薄暗いだけ 電柱に貼られたその紙は、長いこと雨風に晒されていたようだ。紙の端から今にも破れてしまいそうな程、危うい状態に見える。載っている顔写真もインクが褪せ、殆ど情報として意味を成していない。顔の特徴は文章として書かれているが、その情報と見比べることすら難しく思えた。僅かに顔の輪郭が分かる程度だろう。
しかし、そこに書かれた男を探している真島にとって、それは無視できるものではなかった。
張り紙に触れ、電柱から引き剥がす。薄れたインクに目を凝らし、もう一度書かれている文章を読む。
「桐生一馬、…神室町で見かけたのが最後」
名前からして性別は男。文字が薄い所為で、生年月日も現在の年齢も分からない。それどころか身体的な特徴すら不透明だ。欠けた文字を繋げてどうにか情報を整理してみる限り、体格は良く渋い顔つきをしているらしい。
「まともな情報、もっと寄越せや」
ぽつり、と呟いた。
ぼんやりと張り紙を睨みつけていると、突然尻のポケットに突っ込んでいた端末が震える。画面には兄弟分である冴島の名前が表示されていた。
「なんや」
「谷村から連絡きたで」
「なんて言うとったんやッ」
往来の眼も気にせずに叫んだ。
「兄弟、ジブン外に居るやろ。ちょおこっち来い。全部話したるから」
「此処でもええやろが」
「今の兄弟やったら何言うても叫ぶやろ。カタギに迷惑かけんなや。待っとるで」
ブツン、とあっさり通話は切られた。
あまりにも自分勝手な冴島の言い分にまた叫びそうになったが、切り際に言われた言葉を思い出して、口を閉じる。通行人たちからの視線が僅かに外されていくことを感じ取り、心の底に溜まった鬱憤に近い苛立ちを溜息と共に吐き出した。
「待っとったで」
指定された場所に赴けば、冴島が似合わない老眼鏡をかけて数枚の資料を眺めていた。音で真島が入ってきたことは認知したようだが、視線は未だその資料に向けられたままだ。
わざと近くの椅子に大袈裟な音を立てて座れば、漸く冴島が此方を見た。
「谷村から貰ったもんや」
「……桐生一馬、…該当者なしッ?」
「こっちも見てみ。谷村、よお調べてくれたわ。後で、兄弟からも礼を言っとき」
「ちょお待てや。これ何処まで調べたんや」
「全部や、全部。地方の所轄にも連絡した言うてたわ」
「…信じられへん、」
谷村が用意したと言う資料は、日本全国の行方不明者リストと”桐生一馬”という男に関する情報であった。
しかし、何処の項目にも”該当者なし”という文字しか書かれていない。
それはつまり、この日本という国に真島の探す”桐生一馬”は存在していないことを示していた。
紙を握る指先に力が入る。冴島の眼が無ければ、今すぐにでも破り捨ててしまいそうだった。
「せやったら、あの張り紙は何なんや」
「気味悪いっちゅうことだけは確かやな」
もし、この男が真島達と同じ裏社会で生きている人物であれば、消された可能性がある。だが、それを警察である谷村が調べられないとも思えない。物理的に消されたにしろそうでないにしろ、少なくとも何かしらの痕跡は残っている筈だ。
それらすらも見つからないとなれば、本当に存在していない、存在している訳がないことになるだろう。
「桐生一馬、」
剥がしてきた張り紙を取り出す。冴島が目を細めるが、反応する余裕はない。
「ジブン、ホンマに覚えないんか」
「ない」
「おかしいやろ。何処にも存在せえへん男を、なんでそないに」
「分からんっ。何も分からん。せやけど、せやけど……俺は、知っとる。絶対に、この男を」
張り紙の写真を何度見ても、その顔は明確に認識できない。
しかし、存在しない男は真島の脳裏に焼きついている。靄のかかった顔を此方に向けて、確かに鋭い眼差しを此方に向けていた。
その視線に、真島は自身の心の底が火を点けられたかのような燃え上がる幻覚を見る。突き刺さる槍の如く、紛れもなく心を抉った。
それは執着のようで、しかし情愛のようで。
「絶対に探したる。探し出したる」
張り紙が手の中で悲痛に形を変えた。
「このまま消させへんで…桐生ちゃん」
「兄弟?」
「あ?」
「ジブン、今」
冴島が口を開き、そしてすぐに閉じた。何かを考え始めた様子で唸るが、結局それ以上のことを言いはしなかった。