やる偽善と移る偽善自販機でいつも買う、缶のブラックコーヒーのボタンを押しかけた零の指が、押す直前、ボタンに赤文字で『売切』の文字が点いているのを見て止まった。そのままゆらと所在なさげに振れた人差し指は、ブラックコーヒーの前から少し離れる。
ブラックコーヒーなら何でもいいかと考え、売り切れの缶コーヒーの周囲に指を動かした零だったが、売られているのは『微糖』か『カフェオレ』だけで、ブラックは見当たらない。
…と思ったが、ふと零が視線を前に向けると、缶コーヒーが並んでいる一つ上の段に、ペットボトルに入ったブラックコーヒーが売っていた。普通の500mlペットボトルよりは寸胴で小さめのサイズに見えるが、内容量は500mlらしい。
メーカーや味に深いこだわりのなかった零は、ほとんど悩まず、そのペットボトルのブラックコーヒーのボタンを押した。
重そうな音が自販機の下部から鳴る。零はだいぶ身をかがませて、落ちてきたペットボトルを取り上げた。そのままお釣りの小銭もすくう。
そしてようやく背を伸ばした零は、自身の左手に持っているペットボトルをチラリと見やってから、ため息ともとれない、短い息を吐いた。
約1週間前だっただろうか、その際の、とある出来事が思い出されたのだ。
零はなんとも言えない心持のまま、黒色のペットボトルキャップに手をかけた。
***
遡ること約1週間前。いつものごとく、どついたれ本舗の3人が盧笙の家で飲み会をしていた、とある夜の話である。
「あ、せや!盧笙、キャップ持ってきたで!」
唐突に簓が言った言葉の意味が零には分からなかったが、一瞬不思議そうな顔をした盧笙にはすぐに見当がついたらしく、簓が言葉の後に掲げた小さいビニール袋を見て「ああ」と声を上げた。
簓からビニール袋を受け取り、中身を覗いた盧笙が怪訝な顔になる。
「なんか量、多ないか?無理に買うもんやないで」
「無理には買うてへんよ。俺もともと飲むもん全部ペットボトルやし…多いのは、マネージャーに『捨てるんならくれ』言うて貰ったからな」
「そこまでせんでもええのに」
「言うてマネージャーやし、盧笙のこと知っとるし、話したら納得しよったで?」
次に簓が言った、簓のマネージャーが言ったものらしい言葉を聞いて、二人が何の話をしているのか分からなかった零にもようやく大体の見当がついた。
「『ペットボトルキャップをちゃんと溜めて回収に出すの、盧笙さんらしいですね』って、言うとった」
簓が盧笙に渡したビニール袋には、大量のペットボトルキャップが入っていた。
「これ全部洗っとる?」と簓に確認をした盧笙は、簓が首を振ったのを見て、「洗ってくる」と言いつつ、そのビニールごと台所の方へ向かって行った。
「盧笙の学校でな、ペットボトルキャップの回収しとんねん」
台所に行った盧笙が帰ってくるまでの間に、簓は零に向かってそう説明を始めた。
簓の話を総括すると、つい数か月前から盧笙の勤務する学校で『ペットボトルキャップ回収box』の設置が試験的に行われ始めた、ということらしい。
回収されたペットボトルキャップは然るべき団体に一度集められ、まとめてリサイクル業者に買い取られる。そしてその買い取り分の金額を団体が世界の途上国になんらかの形で還元する、という仕組みの取り組みだ。
たまにスーパーなどでも行われているのを見る取り組みではあるが、せっせとキャップを溜めているのはなるほど簓のマネージャーが言うように『盧笙らしい』と零も思った。
「…つっても、キャップは1個2個で値段がつくもんでもねえだろ」
経緯を聞き終わった零がそう言うと、簓は「せやなあ」とどこか力の抜けた返事をした。
「確かキロ単位で十円前後やったかな。変動で上がったり下がったりはあるやろうけど」
「キロ単位なァ…キャップ1個せいぜい2、3グラムで……」
どこか語尾に物言いたげな雰囲気はあったもののそれ以上は何も言わなかった零に対して、簓は台所から聞こえてくる盧笙がキャップを洗う音を背後に
「それを盧笙の前で言わんのはお前なりの気遣いなん?」
