転生晏沈 6 晏無師と沈嶠が同居を始めてから三週間。沈嶠は相変わらず夜はホストとして働き、昼は晏無師の世話をするという生活を続けていたが、それは意外にも穏やかで楽しい日々だった。二人の同居は『怪我が治るまで』という理由で晏無師が言い出したものだったので、怪我が治ったら追い出されるのだろうと沈嶠は思っていた。しかし晏無師は『まだ治っていない』『傷が開いた』などと言っては、なかなか沈嶠を手放そうとしない。
最近の晏無師は出会った当初の冷たい印象とは違い、沈嶠のことをそれほど警戒していない様子だった。沈嶠を揶揄っては面白がり、笑顔を見せたりもする。少しずつだが心を開いてくれている、と沈嶠は感じていた。晏無師を変えることなどできないと思っていたが、晏無師は沈嶠の望み通りあれ以来煙草も吸わなくなった。二人の関係はいい方向に進んでいる。このまま一緒にいたらそのうち記憶が戻るかもしれない。いや、もし戻らなくともこの晏無師と生涯を共にすることができるかもしれない。楽観的かもしれないが、沈嶠はそう思い始めていた。
「沈嶠、また指名が入ったみたいだぞ」
控室にいた沈嶠に玉生煙が声をかけると、沈嶠はぼんやりと自分の唇に触れていた。その顔は火照ったように赤く、玉生煙は首を傾げる。
「どうかしたのか? さっきの客に飲まされたのか?」
「いえ、飲んでいないです。何でもないので気にしないで下さい」
沈嶠は、慌てて返事をして首を振る。実は、沈嶠は晏無師との昨夜の口づけを思い出していた。煙草の代わりだと言っては晏無師は沈嶠に日に何度も口づけをしてくる。そしてその口づけは一回一回が長く濃厚で官能的だった。口づけの度に沈嶠は腰が砕けそうになり、体の反応を抑えるのに必死になってしまう。それでも自分が禁煙してと頼んだ手前、口づけを断る事はできない。しかし、そのせいでこうして離れている時も晏無師の唇が頭から離れない。
恋人のように口づけを交わし、一緒に眠るこの関係に支障をきたしているのはおそらく沈嶠の方だ。沈嶠が抵抗すれば晏無師はそれ以上手を出してはこない。しかし、記憶がない晏無師はまだしも、沈嶠はその先もはっきりと覚えている。晏無師の指の感触、息遣い、肌の熱さ、繋がった時の喜び、気が遠くなるほどの快楽。思い出さないようにしていても、唇が触れればつい身体の奥が熱くなってしまう。『好きになるまでは駄目だ』と拒んでいる自分の方が先に物足りなさに音をあげてしまいそうだった。
「すぐに行きます」
沈嶠は気持ちを切り替えるように軽く頭を振った。まずは目の前のことに集中しよう。そして、晏無師にまた自分を好きになってもらわなければ……。
「お久しぶりっ!」
席に着いた途端にしなだれかかってきた白茸を躱し、沈嶠は微笑んだ。
「白茸さん、来てくれてありがとうございます。でも昨日もお会いしたじゃないですか。こんなに頻繁に来て大丈夫なんですか?」
「だって会いたいんだもの。一日千秋の思いよ」
可愛らしく甘えた仕草を見せる白茸に沈嶠は困ったように眉を下げる。
「ありがたいですが……私はホストとしては面白くないでしょう? こんなに通ってもらってもそれに値するものを返せるか……」
「ホストらしくない所がいいのよ。それに美しいものはずっと手元に置いて愛でていたいもの。さ、シャンパンを入れて!」
白茸はすっかり沈嶠の太客となり、売り上げに貢献していた。たった三週間で他にも多くの常連客が付き、沈嶠の売り上げはあっという間にナンバーワンの辺沿梅に追いつこうとしていた。
「ねえ、何かあなたのこと話して? あたし、好きな人のこともっと知りたいわ」
白茸は小首を傾げ、上目遣いで沈嶠を見つめる。
「そうですね……」
