耳障りなその音に思わず眉を顰めた私とは対照的に、彼女は鮮やかな緑色の目を爛々と輝かせている。
…グリーンアイド・モンスター。緑色の目は嫉妬の象徴だと、どこかで聞いたことがある。
他人から向けられる感情には良くも悪くも敏感な自覚はあるが、彼女にそういった感情を向けられたことはおそらく一度もない。…彼女の全てを理解しているつもりはないし全てを理解できる日は永遠に来ないだろうが、万一にも彼女がそうした感情を抱いたのだとしたら、わかりやすく示してくるはずだ。彼女のそうした一面もまた好ましく思う。
彼女が嫉妬の化け物になることはないだろうとは思う。しかしその一方で、この爛々と輝く緑色の眼差しを向けられた魔獣はきっと、彼女を「緑色の目の化け物」と思うだろう。魔獣にそんな情緒があるかどうかは定かでは無いが、「トリ」である彼女も私も最早、「化け物」と言っても過言ではないのだから。
人間であれば痛みを感じないはずなどない。人間であれば、首が取れたら口を聞くことなどもう二度とできるはずがない。
「…ツル!ねー、ツールー!なにボーッとしてんの?いいから早く行こ!」
ハチドリさんが私の手を取って駆け出す。
痛みを感じない彼女は力加減が下手で、ペアを組んだ最初の頃は手首に痣ができることもあったと懐かしく思い返す。ほんの少しだけ強めの力加減が、あてどなく黒い思考の海を揺蕩う私を現実に繋ぎ止めてくれるみたいで、今はむしろそれが心地いい。
疾走する彼女は振り返らない。
自嘲気味になりつつあった思考を朽ちた教会に置き去りにして、一度は胴体から離れたはずの私の脚は、もつれることなく動いて駆け出した。トリになって強化されたはずの心臓が、かつて拍動を止めたはずの心臓が今は激しく脈打ち、鼓動が跳ねる。破壊された街並みが走馬灯のように流れ、後方へと消え去っていく。
私たち二人は今、透明な風だ。
ただ祈るだけでは救いなんてものはやって来ないのだということは、人間だった頃に嫌になる程思い知っていた。
彼女の手を取ったのは目的のため。決して救いを求めてのことでも、今更誰かに許されたいと思っているわけでも、報われたいわけでもなかったけれど。
もし救いに形があるのなら、どこかの誰かがこれを救いと呼ぶのなら。私の救いはきっと、白く無機質な石膏像のマリアではなく、燦然と輝く緑色の目をしたマリアという少女の形をしている。