ある晩酌のこと 緩やかに体内に回る酒精を感じながら、またひとくち、赤ワインの注がれたグラスを傾け、視界の端に映っていた相手を横目で見る。
夜の闇に溶けそうな、それと同じ色の服に身を包み、ボトルとつまみのはいったバスケットを挟んで隣に座っているそのひとは、くるくるとグラスの中身を回して香りを堪能していた。口元は普段よりもゆるんでいるように見える。彼の姿を隠すような、守る強固な結界のような上着と帽子は身にまとっておらず、サングラスもまた、外されて弦を折りたたまれた状態で、彼の隣に置かれていた。
膝の上では一匹の白猫がくつろいでいる。時折その背に手袋をしていない手で触れながら、普段は帽子とサングラスで隠されている菫色の目はいま、空に向けられていてこちらを向いてはいない。真っ直ぐに通った鼻梁と、薄く小さな唇。尖った顎と、高い襟からわずかに覗く首と喉仏。
今宵の〈大いなる厄災〉は、夜空に細く曲線の切れ込みを入れたような、星の輝きを邪魔しないささやかな光を放って夜空にあった。明かりといえば背後にある魔法舎の窓からもれるそこに住まうひとの営みの灯り。けれどもそれも最低限に落とされていて、静かに水を吐き出す噴水の囲いに腰かけたふたりと、そこに置かれたものの影を薄く正面に伸ばす程度だ。
木々のざわめきと、水圧の低い水の音。耳をすませば、もっと色々な音が聞こえてくるのかもしれないけれど、そこに意識を割く気にはなれなかった。彼の耳にはどんな音がきこえているのだろうかなんて、考えたりする方に忙しい。
ワインのボトルは二本。互いに一人晩酌をするつもりであったという体裁のような、相手が来なかったときの気遣いのような、お守りのような。
待ち合わせをしたわけではない。けれど、相手がいるのはないかという期待はもっている。だからネロは肴を、ひとりで食べるには少しだけ多くて、ふたりで食べるには少しだけ物足りないくらい持ってきていたし、彼の持ってきたボトルは飲みかけではなく、未開封のものだった。
今夜は、夕飯の残り物を肴に、猫の集会を眺めながら酒片手にこの場所で、先にくつろいでいたのはネロだった。近づいてくる誰かの気配に、猫が先かネロが先かのタイミングで、彼に視線を向け、猫に気を取られていた彼がそれに気づいてネロを見た。
「よお、先生。こんばんは」
先に声をかけたのもネロのほうだった。先生、同じ東の国魔法使いであるファウストは、帽子もケープもない軽装で、けれどもこの月明りも儚い夜の中でもサングラスをその耳にかけられている。片手にワインボトル、片手にグラスを持っていた。どうやら肴らしきものはなし。
「こんばんは」
視線を合わせて微笑みあう。来ることを期待していたし、おそらくいることも期待されていた。それが叶って、じわりと沸き立つのは喜びだ。
ひとつ小さく鳴く声がした。声につられてそちらに視線をやる。昼間も魔法舎の周りでよく見かける白猫は、軽く伸びをしてからとことことこちらに歩いてくる。正確にはこちら、ではない。ネロではなく、まだすこし離れたところに立っているファウストのところでもなく、ネロが座っている噴水の囲いのそば。一緒に晩酌をするのであれば、ファウストが座るのはおそらくそこであろう、と思われる場所。
「こんばんは」
ネロに向けたよりも幾分か甘さを含んだ声が猫に向けられる。そうしてその猫のそばまでやってきた彼が、猫の前に座った。
ボトルを置き、片手にはグラスを持ったまま彼が、膝の上を整えて一つ手のひらで叩いた。どうぞ、とでもいうかのように。尻尾を数回振った猫が軽やかに飛び乗る。後ろ足で器用にバランスをとり、彼の胸の下の辺りに前足をかけた。首飾りにじゃれついている、というよりは何かを訴えかけるような動きに、はは、と小さく笑う声がする。
「すまない。今日は何も持っていないんだ」
これはだめだ。グラスを猫からよけながら、左手でその白く小さなあごを撫でる。その声は困っているような、申し訳ないようなそんな色が滲んでいた。隠しきれない愛しさのような甘さも。