沈嶠はシャンパンを注ぐ。桃色の透き通った液体が透明なグラスに注がれ、シュワシュワと細かい泡が弾ける。
「じゃあ……前世って信じますか?」
「え、そういう系?」
怪訝な顔をする白茸に沈嶠はくすりと笑った。
「私には前世の記憶があって、前世の恋人を追いかけてここに来たんです……って言ったらどうします?」
白茸はう~ん、と少し考える素振りを見せた。
「前世ねえ……あたしはそんなのがあると言われても信じられないし、あったとしても思い出したくないわ。前世で自分がどんな生き方をしたかはわからないけれど、一つも後悔がない生き方なんてないでしょ。そして後悔があれば今世でやり直したくなる。記憶に縛られるのは嫌だわ。今の人生を楽しみたいもの」
「……そうですか。確かにそうかもしれません」
沈嶠は頷いて俯いた。
「……でも、その前世の恋人があたしっていうなら別だけど?」
白茸は俯いた沈嶠に探るような視線を送る。
「違います」
「あっそう」
顔を上げ、真顔でそう返した沈嶠に、白茸は大げさに両手を広げてため息をついた。
「もう、ホストの常套文句でも覚えてきたのかと思ったのに何よそれ! 『ようやく前世の恋人に出会えました。それがあなたです』って手を握って口説くところじゃないの? 何のオチもないわけ?」
「すみません」
沈嶠は困ったように微笑んだ。白茸は諦めの表情で腕を組み、細く長い足を組み直す。
「で、何? その話が本当だとして、その前世の恋人とどうしたいの?」
「向こうは私のことを覚えていないんです。思い出してもらって、今度は最期まで一緒にいるというのが私の願いなんですが……」
白茸の目がキラリと光った。
「それってあなたの一方的な片想いってことじゃない! その人が思い出さなければ諦めるんでしょ。あたしにもまだチャンスがあるってことね!」
沈嶠は首を振った。
「いえ、今世では武功を極める必要がないのでその人のためだけに生きます。例え思い出してもらえなくても、好きになってもらえなくても、約束を破った償いをしたいのでずっと側にいたいと思っています」
白茸は哀れむように沈嶠を見つめる。
「それってむなしくない? あなたも忘れちゃえばいいのに。そうだ、忘れさせてあげよっか? 楽しい事ならいっぱいあるよっ!」
「忘れませんよ。千秋過ぎても忘れられないものがあるんです」
優しく諭すような口調の沈嶠に、白茸は唇を尖らせる。
「でもさ、なんでこの店なの? ここにいたらそのうち駄目になるよ。ここのオーナーの噂を知っているでしょ? 大きな声では言えないけど、非道で冷酷で違法なことだっていっぱいしてるんだから。ねえ、前も言ったけどうちに来ない? 歓迎するよ!」
白茸は『moonset』のライバル店でもある『Albizia』、つまり桑景行の元で働いていた。沈嶠の元に足繁く通っているのには沈嶠を自分達の店に引き抜こうという目的もある。それを知っている沈嶠は静かに首を振る。
「遠慮しておきます。私はここが好きなので。それに、ここのオーナーはそんなに悪い人じゃないですよ」
その言葉に白茸は呆れた顔をする。
「全然わかってないんだから! あなたみたいに優しくて善良な人はそのうち騙されて酷い目に合うよ! あたしはあなたを助けてあげたいのに!」
「ご忠告ありがとうございます。あなたも以前と変わりませんね」
「え?」
きょとんとする白茸に沈嶠はくすくすと笑った。
「実は私はあなたのことも知っている、と言ったらどうしますか?」
「ええ~、今さら営業トークとかちょっと遅くない?」
いぶかしげな白茸を見て、沈嶠は懐かしそうに目を細める。
「あなたは以前も私のことを何度も助けてくれました。縁があるからまたこうして出会えたんだと思います。私はあなたにも幸せになってほしいですよ。白茸さん、あなたはきっと今世でも自分の目的を成し遂げます」
