冨岡がそんな事を思っているとは露知らずにいる不死川はというと。
(……ぁ…っぶねェ…!!)
襖を閉め、その場にしゃがみこんでいた。
先程の衝撃の余韻がまだ抜けきらない。バクバクと煩い心臓を落ち着かせるようにギュッと握るが、なかなか静かになってはくれないようだ。
(なんだってあんな…)
寝起きすら色っぽいなんて聞いてねぇぞこら。八つ当たりのような、惚気のような、そんな悪態をついてしまう。
思い出すだけでもゴクリと喉が鳴る。先程、冨岡に聞かれなかっただろうか。少し心配だ。
いつもは一つにまとめられた長い髪は軽く乱れ、涼やかな目元はとろりと微睡んで甘さすら感じる。然程大きくない濃い桃色の唇が小さく開き、ゆったりと紡がれる声は微かに掠れ、やたら心臓に悪い。
それだけでも十分な威力があるというのに、極めつけとばかりにはだけた上半身。いつもは首まで隠し、一切の隙を見せない男があんなにも無防備になり、滅多にお目にかかれない素肌は男にしては色白できめまで細かい。そして何よりも薄紅色をした乳首に軽い目眩を覚えた。
(あと一歩遅かったら、本気で襲ってた…)
危ない危ない、と胸を撫で下ろした。
あんな色恋の「い」の字も知らないような男に、簡単に手が出せる筈がない。
冨岡義勇という男は、どこか清廉な空気を漂わせ純真無垢すら思わせる。がっついたりなんてしたら、ぜったいに引かれるだろう。引かれるだけならまだしも、もしも怖がらせでもしたら。――それこそ本末転倒だ。
何故ここまであの男に惚れ込んだのか、自分でもよく分かっていない。それでもこの気持ちは嘘ではないのだ。大切にしたい、優しく在りたい、と。本気でそう思っている。
(……ったく、こっちの気も知らねぇでよォ)
ここ最近、やたらと理性を試させられているような気がしてならない。
服の裾を少し引っ張りながら、そこまである身長差ではないけれども、だからこそ間近で上目遣いをされた時はそのまま宿に連れていこうかと思った。
また「今から会いたい」なんて、あの男が素直に話しただけでも生唾ものなのに湯上がりなんて聞いていない。ほんのり赤く、しっとりとなった肌。あまり乾かしていない濡れた髪から時折、ぽたり、ぽたりと水滴が滴り落ちる。それが堪らなく色っぽかった。
そして今朝の姿。己が鋼鉄の理性の持ち主でなければ、今頃とっくに食べられていても可笑しくはない。いや、寧ろ餓えたケモノに食い散らかされるだろう。
それでもそうしないのは、必死に我慢しているのは、どうしようもなく好きだからなのだ。大切にし過ぎたってまだ足りない。
言葉の足りない冨岡と暴慢だと思われている自分が恋仲になるなんて、周りはおろか、当人達すら想像もしていなかった。
拙い愛情を渡し、そして受け取り、亀のように遅い歩みで距離を縮めてきた。周りから見れば馬鹿みたいに慎重だろう、子供のままごとだと思われるだろう。それでも構わない。他人よりも愛しい人が幸せだと言ってくれることの方が、ずっとずっと重要なのだから。――なんて尤もらしい事を言ってみたが、本当はただ己が怖いだけなのだ。
熱を持った触れ方をした時拒絶なんてされたら、きっと立ち直れないだろう。想像するだけでツキリと心臓に針を刺されるのだ、実際に言われたりしたら、目の当たりにしたら。
考えたくもない。
(でも、そろそろ本当に危ねェ…抑えきれなくなってんなァ)
我慢に我慢を重ねてきたが、何にでも限度というものはある。爆発してしまう前にどうにか対処をしなければ。
このままでは本当に、欲のままに抱いてしまう。それだけはなんとしてでも避けたい。
重いため息がこぼれる。こんなにも自分が振り回されることになろうとは。一年前は思いもしなかった。
(……この俺がここまで譲歩してやってんだぜェ。あのやろう、有り難く思えよ)
***
その日は、唐突にやってきた。
珍しく不死川も冨岡も、仕事の命がない夜のこと。屋敷の中で共に過ごしていた。
二人で過ごすのは何日ぶりだろうか。仕事で遠方に行かなければならない時は、平気で一月会えない時だってある。だから共に居る時間は一分、一秒だって無駄にしたくない。
「…冨岡、」
「……ん」
触れ合うだけの接吻でも、これだけ気持ちが良いのだ。舌を絡ませ合ったら、一体どれほどの悦を味わえるのだろう。考えるだけでもゾクリと肌が粟立つ。
唇を重ね、離し、また重ねるを数回繰り返した頃。冨岡が不死川の袖を控えめにだが掴んでいた。
たったそれだけの事なのに、まるで「もっと」と求められているかのようで、「やめないで」と縋っているかのようで。ほとんど反射的な行動に出てしまう。
「っ…!」
「――ッ、ぁ……」
ビクッ、と震えた体に不死川は理性を取り戻した。
気が付けば冨岡の腰辺りをグッと引き寄せ、しっかりと色を持った触り方で撫でていたのだ。無意識にとは言え、今までの努力を無駄にする行為に自己嫌悪する。
怯えるように震え、目をつぶっている冨岡の姿は胸が苦しい。やはりまだ早いかと思いつつ、安心させるように頭をポン、と撫でた。
「……何もしねぇよ」
