イチャついているだけ 溜息そこそこにスタジオの廊下を歩く。詰め込まれたスケジュールにマネージャーの冴島も謝っていたが、流石にこれは酷すぎる。
すれ違うスタッフ達は殆どが顔見知りだ。此方を視認すれば、いつもの衣装でなくとも声をかけてくる。適当に返事をすると、疲れている、と開口一番に言ってくることも真島がここに通い慣れている証左だ。
廊下に置いてある自販機で缶コーヒーを買う。ついでに喫煙所に行こうか、と思ったが煙草を楽屋に忘れてきた。
思わず飛び出しかけた舌打ちを寸前で飲み込む。
しゃがんで缶コーヒーを取ろうとしたとき、ふと中指の丁度真ん中あたりにできた切り傷に気づく。一体、何処で切ったかまるで覚えていない。
昨夜、家で読んだ次のドラマの台本が原因だろうか。もしくは、そのときに飲んでいたボトルドリンクの蓋を開けるときに引っ掛けたか。
所詮紙で切った程度なので、決して大きなものではないが、今の一連の動きで僅かに傷が開いたらしい。薄らと血が滲む。
メイクの時に隠してもらうよう頼むしかない。衣装で隠れる場所なら良かったものの、手の傷となればいやでもカメラに映る。
余計なことを増やした自分に苛立ちつつも、コーヒーを一口飲んで楽屋に戻ろうとしたときだ。
前方から誰かが歩いてくる。
「あ、真島さん」
「桐生ちゃん、」
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「お、おう」
真島より数年後にデビューした桐生であった。まだスタジオに着いたばかりなのか、私服のままだ。
事務所は違うのだが、ここ最近は頻繁に出会う。お互いにアイドルという身分でやっている訳だから、仕事が被ることは特におかしいことではない。
ただ、問題は真島の意識ひとつだった。
本当にアイドルとして売り出す気があるか、なんとも言い難い風貌は、真島と正反対だ。女性たちに一層の愛想を振り撒く真島が正統派とするなら、桐生は謂わば完全に異端に近い。どちらかといえば男の方が食いつきそうな雰囲気で、発表済の曲にラブソングは存在しない。
無論、最初は真島もかなりその存在に懐疑的であった。ラブソングひとつ歌わないアイドルがこの世の中にこれまで存在していただろうか。愛想など腐るほど振り撒いて上等の世界で、それが上手くできない者達はどれだけ歌やダンスが上手かろうと消えていった。
思い返せば、桐生のダンスも見たことがない。いつもギターをかき鳴らしている。
とはいえ、そもそも黒の眼帯をつけている隻眼の男がアイドル云々を語ることも野暮かもしれないが。
「真島さん。どうしたんだ、その指」
「えっ、ああ、なんや知らんうちにできとってなぁ」
挨拶を済ませたことで桐生の中の線引きが不要になったらしく、砕けた口調に変わった。
これは礼儀を通そうとした桐生に真島が懇願して変えてもらったことの一つだった。
「んん、ええと、確かここら辺に」
「どないした」
「あった。真島さん、指出してくれ」
言われるがまま出した指に、ぺたりと絆創膏が貼られた。それもシンプルなものではなく、どちらかといえば子供向けのデザインである。
「俺もよく怪我するから、錦に渡されてるんだ」
「……こないなもんを?」
「ああ、これは元々錦の妹のものだ。あっ、まずかったか」
考えなしに行動する様は、たまに見かけていた。
今も真島の怪我を見て、何気なしに貼ったに違いない。それでも、僅かに見せた不安げな表情を見てしまうと、咎める必要などひとつも感じられない。
自分には一切似合っていない絆創膏を眺めれば、勝手に口元が緩む。
「桐生ちゃんは、かわええなぁ」
「むっ。馬鹿にしてんだろ」
「してへんわ。ありがとうな、助かったわ」
「それなら良いけどよ、……フッ、真島さん」
次はなんだろうか。
此方の顔を見て桐生が笑う。
そして、急に真島の顔に手を伸ばし、不意に顎を触った。
「剃り残してるぞ、髭。珍しいな、真島さんがこんな状態で来るのも」
「は、……は?」
「あっやべっ。俺、そろそろ行くから。また後で、真島さん」
此方の乱れた心情にも気づかず、桐生はスタスタと喫煙所の方へ歩いて行った。
赤くなった顔を隠そうとしゃがみ込めば、向かいから歩いてきたスタッフの一人が驚いて声をかけてくる。なんでもない、と返事をしても何処か心配している声が戻ってくるが構っている余裕はない。
丸めた背中の内側で顎を摩ると、指摘通りに小さな剃り残しがあった。
「今日出演のアーティストの皆さんです」
MCの一声により、出演者が長い階段を順番に降りる。