と尋ねて、少し笑いながら首を傾げた。簓の質問を受けて、零が肩をすくめる。
「そりゃまあな。俺は人のやってることに文句つける趣味はないんだよ」
「ふぅん、人なあ。盧笙やから言わんのかと思っとった。アイツの性格知っとったら目の前で言おうなんて気にならんやろ?」
「そりゃ俺のこと優しい人間だと思い過ぎだ。俺は他人が何してようがどうでもいいだけだ。何してようが…無意味なキャップ集めしてようが、どうでもいい。」
零のどこか冷たい言葉を聞いた簓だったが、さして気にしていない様子で笑いながら頬杖をついただけだった。
ペットボトルキャップを学校や店などで収集し、その利益をなんらかの形で社会貢献に使うというのはもうはるか昔から行われている運動ではあるが、この運動には、これまたはるか昔から言われている、とある『問題』がある。
それは「キャップの買い取り価格は世間が思っている以上に安い」ということだ。
ペットボトルキャップ1キロが十円で買い取られているとしても、例えば千円寄付しようとすればキャップ100キロが必要になる。キャップ1つが2グラムだとして、100キロ分になるにはおよそ5万個のキャップが必要だということになる。それまではいい。
問題は、『回収した5万個のペットボトルキャップを専門の団体に送るまでに、5万個で寄付できる千円を優に超える運送費、人件費が必要になる』という点なのだ。
千円を寄付するために千円以上を使うなんて無意味だ。その無駄な費用を最初から寄付した方が、どう考えても合理的である。
…ということを零は考えわけだ。
すると頬杖をついていた簓が「あんな…」と、どこか面白がるように話を切り出した。
「盧笙な、学校でその取り組みが始まったときに、キャップ回収の仕組みとか、そういう無駄なところとか、おおかたネットで調べたらしいねん」
「…へえ?」
零が語尾を上げて相槌を打った。簓の言葉は零にとって意外なものだったのだ。てっきり盧笙は、そういう負の側面を見ずに『善行』をしているものだと思っていた。
「んじゃあ盧笙は、無意味だって知りながらああいうことをしてるわけか」
「いや、無意味やと思ってないらしい」
「は?」
簓の言葉で零が調子の外れた声を上げると、なぜか簓は得意げに笑いながら話を続けた。
「ネットで散々『ペットボトル回収は無意味だ』って言っとるサイトとかブログとか見て、盧笙もその意見に納得したらしいんや。
…でも納得した後、『こんなに正論いうとる人がおるのに、なんでペットボトルキャップの回収は何十年も続いとるんやろ』って言うて。結局自分で答え出しよったけど、どんな答えか分かる?」
簓に尋ねられたが零は答えなかったし、簓も零の答えをさほど待たずにさっさと正解を口にした。
「『運送費が無駄やから運送費をそのまま寄付した方が合理的やって分かっとる人はいっぱいおっても、その運送費と同じ金額を本当に寄付する人は少ないからやないか』ってさ。『運送費として払うのは気にならんけど、それをそっくりそのまま寄付するってなると悩む団体が多いんやろ。せやからキャップって人の善意ごと集めて理由付けして、回りくどく寄付するんや』って言いよった。まあ盧笙の想像やけどな。」
「打算で続けてる団体がほとんどじゃねえの。あとは…回収した分のかすかな利益で得する人間がいるとか。よくまあそんな良い方に考えられるな。」
「自分のやることを正当化したい偽善者みたいに見える?」
簓がわざとらしく直接的な言葉を使った。零は簓に何も言わなかったが、簓は独り言のように自分の意見を述べた。
「偽善者でもなんでも、俺は盧笙のああいう考え方が好きやし、俺にはできんなあって思うとる。そんなわけで俺もキャップ回収に協力することにしたわけや。
…ちなみにやけど、盧笙はキャップ回収始まってから、回収しとる団体と同じところに現金の寄付もしとった。律儀よなあ…」
長い経緯説明が一段落して、簓がふうと一つ息を吐いた。
感情の読み取れない顔をしている零を見て少し笑い再び口を開く。
