話しているだけ まるで灯りがつけられたように、反射的な覚醒だった。子供は寝つきも良ければ、寝起きも良いらしい。すっかり忘れた幼少期もおそらく同じだったのだろう。
周りを見回せば、近しい年齢だった筈の男達は未だ夢の中だ。カーテンの向こう側も、さして明るくない。
買い与えられたスマートフォンは、どうにもこの手には大きすぎる。両手で持たなければ、操作が覚束なかった。
そんなスマートフォンの画面に触れ、時刻を確認する。
明け方という程でもなかったが、まだまだ眠っていられる時間だった。しかし、一度ここまでハッキリと目を覚ましてしまえば、二度寝はできない。
上背がある男達が選んだベッドは些か広すぎる。起こさないように出ていくには、簡単に飛び降りられなかった。あまり音を出さないよう、ずるずるとシーツの上を這って、ベッドから降りる。
ぺたん、と間抜けな裸足の音が鳴った。そっと後ろを見たが、目を覚ました者はいないようで安堵する。
そのまま寝室を後にし、台所に入る。
水でも飲もうと食器棚の前に行くが、コップが仕舞われている場所は今の自分にとって高すぎた。男達が用意した踏み台を引っ張って、漸くコップを手に入れた。
次は水を注がなければならない。
ウォーターサーバーも一応設置されているが、未だに使い方を覚えられないでいた。レバーを引けば出てくると言っていたが、桐生にとって少し飲む水に品質など求める理由がなかった。
水道水で十分だと返せば、一人は頷き、一人はニヤニヤと笑い、一人は驚いた。
兎にも角にも、今はその水道水が必要だ。
しかし、台所のシンクもまた高い。また踏み台を此処まで持ってこなければならないが、それはそれで面倒だった。
簡単にできていたことが、全くと言って良いほどできなくなった。酷く単純な結果だったが、小さく苛立ちが募り、最後には何処か虚しく思えてくる。
溜息ひとつ吐いて、結局踏み台を一瞥してからシンクに登ってしまうことにした。行儀が悪いと分かっていながらも、コップを脇に置いて両手をシンクにかけた。
「桐生ちゃん」
背後から声が飛んだ。
丁度、力を入れて身体を浮かせようとしていたタイミングだったから、とても驚きバランスを崩しかける。
ただ、それも既の所で受け止められた。
「くぁ、ああ」
「すまん、兄さん。起こしちまったか」
目の前で吐き出された盛大な欠伸に、抱き止められたまま謝る。
しかし、眼帯もつけていない真島はどこ吹く風といった様子だ。むにむにと口を動かしてから、桐生を抱え直す。
今度こそきっちりと抱えられ、いよいよ自分の姿を客観視してしまった。この身体になってから半年近くが経過しているが、依然として慣れるものではなかった。
「水飲みたかったんか」
「そ、そうなんだが、一回降ろしてくれっ」
「いぃやぁじゃ。汲んだるから待っとれ。桐生ちゃんのコップは…これか」
「兄さんっ」
手足をばたつかせてでも逃げ出したかったが、特に揶揄いでもない単純な善意が見えてしまい、大人しく閉口するしかない。
桐生の動きがぴたりと止まれば、真島は僅かに口元を緩め、水の入ったコップを手渡す。
「今何時や」
「確か、七時前だ」
「まだ七時にもなってないんかい。寝れなかったんか」
「いや、目が覚めてしまってな。二度寝もできそうになかったから、」
「はぁん。ほんで、水飲みにきたんやな」
「ああ。兄さん、今日は午後からだろう。また寝ても、」
寝癖の跳ねる後頭部をぼりぼりと掻き、抱えたままの桐生の首元に顔を埋める。
両手で覆えたはずの顔も、今では小さな掌に全く収まらない。半年前には引き剥がせていただろうに、何ひとつとして叶う様子もなく、一瞬躊躇してから息を吐いてそのまま抱きついた。
「朝飯作ろ、桐生ちゃん」
「作るのか」
「パン焼いて卵茹でて野菜千切るだけやって。簡単や」
「む、そうだな」
「…桐生ちゃん、パン焼ける?」
「できる。たぶん」
トースター自体を使った経験はあるが、一度放置し過ぎて真っ黒に焦がした思い出があった。
前から離れずにずっと見ていれば、そのような苦々しいことはもう起きないだろう。
真島に力強く頷いて見せれば、何とも言い難い表情をされる。
