転生晏沈 2 おそらく、全身の骨が折れている。
沈嶠はゲホッと血を吐いた。痛みで朦朧とする中、なんとか意識を集中しようとするが内力が消え、真気も巡っていない。肺と腹に何かが刺さっていて、口内は鉄の味がする。薄く雪が積もった地面が冷たく、身体が急速に冷えていくのを感じる。自分の周りの白い雪がじわじわと赤く染まっていくのは、腹から染み出している血のせいだろう。
霞んでいる目の前にちらちらと雪が舞い落ちた。肺に穴が空いているのか呼吸ができない。酸素がなければ人は死ぬ。おそらくあと数分の命だ。あれほど強さを求め道を極めようとしてきたのに最期はあっけないものだな、と沈嶠は自分の死を悟った。
はあ、と大きくため息を吐きたい気分だが、ひゅうひゅうと鳴る喉にはそんな余裕すらない。どうしてこうなってしまったのだろう、と考える。急に内力が消えたのはおそらく相見歓のような毒だろう。昨夜の食事に仕込まれていたのかもしれない。
あの時と同じ目に合って、また崖から落ちるなんて……と泣くに泣けず笑うに笑えない気分だった。
沈嶠は数日前から玄都山の弟子二人を連れて所用で北へ向かっていた。旅の途中、通りすがりで野党に襲われていた人を助けた所、お礼をしたいと屋敷に招かれ盛大にもてなされた。そこまではよかった。しかし、翌日、屋敷を後にして険しい峠に差し掛かった所で息が切れることに気が付いた。いつもならどんなに道が険しくともこんなことはないのに、どうもおかしい。弟子二人も辛そうな顔をしている。少し休もうかと足を止めたその時、見計らったかのように奇襲にあった。相手の数はおよそ三十人。顔を隠しているが統率がとれた動きは野党とは明らかに違う。
ここでようやくこの奇襲が仕組まれ、自分が命を狙われていたことに気が付いた。沈嶠はせめて弟子を逃がそうと自分に引き付けるが、内力もない状態では大人数を相手に防ぎきれず、追い詰められて斬られ崖の下へと落ちていった。
全ては油断していた自分の責任だ。弟子たちは逃げただろうか、せめて彼らだけでも無事でいて欲しい。
崖の上を見上げたいが、この重傷では仰向けに身体を動かすこともできない。沈嶠は最後の力を振り絞って自分の後頭部に手を回し、髪紐を解いた。固く編み込まれたその紫色の飾り紐は、晏無師と一緒に旅をした時に、気まぐれに贈られたものだった。晏無師は今、どこで何をしているだろう。
もう目もよく見えない。震える手で髪紐を握り締めるとほんのり温かくて、晏無師の手を握っているような気持ちになった。
『もし、全てをやり直すことができたなら……』
いつか聞いた晏無師の声が聞こえる。
もし昨日人助けをしなければ、もし少しでも疑っていれば、もし内力がなくなっていることにもっと早く気付いていたら、こんな結果にはならなかっただろうか。いや、起きてしまったことを考えても無駄だ。助けられる人が目の前にいるのならば見捨てることはできないし、きっと私は同じ道を選ぶだろう。
晏無師との会話がまた頭の中を巡る。
『阿嶠、私が死んだら泣くか?』
『泣きますよ』
晏無師の笑い声が聞こえる。
『じゃあ死ぬのも悪くないな』
『そんなことを言うのはやめて下さい』
『阿嶠、人である限り死からは逃げられない。私達にもいずれ別れが来る』
『……』
『きっと私の方が先に逝くだろう。だが、その時はお前が私のことを看取ってくれるか? 私は最期に見るのはお前の顔がいい』
『……まだそんな先のことは考えたくありませんが……いいですよ。私が側にいます。あなたを一人では逝かせません』
『約束だぞ』
『はい、約束です』
沈嶠はゆっくりと瞼を閉じた。
二人がそんな会話をしたのはつい数ヶ月前のことだ。あの時は晏無師の方が先に逝くことを前提に話していたが、なぜ死が年齢順に訪れると思って疑わなかったのだろう。あまりにも平穏な毎日で、自分たちは強く、死が身近なものだということを忘れていたせいかもしれない。自分がこんなにも早く約束を破ってしまうことになるなんて思っていなかった。
(ごめんなさい、晏宗主)
人生は何が起きるかわからない。どちらが先に死ぬかなんてわからない。しかし生きるのも死ぬのも自分が選んだ結果だ。人助けをしたことも、戦ったことにも後悔はない。
だが、晏無師との約束を守れないことだけは心残りだった。
沈嶠の背中にうっすらと雪が積もっていく。ただただ、寒い。沈嶠はせめて心だけでも温まろうと晏無師に抱きしめられて眠った夜に想いを馳せる。
