鳥弔 時時、夫の背中が堪らなく怖く感じる。
猫背で小さくて、シャツの皺が寄った背中。頼りない、みっともないと夫の友人は皆口を揃えて云うけれど、私はその背中を見て酷く恐ろしくなる時があるのだ。
決して、暴力を振るわれているだとか――そういう訳ではない。
寧ろ、夫は此方がひょいと不意に手を挙げるだけで怯えてしまうような人だ。
だからそういう驚異的な怖さではなく、多分あれは、
――幽霊みたいだ。
現世を離れ、浮世に逝く者の背中。冷たい道を歩き、寂しさを纏い、虚しさを背負い、闇がこびり付いている。
それはまるで死人のようで。
恐ろしい――。
悲しい――。
怖い――。
その背から覗く死の空気が、意図も容易く夫を向こう側に連れて往ってしまうのではないか。私には、それが堪らなく怖いのだ。
「タツさん」
日も暮れ始めた寒空の下、雪の降り積もる中庭にぽつんと立ち尽くす夫に声をかけた。私はいつも、夫をタツさんと呼んでいる。
一瞬、肩を震わせてから此方に振り向く。先程まで背を覆っていた死の雰囲気が霧散していくのを感じた。彼は私を見てから、強張った表情を少し弛める。
「雪絵――」
いつもの夫だ。もう恐ろしくはない。私は安堵して、タツさんに微笑みかけた。
「そんな所に居たら風邪を引きますよ」
彼は元元丈夫な方ではない上に、少食で痩せているので身体なんか冷やしたら直ぐに熱が出てしまう。特段厚着をして外に出ている訳でもなかった。私が声を掛けても、夫はあぁ、と気の抜けた返事をするばかりで、中に入ろうとはしない。
「ぼうっとして、どうしたんです」
「あぁ――いや、その」
くぐもった回答が返って来た。夫はあまり明瞭に話すことが得意でないから、いつもこういう風に話すのだが、寒さで呂律が回っていない所為で余計に話し難そうである。その姿が、まるで悪戯を親に見つかった子のようで、私はふと笑ってしまった。タツさんはくすくす笑う私を不思議そうな顔で見る。
「兎に角、中に入ってくださいな。お茶にしましょう」
私がそう云うと、夫は漸く頷いて部屋に上がった。
随分と長い間外にいたのか彼の身体は小さく震えていて、手を見ると指先が真っ赤になっているのが見えた。慌てて炬燵に入れ熱い茶を淹れる。
その間もタツさんは心ここに在らずと云った様子で、私は再び不安に襲われることになった。夫がこういう風に弛緩しきった表情をしているのは大抵考え事をしている時かあちら側へ陶酔している時であり、概ね後者の方が多いので私はこの貌を見る度に矢張り恐ろしい気持ちになるのである。
やがて――身体の震えが治まり、二杯目の茶が空きそうになった頃、タツさんは吶吶と言葉を話し始めた。
「鴉が」
夫は先程まで佇んでいた庭先の方を見る。硝子障子の枠が絵画のように冬景色を切り取っていた。
「そこで死んでいたんだ」
酷く悲しげな声だった。
「まぁ――」
「埋めてやったんだ」
庭に生えている背の小さな蜜柑の木の元に、雪が掻き分けられている所があった。あの場所に埋めたのだろう。夫はそこをただ一点に見つめている。眉を下げ、泣き出してしまいそうな表情をしていた。
夫は鳥が苦手だといつか云っていた。けれど、確かにその目は視線の先に眠る鴉の死を静かに悼んでいる。
私はタツさんの考えることは判らない。この先どんなに願っても、夫がどんなことを思い生き、何が彼を苦しめあちら側へ誘うのか、知ることは叶わないだろう。
それでも、庭先で死んでいた一匹の鴉を弔い心の底から憂うことのできる、その破滅的とも云える優しさを、私は好きになったのだ。
「じゃあ」
そしてその優しさに、私も寄り添いたかった。
「後で、線香の一つでも上げてやらないと」
私がそう云うと、夫は緩慢な動きで私に視線を向ける。意外そうな顔をしていた。
「あ――ああ。そう、だね」
外はもう日が落ちかけていた。この季節だから、直ぐに夜は更けて行くだろう。