怖がらせない為の、優しさを含ませた言葉だった。間違いない。それなのにどうして、目の前の恋人は悲しそうに泣いているのだろうか。
「……なんで」
「と、みおか…?」
「俺とは、……そういう事が、出来ないのか?」
「っは…?」
まさか、まさか。分かっていたのか。理解していたのか。
混乱する頭は情報が追い付かない。悲しみがこぼれ落ちているというのに、拭ってやることすらも頭から抜けていた。それに気付いたのは、冨岡の話を聞き終わってからだった。
呆けたままの不死川に、冨岡は更に悲しみに満ちた声音で言葉を紡ぐ。
「俺は、そんなに魅力がないのだろうか」
ポロポロとこぼれ落ちた涙を、自分の手で拭うが中々止まってくれない。みっともないな、と思うが、今さらどう取り繕うとも遅い。あぁ、鼻を啜る音が格好悪い。
「自分なりに、色々と努力したつもりだったが、お前は何とも思わなかったようだしな」
それどころか迷惑だと、はしたないのだと思われていたらどうしようか。後悔した所でどうしようも出来ない事は重々承知だ。それでも知ってほしい。自分がどう思っているのか。
言葉にするのは苦手だけれど、伝えたいと思うのだ。
「……不死川、聞いてくれ。俺は、お前の事を好いている。だからもっと、触れたいとも、触れてほしいとも、思っている……それがもし、お前にとって不快ならば、迷惑ならば、もう言わない…しないから……だから、」
声が震える。
涙が止まらない。
「……嫌わないで、くれ…」
か弱い乙女のように、好いた男に縋りつく。なんて無様で弱い姿なのだろう。我ながら呆れ果てる。
同じ男にこんな事をされても、気持ち悪いだろうに。
不死川は何も言わないままだ。それがひどく悲しかった。せめてこれ以上不快にさせない為にも距離を取ろう。そう思って体を離そうとした時だ。――グッと強く引き寄せられ、腕の中に閉じ込めるように抱き締められた。
「………」
不死川は冨岡の独白を聞きながら、ポカンと口を開け驚愕していた。
目から鱗、それは違うな。灯台もと暗し、これもまた違う。等と頭の中が忙しなく、分かりやすく混乱していたのだが、冨岡が離れようとしたことに気付き慌てて抱き締めた。
「し、不死川…?」
「……黙って聞いてろ」
「ぅ、ん…?」
前髪を後ろへと流すように梳き、露になった額に口付けをする。ここでようやく、その悲しみであふれた涙を拭ってやれた。本当はもっと早く受け止めてやるべきだったのだ。不甲斐ない自分に腹が立つが、反省するのは今ではない。
「俺はなァ、冨岡。案外助平だ」
「……、…?」
「頭ン中で何度テメェを犯したか、もう数えきれねェ」
「っ!?……ぁ、…」
自ら飛び込んできた獲物を逃したりはしない。
耳元で告げた言葉以上に声が熱を帯びていた。甘ったるく流し込んだ音に、冨岡がゾワリと背筋を震わせキュッと目を瞑る。でももう、やめて等やらない。
お前が其れを望むのなら、欲しいとねだるのなら、俺は喜んで全てをくれてやる。やっぱり嫌だと言われても、構うものか。先に仕掛けてきたのはお前なのだ。その責任はしっかり取って貰わねばならない。
「何も知らねぇ無垢な男だと思えば、まさか確信犯だったのかよ…勿体ねぇことしちまったぜ」
「……し、不死川?」
ゆっくりと冨岡を押し倒す。驚きのあまりパチパチと目を瞬かせ、きょとりとしている表情はやはり可愛らしいと思う。
帯を解き、長襦袢のみにする。その長襦袢すらも脱がせていく。ゆっくりゆっくりと、今から何をされるのか思い知らせるように。
「………っ、ま、」
「待たねェ」
「な、んで…急に、そんな……」
「あぁ?急じゃねぇよ。ずっとだ…もうずっと我慢してたんだよ、この俺がなァ」
「……っ」
首筋から鎖骨を撫で、はだけた長襦袢の中に手を入れる。ぴくんと冨岡の体が小さく跳ね、顔を見れば頬がほんのりと薄く桃色に染まっていた。あぁなんだ、そんな表情をしていたのか。これで何の憂いもなく、最後まで進められる。
「…冨岡、テメェもよく聞いてろ」
こんな小っ恥ずかしい事、本当は口にするなんて自分らしくないけれど。
「俺だってテメェに惚れてんだ。…らしくもなく傷付けたくねぇって、思うくらいはなァ」
「……!?」
「やっと分かったかよ、天然柱」
不死川の言葉をようやく理解した冨岡が、顔を見る見る赤く染めていく。普段の澄ました態度は何処へやら。
しかしそうは言うが、こんな表情を見れるのは恐らく世界でただ一人だけ。自分だけだと思うと非常に気分がいい。
不死川は満足そうに目を細め、冨岡の頬に手を添える。反射的に閉じられた目。何をされるか理解し、そして受け入れる態勢だ。けれど、今回は今までと少しだけ違った。
***
翌日。
腰を庇うようなぎこちない動きをしている冨岡と、そんな彼の傍から一向に離れようとしない不死川の姿があった。
「不死川、……その、近い」
「あぁ?もう隠す理由ねェだろ」
「それは、そうだが…」
恥ずかしい、とぽそっと冨岡が呟けば、不死川は抱き締める腕の力を強くした。
冨岡も気恥ずかしいだけで、触れ合う事自体には満更でもないようだ。そっと手を重ねていた。
ゆるりと顔を、綻ばせて。