白茸は沈嶠をしばらく見つめた後、ニッコリと笑った。
「ふうん、悪くないね、その前世トーク。ちょっときゅんとしちゃった! じゃあ、前世からの再会に乾杯しましょ!」
「しません」
沈嶠はスッと表情を変えた。初日に酒を飲まされて妙に身体が熱くなって以来、白茸が乾杯しようとする度に沈嶠はずっと断り続けている。
「もう、そんなに警戒しないでよ。一緒に乾杯したいなあ」
甘えた声で誘う白茸を無視して、沈嶠はボトルを持ち上げ、白茸のグラスにだけシャンパンを注いだ。
「どうぞ」
取り付く島もない沈嶠の態度に諦め、白茸はグラスを持ちあげ、桃色の透明な液体を照明に翳した。
「見て、綺麗な色。あたし、このシャンパン好きなんだ。ヴーヴ・クリコのロゼ。色がかわいいよね!」
そう言われた沈嶠はシャンパンのラベルを見つめた。
「……そういえば、私の好きな人の部屋にも同じ銘柄のボトルがあるんです。思い入れがあるみたいなんですが、理由は話してくれなくて」
客の前でまた好きな人の話なの、と内心思ったが白茸は言わなかった。
「ヴーヴ・クリコが好きな女ねぇ……わかんないけど……忘れられない人がいる、とか、強く生きる、とか?」
「どういう意味ですか?」
「ヴーヴというのはwidow、つまり夫に先立たれた妻のこと。ヴーヴ・クリコというのは夫に先立たれた後も一人で夫との夢を目指して強く生きた女性の名前よ」
「……」
沈嶠の頭に、前世の晏無師が冗談交じりに呼ぶ『沈郎』という声が蘇った。沈嶠のことを『夫』と呼ぶこともあった晏無師。自分が先にこの世を去った後、晏無師はどのように生きたのだろう。そしてどんな最期を迎えたのだろう。
沈嶠が晏無師のことを考え始めたその時、誰かが『オーナーだ』という言葉を発した。顔を上げてみると、ちょうど晏無師が店に入って来た所だった。客も従業員も晏無師に対して尊敬と憧れ、それと同時に畏怖の念を抱いているので店内には見えない緊張が走る。
晏無師は客に媚びることもなく店内を見回した。やがて晏無師はゆっくりと沈嶠達のテーブルに近づき、二人を上から見下ろした。
「白茸、随分と沈嶠を気に入ったようだな」
「これはこれは、オーナー自らご挨拶頂けるなんて光栄だわ」
棘のある口調で花のように微笑む白茸に、晏無師は冷たい視線を向ける。
「またいつもの手段でうちのホストを落とそうとしているようだが、こいつは簡単にはいかんぞ」
白茸は隣の沈嶠をチラリと見てから晏無師に挑戦的な視線を向ける。
「そうみたいね。でもあたしは欲しいものは必ず手に入れるの」
「奇遇だな。私もだ。桑景行にも近々挨拶に行くと伝えておけ」
「晏オーナーにお越しいただけるなんて! あたしと一緒に飲んで下さるの?」
「冗談はよせ。お前は全く私の好みではない」
白茸の顔が引き攣るのを見て、晏無師は嘲る様に笑った。
「悪いがそろそろ閉店だ。お引き取り願おうか」
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「沈嶠、帰るぞ」
「はい」
沈嶠が晏無師の家に住んでいることを、店の従業員たちは全員知っていた。口には出さないが、沈嶠は晏無師に毎晩抱かれている、というのが彼らの認識だった。晏無師が手の包帯を『飼い猫に噛まれた。うちの猫はああ見えて激しいんだ』などとうそぶいていたのも一因である。わざわざ迎えに来て連れ帰るとはかなりの寵愛を受けているらしい。店の者に手を出したことはなかったのに、三週間も飽きずに同じ人物を側に置いているのは初めてのことだった。
「オーナーはどういうつもりなんだろうな……」
「本当ですね……」