「ソーセージならあるぜ」
かけた言葉にまっすぐにファウストの目がネロに向けられる。濃い色のついたサングラス。夜だと言うのにそれで歩き回れるものなのだろうか。なんて思うけれど、魔法とともに生きている自分たちだ、そんなことは心配することでもない。
持ってきた肴の乗った皿を持ち上げる。今夜の残り物は、ボイルしただけのソーセージ、それにソースや細かく刻んだピクルスやなんだをつけて食べようと思っていた。
「ソーセージはボイルしただけなんだ。ソースをつけたりして食う用にさ」
肩をすくめてみせれば、ふふ、と小さく笑ったファウストが、猫に向かって、くれるって、とまた、甘い声をかける。その狭い額を指先がなでると、猫が小さく喉を鳴らした。
ファウストが彼の肩口に捕まるように前足をかけた猫の尻を左の掌に乗せ、右手にグラスを持ってさらに近づいてくる。そばに置かれていたボトルはふわふわと、彼のあとをついてきていた。
「わるいな」
「いえいえ」
フォークでソーセージを小さく切る。フォークから掌に乗せたそれを指でちぎってやると、ファウストの手に尻を乗せたままの猫が、こちらに前足を伸ばして宙を描いた。バランスを崩さないように彼の左手が揺れる。
「焦るんじゃない」
ひとに対するような物言いと、小さい生き物の動きに笑みが溢れた。親指と人差し指で摘んだそれを、口元に差し出してやると首を伸ばした猫の口が開いた。ざらりとした舌が指先に触れ、肉が口内に運ばれていく。しゃくしゃくと猫の口が動く。
「よかったな」
また優しい声がする。手から降りた猫が、彼の膝からこちらの膝に乗ろうとやってくる。
「そんなに腹減ってんなら、とっとと俺のとこにもくりゃいいのに」
「僕を待っててくれたのかな」
「先生を介さないともらえねえと思ったのかもな」
「それはないだろう。美味しい食事をくれるシェフのやさしさは、この子たちだって知っている」
そうだろう。とファウストに声をかけられた白猫は、そうだ、とでもいうようにまたひとつ鳴いた。調子いいなとは思う、けれども悪い気はしないし、そうだろうなとも思う。自分の優しさ云々のところではない、ファウストを待っていたというところに、だ。
ふわりと足元に柔らかいものを感じ、そちらに視線をやれば、少し離れた場所にいたはずの他の猫たちも集まってきていた。
「おまえら全部持ってく気かあ」
見渡して言えば、隣から小さな笑い声が聞こえる。先ほどまで猫を乗せていた左手の拳を口元に当てたファウストが堪えきれない、とでも言うように笑っていた。
「きみの料理は美味しいから」
「んなこと言って、ソーセージは買ってきたもん茹でただけだぜ」
「茹で具合にもコツがいるだろ」
僕もいいかい。と聞かれて、いつの間にか手袋の外された右手がフォークを持っている。細くて節の目立つ、けれども綺麗な形の指だ。どうぞ、と手のひらを上にして示せば、少し前屈みになった彼の目が、サングラスの隙間から上目遣いに向けられる。
銀色のフォークの先がソーセージのかけらを突き刺し、そしてソースにつけられた。あれ、猫にソースはダメじゃねえか。と思っている間に、それは猫に与えられることなく彼の口の中へと消えていく。
「あ」
「いただきます」
「食ってから言ってるし」
「そこか?」
小さな口に見合うだけ。含まれたものを咀嚼するように動いて、こくんと飲み込まれていった。そうしてへの字に歪んでいるか、一文字に閉じられていることが多い口元がふわりと緩む。サングラスの向こう側で、いたずらが成功したかのような楽しげな色を宿した菫色が笑みの形に細められていた。
「美味いな」
「酒のみに来たんじゃねえの?」
「僕としたことが、ソーセージの艶めきに先に惹かれてしまった。それもいただこう」
未開封のファウストのボトルと、開封済みの持参したものを見比べてから、ネロは自分で用意したボトルを手に取った。躊躇いなく差し出された空のグラスに注ぐのは、彼が好む重たい赤ワインではなく、さっぱりと爽やかなのにすこし重みのある風味が気に入ってファウストに飲ませてみたいと思っていた白ワインだった。
