帰路 悪夢を見る時、子供の頃を反芻する内容がほとんどだ。――今もそうだ。
ゴミ袋とそれに入りきらなかった紙屑が散らばった埃っぽい部屋でそれ以上に薄汚い自分が膝を抱えている。夢であることが頭の片隅で分かっていても、惨めで仕方なかった。
早く早く起きろと必死で念じながらその場で膝を抱えていた。目の前にある扉なんぞ触ろうとも思わない。どうせどこに行けやしないし、そもそも行きたい所だってない。だからただ終わりを待つ。いつものように。
ギシリ。
ふと床板の軋む音が聞こえた。咄嗟に身構えた。
――何故。脳内に疑問符が満ちる。この悪夢で自分以外の存在が出てきた事は一度もない。誰かに助けられた覚えなんてそれこそ一度も無かったから。
ギシリ、ギシリ。規則正しく鳴るこれは、足音だ。誰かが入ってきた。心当たりなんて、ないのに。
困惑している間にガチャリ、と音を立てて扉が開かれた。そこに立っていたのは……真白い顔に反してほぼ真っ黒の装い。見慣れたそれは、しかしこの頃には決して目にする筈がない人物――村雨礼二だった。
呆然とした俺を気にするでもなく、村雨は部屋に入ってきた。
こんな薄汚れた場所に似つかわしくない姿が視界に入ると、急に見窄らしい自分の格好が恥ずかしくなって、慌てて膝を抱え込んで顔を隠した。この男だけにはこんな姿を見られたくなかった。
ギシリ、と意に反して音は近づいてくる。やめろ、来るな。言おうとしても口が開かなかった。近寄ってくれるなと、ただ願っていた。
ギシリ。目の前で軋みが止まるのと同時に身を縮こめるように、震える身体を抑えるように力をいれた。
立ち止まった村雨も俺も無言のまま時間だけが過ぎた。それでも動かないでいると上から溜息の音が聞こえて、更に身体を丸める。こんな身なりの悪く薄汚い子供なんぞ見るのも嫌だろう。鬱々とした思考を巡らせていると、村雨の両手に頭をガッと挟み込まれて無理矢理上げられた。
「がっ、村雨、テメー何す」
「獅子神」
真っ直ぐに澄んだ瞳。相手の全てを見透かす紅玉が嫌悪や忌避の一切も無く、ただ俺を射抜くように見つめている。
「獅子神」
導かれるようにふらふらと手を伸ばした。いつかも覚えていないような昔に振り払われた手は確かに取られ、そのまま引っ張られた。立ち上がらせられた足で促されるままにドア前に立ち、そしてドアノブに手をかけて押した。いとも容易く開かれたそこをくぐった瞬間、ゆっくり意識が途切れた。
繋がれた手は最後まで離されなかった。
ビクッと身体が跳ねて目を開けると視界いっぱいに村雨の顔が広がった。その表情はいつものように無愛想ではあるが、不機嫌さはない。見れば両腕が村雨の背に回っている。どうやら寝ぼけて抱きついたようだった。
「わ、るい。今どける」
急いで離すと首に腕を回されて、抱き寄せられた。そのまま頭を撫でられる。
「……むらさめ」
村雨は何も言わない。抱きしめられた体勢で顔も見えない。それでも宥めるようなその手つきはひどく優しい。
――帰ってきた。
どこに行った訳でもないのに、何故かそう思った。
「村雨」
「……」
「ただいま」
「おかえり」
離した腕をもう一度回し、苦しくないように加減して力を込める。
暖かな体温、帰りを望まれた言葉、抱きしめる手、穏やかに笑う声……愛情。
あの頃どんなに望んでも得られなかったもの。羨んで妬んで渇望したもの。それら全てが今この腕の中に収まっている。
その事実に泣きそうになるのを堪えながら、目の前の幸福をただ抱きしめていた。