玉生煙と辺沿梅は小声で話しながらタクシーに乗り込む二人を見送った。
「晏宗主、ただいま帰りました。阿嶠、ただいま」
沈嶠は部屋に入ると真っ先にリビングに向かい、闘魚の水槽の前に立った。闘魚は人に懐く。沈嶠が来ると餌を貰えると学んだ二匹の闘魚は水槽越しに長いヒレをゆらめかせながら、沈嶠に近づいて来た。沈嶠は黒い闘魚を『晏宗主』と呼ぶだけではなく、いつの間にか白い闘魚を『阿嶠』と呼ぶようになっていた。
「ふふ、少し待っていて下さいね」
沈嶠が餌を入れると二匹はパクパクと口を開ける。
「見て下さい、とても可愛いですよ」
沈嶠が目を輝かせて振り向くと、晏無師はソファに腰を下ろし肘をついた手で頭を支えながら沈嶠の様子をじっと見つめていた。
「お前は誰にでも愛されるな」
言葉の内容に対してその声は冷たい。何か裏があるように感じ、沈嶠は水槽を離れ晏無師の隣に腰掛けた。
「……どうかしましたか?」
晏無師はふん、と鼻を鳴らす。
「あの妖婦には気を付けろ。甘い言葉で近づき、羽振り良くお前につぎ込んでいるようだが、売掛だろう? 結局払えなかったらお前が負担することになるんだぞ。騙されたホストが山ほどいるという話を聞いていないのか?」
「白茸さんのことですか? 噂は聞きましたが……でも彼女は悪い人間ではありません。ツケにしている分も月末にまとめて払うと言ってくれています」
「沈嶠、ホストに優しさなんていらん。白茸に限らず甘い顔をしていると客はつけあがる。騙して惚れさせてありったけの金を出させろ。惚れた相手のためなら借金でも身売りでもするという奴は少なくない。骨の髄まで吸い尽くせ」
沈嶠は晏無師を真っ直ぐに見つめた。
「私はそんなことはしたくありません。サービスに見合わない対価はいただけません」
「お前は善意でホストが務まるとでも思っているのか? 自分と関係ない奴がどうなってもいいだろう」
「私は来てくれたお客さんには楽しい時間を過ごしてもらいたいですし、笑顔で帰ってもらいたいです。できるなら少しでも疲れを癒してあげたい」
晏無師は沈嶠の言葉に納得できない様子だった。
「人から感謝されたいということか? 偽善的だな」
「いいえ、私は感謝をされたいわけではありません。自分が正しいと思ったことをしたいんです」
晏無師はハッと笑った。
「お前は理想ばかり掲げる清く正しい王子のようだな。しかし物語のように上手くはいかんぞ。世間知らずの王子は現実では魔女に取って食われる」
「私が王子だとしたら、私が惚れ込んでいるあなたは何ですか。我儘で自己中心的で高慢なお姫様ですか」
「ははははっ」
晏無師は沈嶠の言葉を聞いてついに声を上げて笑った。沈嶠は純粋で善良だ。そして腹が立つ。
「私が姫か。いいだろう、姫に抱かれそうになる度に慌てて逃げてばかりの王子とは面白いじゃないか。そのくせ愛しているなどと口先ばかり。全くひどい女たらしだ」
「愛しています。それは本当です」
晏無師はやれやれ、とため息をつく。
「沈嶠、愛している、もずっと一緒にいたい、もホストの世界ではシャンパンの泡のように出ては消える淡い幻だ。愛など実在しない。ここでは全てが嘘で出来ている」
「そうとは限りません。私は嘘をつきませんし、あなたへの愛は本当です」
晏無師は鼻を鳴らした。
「その愛はどうやって証明するんだ? お前は出会った時からずっと同じことを言い続けているが、一向に私に抱かれようともしない」
「身体を重ねることだけが愛ではないでしょう」
「だが、わかりやすいだろう? 知っての通り私は偏食家だ。好まない相手を抱こうなどとは思わない」
「でも、それは愛ではなく性欲です」
「じゃあお前は私が他の奴で性欲を満たしてきてもいいのか?」
「……」