優しく撫でる晏無師の手の感触。
安心する香りと腕の中の温もり。
耳をくすぐる低く甘い声。
でも、きっともうあの腕の中には戻れない。
(晏無師)
段々と寒さも痛みも感じなくなっていく。できれば、もう一度会いたかった。愛していると、もっとたくさん伝えればよかった。当たり前のようにまた会えると思っていた自分の愚かさに、涙が頬を伝う。
晏無師は強い人だ。きっと私がいなくても、永遠に前だけを向いて歩いて行くだろう。そう、過去には囚われなくていい。強い敵と対峙し、上を目指し、今と変わらず飄々と心のままに生きていく晏無師の姿を想像する。不敵な笑みを浮かべ、ゆったりとした袖を風に靡かせる堂々とした姿を思えばなんだか安心した。私の分までどうか天寿を全うして欲しい。
ただ……
(晏郎)
自分の方が先に死ぬとは想像もしていなかったから聞かなかったけれど、
(晏郎)
あなたも、私が死んだら泣きますか______
沈嶠はハッと目を開ける。見慣れない天井、黒い皮張りのソファ。頬が涙で濡れている。もう何度も繰り返し見ている前世の最期の記憶だった。
昨夜、晏無師と再会を果たし、住む場所もお金もない沈嶠はそのまま控室で眠らせてもらった。ブラインドの隙間から陽の光が射し込んでいる所を見ると、もう昼くらいだろう。
ゆっくりと瞬きをして涙をぬぐい、ふう、と呼吸を整える。しばらく夢の余韻でぼんやりとしていると数回のノックの後、控室のドアがガチャリと開いた。顔を上げてみればコンビニの袋を持った玉生煙がドアから顔を覗かせていた。
「起きていたか、飯だ」
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる沈嶠の前に、玉生煙は買ってきた弁当やお茶などを並べる。
「オーナーにお前の面倒を見るように頼まれたんだ。俺は玉生煙。俺のことは師兄と呼べ」
「はい、ありがとうございます、師兄。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。それで……あの……」
「なんだ?」
「……晏宗主には今夜も会えますか?」
「ああ、多分な。今夜も店に顔をだすはずだ」
「そうですか、よかった」
晏無師に会えると聞いてうれしそうに微笑む沈嶠を見つめ、玉生煙は言った。
「お前は……本当にオーナーのことが好きなのか?」
「はい、愛しています」
さらりと即答された言葉に驚き、玉生煙は眉を顰め一歩引く。
「会ったばかりなのによく恥ずかしげもなくそんなこと言えるな」
沈嶠は首を振った。
「前世では百年以上一緒に過ごしたので、会ったばかりではありません。以前は恥ずかしくてあまり伝えられなかったので、今世ではちゃんと自分の気持ちを言葉にして伝えていきたいと思っています」
また前世の話か、と玉生煙はため息をついた。せっかくこんなに美人なのに、と同情心が湧いてくる。
「……店に出たらその話はやめろよ。客に頭がおかしいと思われる」
「わかりました」
沈嶠は穏やかに微笑んでいる。本当にわかっているのかいないのか、頭がおかしいのかおかしくないのか、玉生煙にはわからない。ただ、沈嶠は類まれなほど美しく、純粋で善良だ。浮世離れしている感じはあるが、店に出せばきっとすぐに人気が出るだろう。
「食べ終わったらシャワーを浴びて買い物に行くぞ。お前にも今日から店に出てもらうから、色々準備しないとな」
「はい、師兄。お役に立てるようにがんばります。晏宗主にも早く私を思い出してもらえるように努力しないと」
素直に頷く沈嶠を見て、玉生煙は沈嶠を憐れに思った。玉生煙は美人を慈しむ質だ。晏無師が沈嶠を助けたのはただ美人だったからというだけで、そこには優しさや情などかけらもないことを玉生煙は知っている。晏無師はただの気まぐれで人を弄び、利用し、価値がないとわかれば情け容赦なく切り捨てる。
玉生煙は今までも晏無師に散々利用されては捨てられる男や女を何人も見てきた。こいつも使えないと分かれば一晩の慰みものにされて、ゴミのように捨てられてしまうのだろう。
この素直で好感が持てる沈嶠がどのくらい師弟としてここにいられるかはわからない。しかし、まずはこの師弟に似合う服を買いに連れて行ってやろう。後は開店までにホストの心がけや指名の取り方を教えて……と思考を巡らせた。人手の足りないこの店で玉生煙はいつも忙しい。開店までにやらなきゃいけないことが山ほどある。
~続く~