一先ずお夕飯にしましょう――と私は立ち上がった。台所へ向かう際タツさんの方を振り向くと、彼は再び蜜柑の木の根元をじっと見つめていた。
夕飯を済ませた後、私はタツさんと一緒に庭先に出た。冷たい空気に身を震わせる。
戦時中は能く使っていた線香もこの処は――喜ばしいことに――出番もめっきり減った為、戸棚の奥の方に仕舞われていた。湿気ていないかと思って数本に火を点けてみると、懐かしいような煙と灯が小さく燈る。昔は嗅ぎ慣れてしまった線香の香りも久しく感じた。
思えば、線香と云うのはそれが正しい感覚なのかもしれない。
真っ直ぐに立ち上がる細い煙は、その元に死があったことを示す道標だ。死は、日常とは遠ざけるべきで――死と限りなく近かったあの時代が異常だったのだろう。そう思った。
夫と線香を一本ずつ分け合い蜜柑の木の根元にそっと差す。薄ぼんやりとした煙は、直ぐに宵闇の中に混ざり合って見えなくなった。
手を合わせて簡単な弔いをしていると、頭上の枝木が大ききな音を立てて揺れ動いた。驚いて木を見上げると、枝葉と夜に紛れて何かが枝に留まっていて、その内にカァッと云う鳴き声がしたのでそれが鴉であることに気が付いた。
私達が直ぐ近くにいると云うのにその鴉は決して木から離れようとせず、頻りに鳴いているのが不思議だった。
「もしかして――仲間でしょうか」
鴉は普通の鳥より賢いと聞く。仲間の死を理解しているのかもしれない。何かを訴えるように鳴き続ける鴉の声は、仲間の死を憂い、悼む慟哭のように聞こえた。
「鴉は」
タツさんは夜闇に飲まれて姿の見えない鴉を見つめている。彼には、あの鴉がどう見えているのだろう。
「一度番になると、生涯その相手から離れないのだそうだ」
「それじゃあ、あの鴉は番だったのかしら」
私がそう云うと、夫は、
「さあ――ただの偶然かもしれないよ」
と、どこか投げやりな言葉を返した。その声に慈しみが籠っているように感じたのは、私の気のせいだろうか。
翌朝、庭に出ると鴉は何処かに飛び去っていて、二本の線香の灯も既に消えていた。雪が降れば、鴉を埋めた跡すらもなかったことになるだろう。昨晩の鴉は、番ではなかったのだろうか。
夫は矢張りあの鴉のことが気掛かりなようで、今朝も暫くは庭の方をじっと見ていた。死を弔っているのだろうか。或いは――羨んでいるのか。
「もし、僕が、」
茫然と庭を見つめていたタツさんが、突然そんなことを口走った。無意識のうちに出たような、そんな声だった。
「いや――何でもない。忘れてくれ」
しかし、直ぐに我に返ったように言葉を閉ざした。
私は夫のことは判らない。けれど、その言葉の続きが、何となく解るような気がした。
そしてそれは――とても悲しいことだと思った。
多分、あの言葉の続きは――もし、僕が死んだら――だろうか。
彼は自分が死んだ後のことを空想し、あの鴉と自分を重ね合わせたのだ。その後、何を訊こうとしたのかまでは解らないが、それでも、酷く悲しい想像であることには変わらない。
生き物である以上、終わりは何れ訪れる。その最期がどんな形であれ、私は彼をこの世に留める理由にはなり得ないのだ。それがとても悲しいし、淋しい。
タツさんは何も言わなかった。ただ、寂しげな背を丸めて、土の下に眠る鴉を見ている。
「えぇ」
私は一言、それだけを返す。彼がその言葉にどんな意味を見出すかは解らないが――それでも。
夫がたとい、どれほどあちら側に焦がれようとも、どれほどの悲しみを背負おうとも――。
私がこの世にある限り、夫と添い遂げることを決めたのだ。まるで、鴉のように。
或いはそれが、夫をこの世に引き留める理由になることを願って。
――カァ、カァ、カァ――。
鴉の鳴き声だった。
「あ――」
外を見ると、庭に一羽の鴉が降り立っている。
夫は、
とても優しい目で、それを見ていた。