沈嶠は言葉に詰まった。それは嫌だった。晏無師が自分以外の相手を抱いている所など想像もしたくない。その唇で、その指で他の人に触れて欲しくない。しばらく考えた後、目線を逸らし躊躇いがちに口を開く。
「……もし、性欲が満たされないというのであれば……あなたさえよければ、お手伝い、させてもらいます……上手くできるかはわかりませんが……」
晏無師は冷ややかにその顔を見据えた。
「いらん。私は信用していない奴に奉仕させたりしない。噛みちぎられるかもしれんからな。まだお前の目的もどこの手先の者なのかもわかっていないしな」
その言葉に沈嶠は目を見開き固まった。思い切り頭を殴られたような衝撃だった。それなりの時間を一緒に過ごしてきたし、少しは互いを理解して心を開いてくれているものだと思っていたのに。例え記憶が戻らなくても今の晏無師と生涯を共にできるのではないかとさえ思っていたのに。
しかし、実際の晏無師は沈嶠に全く心を許していなかった。それどころか、まだ自分のことを疑っているらしい。
何ひとつ。
自分の気持ちは晏無師に何ひとつ伝わっていなかったのだ。
前世で過ごした記憶と、現世で出会ってからの記憶がグルグルと頭の中を巡る。晏無師は呆然自失としている沈嶠を抱き上げリビングを後にする。我に返った時にはもうベッドの上に放り投げられ、服を脱がされていた。
「私は辛抱強くない。そろそろ我慢の限界だ」
晏無師は沈嶠の耳元に甘く低い声で囁いた。そのまま剥き出しにされた胸の先を指で転がされる。
「ひ、ぅ」
心がどんなにショックを受けていても、この三週間弄られ続けたその場所に触れられるともう駄目だった。スイッチが入ったように身体が反応してしまい、思わず腰を捩る沈嶠を見て晏無師は口角を上げた。
「お前も限界なんだろう? ここにいる間、自慰をする暇もやらなかったからな。そろそろ我慢はやめたらどうだ?」
硬くなった乳首をちゅぷちゅぷと音を立てて吸われ、下着越しに雄芯を擦られる。晏無師の言う通り、毎日昂っているのに一度も開放を許されることのなかった雄芯は、限界まで張り詰め先端から蜜を零していた。
「私は無理矢理抱く趣味はない。選り好みはするが、抱かれたいという奴相手はいくらでもいるからな。どうする? お前が選べ」
「……っ」
沈嶠は唇を噛みしめた。晏無師が他の人を抱くのは嫌だ。でも自分を曲げるのも嫌だった。快感と理性の狭間でぐらぐらと揺れている沈嶠の様子を見て、返事を催促するかのようにカリ、と乳首に歯を立てる。強い刺激に沈嶠は思わず嬌声を上げた。
「ぁっ!」
「それにお前は私に前世の記憶を思い出させたいんだろう? 身体を重ねたら思い出すかもしれんぞ。なあ、阿嶠」
その顔で、その声で、今、初めて阿嶠と呼ぶなんて。
晏無師の手は今や沈嶠の雄芯を直接握り、ゆるゆると快感を与えてくる。止めなければ、と思いつつ与えられる快感に何も考えられなくなり、沈嶠は目を閉じシーツを握り締めた。愛する相手からの愛撫は毒のように甘く全身に回り身体の自由を奪っていく。
「ひっ」
いつの間にか潤滑剤を纏った指の先端が後孔に押し込まれていた。痛みはないが異物感にビクンっと背筋が強張り、ぎゅうと指を締め付ける。沈嶠はきつく眉を顰めた。
「随分と狭いが久しぶりか?」
沈嶠の反応をうかがっていた晏無師が口を開く。
「……前にも言ったでしょう、私は今世では一度も抱かれたこともありません。……もちろん抱いたことも」
まだ指一本だが、晏無師が深く指を出し入れしようとするたび、沈嶠は顔を歪ませる。
「ふうん……初めてというのはあながち嘘でもないのか?」
それならば、と浅い所に狙いを定め晏無師は沈嶠の胎内を探った。
「あっ、う」
沈嶠が反応した場所を指先で細かく刺激しながら、握り込んだ雄芯を動かす。
