吸血鬼と鮫の人魚② 目を開けると、数カ月ぶりに見た吸血鬼の顔が逆さまに映っていた。俺の頭はぼんやりとしていて状況を把握できない。
「ドラ、ルク?」
「おはようロナルド君。君に名前を呼んでもらえるの、とても嬉しいよ。」
そうだ、久しぶりにあの崖にいたら声をかけられたんだ。俺はこいつの名前を呼んで、そこで記憶が途切れている。
「ずっと君を忘れられなくて。初めて自分の非力さを嘆いたよ、君を探しに海へ行くことも出来ないなんてと。」
あの日、こいつが力を持っていないことはなんとなくわかっていた。だから警戒しなかった。でも今は違う、全身の細胞がこの吸血鬼から離れろと警告している。なのに身体が動かない。
俺の頭は膝の上に乗せられているようだが、身体は水の中にある。浜辺にいるのか?でも視界に空がない。波の音も潮の香りもしない。ここは何処だ?
「先日この場所を見つけてね、これは君のために用意されたんじゃないかと思ってしまって。御祖父様に初めてのおねだりをしたんだ。私の名を呼ぶ、銀髪で空色の瞳をした鮫の人魚が欲しいと。」
ここは何処か建物の中、薄暗い部屋に届く光は月明かり、大きな水槽以外何もない。
「まず君が見つかるかが賭けだったんだ。生活圏も行動パターンも何も知らないから探しようもないし、見つけるまで探すなんて無粋だと思ってね。満月の夜に賭けてみたんだ。今夜会えなかったら諦めるつもりだった、でも君は私と出会ったあの場所にいて、そして私の名を覚えていてくれた。」
忘れるわけがない。俺の名を聞いてくれた吸血鬼の名を。声を。名を呼ばれた時に自分でも驚いたが顔が緩んだから、必死に平然を装ってこちらも名を呼び返した。あんなフワフワした気持ちは初めてで、心地良かったはずなのに。
「これはもう、運命だと思っても仕方ないよね。」
同じ声で俺に語りかけるこの吸血鬼は、本当にあのドラルクなんだろうか。あんなにたくさん俺の話を聞いてくれたのに、今は俺の気持ちに関心がないみたいだ。言ってやりたいことは山程あるのに声が出ない。この気持ちは何なんだろう、これも初めてでよくわからない。
「怖がらないで、大丈夫だよ。君が言ったんじゃないか、楽しいことは吸血鬼だと。」
少し困惑した表情でドラルクは囁く。俺、怖がっていたのか。これが恐怖なのかと理解するのと同時に後悔が押し寄せてきて気持ちが悪い。こんなモノを楽しいと言った自分は愚かとしか言いようがない。この状況は全て自分の行動、言動が招いた結果だ。
「何をしようか、楽しいことをたくさんしよう、ロナルド君!」
頬を撫でられて、全身に悪寒が走った瞬間、意識が遠のいた。
鮫の本能が身体を動かし攻撃したのだろう。気付けば俺はドラルクの喉元に喰らいついていた。鮮血はなく、何故か口の中は砂でいっぱいで、驚いて少し飲み込んでしまった。
ようやく動いた身体を翻して、月明かりが眩しい窓の外を見た。山の上から望む景色には、暗く深い森と遠方に輝く人口の光しかない。
海が見えない場所にいる事実を突き付けられて、ショックで頭が真っ白に、なる暇もなかった。内蔵の中で何かが蠢きだし迫り上がってくる。気持ち悪さと苦しさで涙が止まらない。胃液と一緒に砂が吐き出された。
「あぁ、苦しい思いをさせてごめんねロナルド君。鮫は吸血鬼も食べれるのかい?でも私は砂になるし、勝手に元に戻るからオススメしないよ。」
ドラルクがいた場所にあった砂の山から声がする。吐き出した砂も集まってみるみるうちに元の姿に戻った。
「アンタ殺しても死なないんだな。」
少し声が震えた。殺そうとして、殺せなかった相手なんて初めてだ。
「すぐ死ぬけどね!」
ドラルクは笑いながら言う。自分を殺した相手にとる態度じゃない。
「怒ってないのか?」
「え、なんで?怒るようなことあった?」
全てが理解の範疇を超えていて、なんだか考えるだけ無駄な気がしてきた。どうやら今すぐとって食われる訳じゃなさそうだし、もういいやなるようになれだ。
「アンタ俺に何させたいんだよ。」
「うーん、何しようね?とにかく側にいて欲しかっただけだから。」
「つまり鑑賞用か。」
「違うよ、さっきも言ったじゃないか、君と一緒に楽しいことをしたいんだよ。眺めるだけなんて君もつまらないだろう?」
いや無理矢理連れてきて楽しいもつまらないもないだろう。雑魚と侮った相手に初めての恐怖を味わわされ、殺せるのに殺せないなんて完全に俺の敗北だ。すごく悔しい。この気持ちも初めてだ。この享楽主義者の思い通りには絶対になりたくない。でも抵抗や拒絶は吸血鬼の畏怖欲を満たしてしまうだろう。
そうだ、さっきからこの吸血鬼は何故か俺の楽しいを求めてる。なら俺に出来る抵抗はこれしかない!
今日から俺の楽しいは封印だ。