トースターの見張り、パンを焼くことしかできない様はあまり良いものではないだろう。残りの作業を真島に押し付けることになる。
しかし、卵の茹で加減など知らない。野菜を千切ると言ってもどれぐらいの大きさが最適か分からない。真島に聞いたところで、適当という一切参考にならない言葉が返ってくるに違いない。
そもそも、子供一人の手伝いなどたかが知れる。
顔を反らせば、耳元で何事か叫ばれた。煩いと顔を顰めてもまた次の言葉が鳴る。
「なにを朝早くから騒いでいるんですか」
「大吾っ」
「ちょっ待ちぃっ、桐生ちゃんっ」
「大吾、俺とパンを焼いてくれっ」
「は? パン?」
真島の腕の中から逃げ出し、寝起き特有の無精髭を蓄えた大吾の元に駆け寄る。
話の流れを全く知らない大吾は首を傾げるが、桐生の言い分を聞く気はあるようで、その場にしゃがみ込んだ。
「はぁ、なるほど。いや、全然納得できねぇけど」
「パンぐらい焼ける」
「ま、桐生さんが焼きたいって言うなら付き合いますよ。それで良いですね、真島さん」
「良い訳ないやろがいッ。ワシかて桐生ちゃんとパン焼きたい!」
今日初めての盛大な溜息だ。
その重い吐息と会話は、あっさりとパンを取りに行った桐生の耳にまで届き、戻ってきて早々に真島を見上げて口を開く。
「兄さんとはパン焼かねぇ」
ぴしゃぁんっ、という謎の幻聴が聞こえた。真島から鳴ったような気がする。
台所の真ん中で膝をつき落ち込む真島を他所に、トースターの前で桐生と並びながら大吾は問う。
「何をそんなに意固地になってるんですか」
「なってねぇ」
「なってるでしょう。俺には話せないことですか」
「むっ、…大吾お前、その表情は卑怯だぞ」
桐生の批判を笑って誤魔化した。
序でに話を逸らすようトースターの存在を指摘してやれば、桐生はそれ以上追及することはなかった。
トースターの中でパンがジリジリと焼けていく。
この家に置いてあるものは、桐生が過去にやらかした件のオーブントースターとは違う。焼ければ勝手に飛び出してくる。本来なら焼き加減を気にする必要はないが、気が気ではないらしく、目を離さない。
どうしても笑いが漏れる。それは、桐生にも届いた筈だが、怒られなかった。
肩を落としながら残りの飯を用意する真島にバレれば文句が飛んできそうではあった。
「桐生さん」
「なんだ」
意識ない返事が来る。
喉奥に笑いを押し込めながら話す。
「たぶんそろそろですよ」
「何がだ」
「焼けるのが」
言った途端に、ポンッと間抜けな音を立てながらパンが飛び出した。普遍的な食パンは普遍的な焼き加減だ。
タイミングの良さに驚いたらしい桐生は小さな身体を跳ねさせたものの、すぐに振り返って嬉しそうに笑っている。
「焼けたぞ、大吾」
「真島さんに見せてきたらどうですか」
「そうだな。皿あるか」
「はい。熱いから気をつけてくださいね」
「ああ」
普段なら子供扱いするな、と苦言が返ってくるところだが、何ら返答はない。慎重に取り出して皿に乗せると、そのまま真島の元に向かって行った。
台所から早朝とは思えない明るい笑い声が聞こえてくる。
「楽しそうやな」
「おはようございます、冴島さん」
「おはようさん。今日の朝はパンか」
「はい。桐生さんが焼いたパンですね」
「なんやそれ」
大吾達とは違う、寝癖がつきようのない頭を軽く掻きながら冴島も起きてきた。大吾が台所を指差せば、状況を把握したようで同じく表情を緩める。
そろそろ飲み物の準備でもしようかと、冴島に希望を聞きながら立ち上がった。
「なんや、兄弟も起きたんか」
「むっ。パンが足りないぞ、兄さん」
「そもそもひとり一枚じゃ足らんやろ」
「ほなら、追加で焼いてくれや。桐生」
その場にしゃがみ込み、桐生の小さな頭をぐりぐり撫でる。此処でも桐生は特に嫌がる素振りを見せずに、冴島の言葉に力強く頷いた。
どうやら、パンがうまく焼けたことにどうしようもなく上機嫌になっているようだった。
「任せろ。もう完璧だからな」
「あ、桐生さんは何飲みますか」
「珈琲!」
新しいパンを抱えて、目もくれずにトースターへと走り出す。
「子供やな」
「子供やろ」
「子供ですね」
三人揃って同じ言葉を重ねる。
再放送のように、また変わりない目つきでトースターを見つめる姿に誰ともなく笑い声が漏れた。