「あっ、~~~、あ、あ、あ、!!」
数十秒と持たず、沈嶠は面白いくらいに簡単に昇り詰めた。腰が浮き、白い腿が震える。手の中の雄芯が吐精したさにビクビクと脈打つ。
「いいぞ、イけ」
「あ、あ……っ! 晏郎、晏、郎、晏、……ッ、晏、らんッ!!!」
グン、と大きく腰が跳ねると同時に晏無師の掌の中に勢いよく体液が迸る。とろりと濃い液体に触れた後、はあはあと肩で息をしながらまだ腰を震わせている沈嶠を見つめ晏無師は問いかけた。
「晏郎とは何だ」
「……前世のあなたが、情事の時は、そう呼べと……」
沈嶠が恥ずかしそうにそう言うと、晏無師はふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らした。最後にグリっとしこりを押し潰してから指を引き抜く。
「あっ、あ……んっ!」
強い刺激にガクガクと身体を揺らしている沈嶠から離れると、枕もとのティッシュで手を拭い、晏無師はそれ以上何もしようとしなかった。不思議に思った沈嶠がゆっくりと瞼を上げると、晏無師は無表情で沈嶠を見下ろしている。その目は冷たく、先程のまでの情欲の炎が消え、一気に温度が下がったように見える。
「気が変わった。寝る」
「え……」
くるりと背を向け、晏無師は枕に頭を埋める。身勝手な晏無師の行動に、沈嶠はどうしたらいいのかわからない。ひとまず脱がされた服を搔き集めて身に着け、自分も隣に横になった。何が悪かったのだろう。いや、まだ好かれていないのに最後まで抱かれなかったのはよかったのかもしれない。でも、自分だけ乱れて晏無師には何も返していないのも落ち着かないし、このままでは後味が悪くて眠れない。機嫌を損ねてしまった原因は何だろう。変な声を出してしまったから? 初めてで面倒だったから? 達するのが早すぎた? 思い当たるふしが頭の中に浮かんでは回り、羞恥で沈嶠は両手で顔を覆った。
「晏宗主、あの……」
呼吸を整え、意を決しておずおずと沈嶠が声をかけるが、しばらく返事を待っても晏無師は無言だった。
「あの……すみませんでした」
自分でも何に謝っているのかわからない。そして晏無師からの返事はない。強引に迫られても本気で抵抗すればおそらく逃げることはできる。しかし、こんな風に突き放されたら途方に暮れてしまう。綯い交ぜになった感情に押しつぶされそうになって、沈嶠は小さく息を吐いた。
しばらく経ってから晏無師がゆっくりと身体を反転させた。無言のまま、感情が読めない黒い瞳に射竦められて心臓が跳ねる。沈嶠がそのままじっとしていると、首の下に腕が差し込まれた。晏無師の意図はわからない。沈嶠が躊躇いながらそっと身体をすり寄せると、腕が背中に回り、広い肩に包み込まれる。硬直していた身体から力が抜け、じわじわと多幸感で脳が痺れていく。晏無師の腕の中は温かい。もっと体温を感じたくて沈嶠もまた縋り付くように背中に腕を回した。
背中を包む大きな手のひらの感触、安心する香りと腕の中の温もり。同じベッドに寝ていても、しっかりと抱きしめられたのはこれが初めてだった。胸に広がる郷愁にも似た感情に沈嶠の目が潤む。
あの日、呼吸が止まった時にもう永遠に戻れないと思っていた腕の中にようやく戻ることができた気がした。
そうだ、晏無師は前世でも疑り深く、そして気まぐれだった。しかしそれでも自分達は上手くやってきたのだから、諦めることはない。こうやって抱きしめてくれるということは一筋でも希望があるということだ。そして希望がある限り諦めない。沈嶠は晏無師の腕の中で安心して目を閉じる。
沈嶠はまだ信じていたのだ。晏無師はきっと自分を思い出してくれると。思い出さずとも心を尽くせばまた愛してもらえると。
そう、この夜までは。