「ま、結局ありきたりやけど」
台所から聞こえてくる流水音が止まった。盧笙が戻ってくる前に、簓は次の言葉でこの話を締めくくった。
「『やらない善よりやる偽善』って話なんやないか?」
***
家主不在にも関わらず、盧笙宅で当たり前のように酒盛りを始めていた二人の男に、帰宅したばかりの盧笙は初め文句を言っていたが、『盧笙の分の酒も冷蔵庫に入っているから』と流されるままに最終的には台所へ向かって行った。
しかし、リビングに戻ってきた盧笙の手には、冷蔵庫に入っていたはずの酒缶はなく、代わりにビニール袋が握られていた。不思議そうな顔をした盧笙が、リビングに座る二人の内片方に向かい口を開く。
「簓、お前今日もペットボトルキャップ持ってきた?」
尋ねられた簓がキョトンとした顔になり、首を横に振る。
「持ってきてない。この前持ってきたばっかやし、あんま溜まってへんから」
「せやろなあ…」
「なんかあった?」
逆に尋ねられた盧笙が、不思議そうな顔のままビニール袋の中身を示した。
「これキャップ溜めよる袋なんやけど、この前全部回収boxに出したから、ほとんど入ってへんねん」
ビニール袋の中には、まばらにペットボトルキャップが入っていた。その袋の中に盧笙が手を入れる。
「俺が買うの大体お茶やから、キャップの色って緑か白で…でも今、台所に行ったときたまたま袋の中見たら、黒色のが入っとった」
袋から出てきた盧笙の指には、確かにお茶類ではあまり使われないだろう、黒色のペットボトルキャップがつままれていた。
リビングで隣同士に座った簓と盧笙の二人は、盧笙が持ったままの黒色のペットボトルキャップに視線を注いでいた。
「う~ん…覚えないなあ。そもそも黒のキャップ使うペットボトルってあんま無いやろ?」
「せやから気になって聞いとるんや」
二人それぞれに首をかしげながら、盧笙はおもむろに、持っていた黒いキャップを自分の鼻先に寄せた。ほんの少し空気を吸い込む音の後、鼻からキャップを離した盧笙が、パチパチと瞬きを繰り返す。
そして口を開いた。
「コーヒーの匂いがする」
「え?」
盧笙の言葉を聞いた簓が聞き返すように盧笙を見ると、盧笙は簓に向かってキャップを突き出した。そのキャップに顔を寄せた簓も「あ、ほんまや。ちょっとだけする」と声を出す。
そして二人の視線は同時に、盧笙が台所から出てきてこれまで一言も発していない、リビングに座るもう一人に向いた。
簓も盧笙もどちらかと言うと甘党なので、飲めないわけでは無いが、普段自分からコーヒーを買うことがないのだ。対して、黙り続けているもう一人…零はと言うと、三人で食事をする際、酒以外ならコーヒーを頼むことが多い。砂糖もミルクも入っていない、ブラックコーヒー。
つまりこの状況では、謎の黒いペットボトルキャップを誰が持ってきたかなんて、考えるまでもないのだが。
「…そういや、今日持ってきた酒、冷蔵庫に入れに行ったの零やな。俺は台所行ってないで」
追い打ちのような言葉を発した簓の頬は緩みかけていたが、ここであからさまにからかうような態度をとると零が不機嫌になるのは分かっていたため、なんとか堪えた。
そんな簓の堪えはほぼ意味をなしておらず、簓と盧笙の二人と全く目が合わない零は、もはやロボットのように黙々と持っていたビールの缶に口をつけているだけである。
「…なんや、これ零が持ってきたんか」
謎が解けた盧笙は、一息つくように肩の力を抜いて零に問いかけたが、零は黙ったままであった。
「すぐ言うてくれればよかったのに。無駄に悩んだやん」
「…」
「言うの恥ずかしかったんか?」
「……」
「…このキャップちゃんと洗ったやろな?」
「………洗った」
ようやく答えた零に向かって、盧笙が呆れたように笑った。
「ん、ありがとうな。…覚えとったらでいいから、またあったら持ってきて」
「…もう持ってこねえよ」
「拗ねとる!大人げないで、零~」
「あーうるせえな」
簓の茶々に悪態を吐きながら、零は何かをごまかすように、もう中身がほとんどないだろう缶ビールをあおった。