名前を呼ばれて真島が袖から登場し、階段を降り始めると辺りから訓練された歓声が沸いた。そして、続いて後ろから桐生と錦山が出てきた。
ふと思い立って、真島は階段を登る。僅かにざわめきが聞こえたが無視し、二人に駆け寄った。
淡々と降りていた錦山が、すぐに真島の奇行に気付き、目を見張る。一方で隣の桐生は階段を降りることに必死になっていた。いつもの眉間の皺も幾分深い。
持ち前の身体的軽さを利用して背後にまわり、二人の間に割り込む。そこで漸く、桐生は真島の存在に気づいたらしい。歓声に埋もれた、驚く声が聞こえた。
一つのカメラが自分たちをぬいている。
先に錦山の肩を叩いてから、二人揃ってピースサインを作って笑顔を浮かべる。こういった勘の良さは流石桐生の相棒であり世話を焼いている錦山の持って生まれた手腕だ。
「ま、真島さん、何して、」
「桐生ちゃん、カメラ」
耳元に小声で囁けば、その耳を赤く染めながらチラリとカメラを見る。そのまま隣で手を振れば、相変わらずぎこちない笑顔を浮かべて同じ様に手を振った。
今度こそ、本物の歓声が沸いた。耳を劈くほどだ。
ヒヒッと小さく笑ってから階段を駆け降りる。後ろから何やら聞こえてきたが、有頂天になった真島にはそれすらも心躍らせる一因となった。
「何しとるんや、阿呆」
「何ってなんや。今日もみんなのアイドル真島吾朗しとったろ」
「それは何の問題もあらへん。最高やった」
「せやろ」
「せやろ、ちゃうわ。そないなもんもつけて」
冴島が指差したものは、真島の指、そしてそこに巻かれている絆創膏だった。
「ええやろ。桐生ちゃんがくれたんやで」
大きく溜息が吐かれる。
本当のところ、この絆創膏はスタイリスト達に見逃してもらった。
無論、マネージャーには黙っているように頼んだ。どうせ見つかれば、ぐちぐちと文句を言われ剥がされて、傷を隠す為に塗られたりテープ貼られたりに違いない。
「また桐生に迷惑かけたんか」
「かけとらんわ! 桐生ちゃんがくれた言うたやろ」
ぶつくさと言い返せば、長い付き合いでこれ以上言っても無駄だと冴島は気づいたようだ。うんざりしたような、諦めたような顔を向けられる。
無事に言いくるめることができたことに満足して口笛を吹いた。
ぎろり、と冴島から鋭い視線が飛んできたタイミングで楽屋の扉がノックされる。
「ジャッジメントの錦山です。今、よろしいですか」
「あ、ああ。どうぞ」
「失礼します。今日はお疲れ様でした」
「おつかれぇ」
「シャキッとせい、アホ。二人とも、今日は迷惑かけてすまんかったな」
「あ、いや、気にしないでください。驚きはしましたけど、助かったって言うか」
「助かった? どういうことや」
冴島が問えば、錦山が後ろで黙りこくっていた桐生の背中を楽屋の中に引っ張り込んだ。
急に前に押し出された桐生がバツの悪そうな表情で小さく頭を下げる。
「真島に用やったんか」
「桐生、ほら早くしろ。真島さんだって疲れてんだから」
「桐生ちゃん、俺に用なんかっ」
冴島を押しのけて前に飛び出し、桐生の顔を覗き込む。
スタジオで見た時と同じか、はたまたそれ以上に顔を赤くし、慌てて視線を逸らした。それが心躍らせるものだから、こちらから近づければ、びくりと肩を揺らして顔を引く。
「桐生」
「わ、分かってるよ…」
「ジブンは離れたらんかい」
「何すんねんッ」
前に押される者と後ろに引かれる者、互いに顔を見つめ合う。
「…真島さん、」
「なぁに、桐生ちゃん」
「恥ずかしい話なんだが…生放送で、少し緊張してたんだ。けど、真島さんのおかげで、…驚いたけど、それで緊張ほぐれて、」
桐生は一度俯いてから、しかしすぐに顔を上げて照れくさそうな淡い笑顔を見せた。
「ありがとう、真島さん」
気がつけば、次の現場に移動している車の中だった。
運転する冴島が今後のスケジュールをぺらぺらと喋っているが、もう何も耳に届かない。思考を塗りつぶすは、桐生のあの屈託のない笑顔、ただそれだけだった。
相槌の代わりに桐生の名前だけを呟く。
次に現場が被る日はいつになるだろうか。一緒の番組に出たい。何なら対談もしたい。一緒にステージさえ立ちたい。
今度主演をやるドラマに特別ゲスト枠として出演してくれないだろうか。桐生にまだ俳優業は難しいかもしれないが、ああいうタイプは磨けば光る、と真島は根拠のない確信を抱く。
「なぁ、マネージャーはん」
「気色悪い呼び方すな」
「次、桐生ちゃんといつ共演できる?」
「知らんわ」
「桐生ちゃんの事務所に、」
「顔以外を殴られたいんか」
冴島の言葉を聞き流す。
決して広くない車内に、呆れと浮ついた二種類の溜息が広がった。