空いているネロのグラスに残った白ワインの痕跡を魔法できれいにしたファウストが、彼のが持ってきたボトルの栓を抜き、ネロに差し出してくる。きみもどう? だなんて言ってくるけれど、いやもう注ぐ気満々じゃん。
「もらうよ」
いい酒だよ。と彼が言ったからではないが、空のグラスを差し出した。注がれたものに口をつければふわりと鼻腔をくすぐる葡萄の香りは濃厚で、それだけでファウストの言葉が嘘ではないことを示している。
口に含めばさらに広がる香りと、重たく濃厚なのに軽やかな舌触り。
「ちょっとどころじゃなくいい酒じゃねえか、これ」
「まあね」
君に飲ませたいと思って。とさらりと彼が言った。
足元から猫の鳴き声がする。見ればネロの膝に黒猫が乗ろうとして前足をかけ、その猫にネロの膝を譲るかのように白猫はファウストの膝へと戻っていく。他の猫たちもあちこちか声を上げ始め、小さなそれではあるけれど、静かな夜の空気が違ったものへと変わっていく。
「はは」
また、笑った彼がまたフォークをソーセージに伸ばす。小さく切って今度は手のひらの上へ。小さくちぎったものを、足元の猫にやりながら、横目でネロを見る。
「そのこも、ほしがってるよ」
「まじで全部食い尽される……」
猫にソーセージを与えおわったファウストが、またボトルを差し出した。
「ワインに免じてって?」
「話が早くて助かるよ」
ソーセージそっちのけでワインを堪能していれば、膝の上の黒猫が避難がましく大きく鳴いた。
「へーへー、ちょっとまってな」
野性味もあるだろうに、行儀よくさらには手を出さない猫のためにソーセージを切ってちぎって与えてやって。その間にワインを飲んで、フォークにつけたソースやピクルスを肴にする。
会話はあったりなかったり。大概は共通していてかつ話題に事欠かない、自国の子供たちのことと、酒と、料理のこととそのほか思いつくまま。なにもないなら黙っていればいい。静かな空気を纏ったファウストとの間に流れる沈黙は、息苦しさはない。
そんな時間が、ひどく心地よかったから。誰かに期待するような、誰か一人を求めるような重さのあるものではなかったけれど、ふわりと心を軽くする想い。不思議な感覚。
互いにある透明な壁の存在を互いに感じ取りながら、そのまま隣にいるだけの。ひとりとひとりでふたりになっているような。
そうして冒頭に至る。ふと言葉が途切れて、それからは交わす言葉なく互いに好きなところに目を向けて、好きな時にグラスに酒を注いでいた。
「なに?」
不意に、菫色がネロを貫いた。また、こっそり見ていたつもりが、しっかりと彼に目線をむけてしまっていたらしい。
「もういっぱいどう?」
なんと言ったらいいのかわからない。なにか言いたかったような、べつに言いたくなかったような。言えないような、言いたい言葉が見つからないような。問いに答えたわけでもなく、ふたりの間に置かれたファウストが持ってきたワインボトルを手にしたネロのそんな言葉を、態度を、彼は受け入れてくれる。いただこう、とグラスが差し出された。
「美味いな」
「あんたが持ってくるやつはいつも美味い」
少し前の晩酌の際に、彼から出てくる酒出てくる酒どれもこれも、料理人のネロからしても良いものだと感じるものばかりで、そうとういい酒ためこんでるな。と言ったら、それが楽しみだからね、と言われたのを覚えている。
「きみの作ってくれる肴も、いつも美味しいよ」
「……」
「照れた?」
サングラスを介さない、素のままの菫色が細められる。猫に向けるような生暖かい顔はやめてほしい。恥ずかしくて、照れ臭くて、すこし嬉しくなるから。
「わかってて言うから、たちわりいんだよな」
「無自覚よりは悪くないと思うんだけど」
沈黙も会話も、隣にいてもいなくても、この空間の心地よさには変わりなくて。いたら少し嬉しくて、いなかったら少し寂しくて、けれどもひとりで大丈夫。楽しみにしているけれど、期待はそれほどしていない。その塩梅がとてもちょうどいい。