土曜の昼 当然のことながら、半井整の性格は良く分かっている。昼和食が食べたかったことも、その後一緒にぶらつきたかったことも。
「……せえ」
想定外だったのは、足を踏み入れた店に偶然それがあったこと。整の足が止まってしまったことだ。我が家に最も不必要なもの。派手な見た目のイエスノー枕。整の目は釘付けになり、場から一ミリも動かない。
「……キッチンペーパーがなかったな。せっかくだから買っておくか」
「うん」
話を逸らすべく別話題を持ってきたが、整の足は石膏で固められたように動かない。このまま放って、自分だけ移動して良いだろうか。いや、その場合勝手に買う可能性もある。それなら前もって排除しておく必要があった。
「ティッシュも買っていくか。他にいるものがあるかもしれない、店内も見てみるか?」
「うん」
整の唇が開くと、なにを言い出すのか分からず怖い。裾でも引っ張ろうかと思っていると、整はやたら軽そうな枕を手に取った。
「……買おうかな」
「いらない」
「なんで?」
「枕ならあるだろ」
「和章、これ普通の枕だと思ってる?」
どうするべきか、返答に困った。整は枕を裏返しにして見せてくる。なるほど。表はピンクでイエス、裏はブルーでノーなのか。脳内でカラーチャートのページを捲る。整の人差し指が、イエスのハートマークをなぞる。
「……ああ。そうだろう。そもそもデザインが好きじゃない。縫い目も雑だし、寝る時頬がちくちくするぞ」
「ほんとに知らない?これさ、」
「いい。いい。分かる。分かるから」
店の入り口でそんなことを説明するのも妙だ。思わず本音が零れてしまった。
「え、知ってるならなんで隠したの」
「そんなことより……」
言葉を溜めて、整の指から枕を引きはがそうとする。整が咄嗟にそれを庇うもので、未遂に終わった。
「お前はなにに使うつもりなんだ」
「うーん、やっぱり夜の意思表示?」
おまえな。と言葉が漏れると、整は笑ってピンクの面を見せつける。
「でも、俺こっちの面しか使わないかも……」
「じゃあいらないんじゃないか。整にノーは必要ないんだろ」
「仕事で疲れてる日もあるし、場合によっては、ノーの日もあるかも?」
「なくても、俺たち困ってないだろ」
整は一瞬黙り、俯く。戸惑う無言だった。どうすれば良いのか分からず、せえ、と顔を覗き込んでみる。
「じゃあ少し言っていい?」
「……いい。言わなくていい」
「和章がそういうことやりたいって時、分かりづらいよ。俺はわかんない」
「そんなことないだろ、ちゃんと伝えてる」
「どうやって?肩ポンポン?あれでほんとに分かると思う?」
「分かるだろ。普段しないんだから、特別なことは、特別な日にしかしない」
「わかんないって、今日は疲れてるから寝ようって時に限ってやる気になるじゃん」
「……タイミングが合わないだけだろ」
「もしかして疲れてる俺が好きなの?くたびれてる方がしたいって思う?」
「関係ない、たまたまお前が疲れてるだけだろ。あの日も伝えてたんだ。朝の会話で」
「俺になんて言った?」
「今日は早く帰ってくるからな、と言った。そのつもりで昼メールもしたし」
「百歩譲って、俺が分かってなかったってことにしても、いつも寝てる俺を起こすのは和章だよね。今日はやだって言ってもするじゃん」
「そう言ったって、いつも結局したくなるだろ。整も」
「……俺たち、これ以上不毛な争いはやめよう。イエスノー枕の前で……」
変なことを掘り返してくるからだろ。思ったが、言わないでおく。一時休戦していると、整は閃いた表情でそれを突き出してくる。
「それなら和章がベッドに置いてくれる?そうすれば今日やるんだって分かるし、仕事が終わるまで起きとくから」
手渡され、初めて枕をきちんと目視した。煌びやかなビーズで縫ってあるイエスのアルファベット。蛍光ピンクが痛く目に突き刺さり、隅からほつれた糸が出ている。
「俺たちの部屋にこれが……?」
なんだか眩暈がしてきた。整のわがままはなるべく聞いてやりたいが、これだけは。
「それか、俺が抱っこして待ってる」
「イエスをか」
「そう。こうやって。部屋で待ってるのは?」
整は胸の中で枕を抱き締める。
「可愛い」
「和章、口に出てるよ」
「だけど寂しいよな」
「え?」
打開策はこれしかない。わざと肩を落とす。
「ノーの時はできないんだろ。やりたかったとしても、俺からは言い出せない。仕事で疲れてやりたい時、お前からやりたくない、と視覚的に訴えられるのは寂しいな」
「かずあき……」
整は枕を裏返した。派手な青色で縫ってある、ノーの文字を二人で見つめる。勝負はあったかもしれない。
「俺……イエスしかしない。ずっと、この子をこっちにするから」
「うーん、違う……」
「和章に寂しいなんて思わせたくない。俺はいつだってできるから、準備しとくよ」
はぁ~~と深いため息をつくと、整は「おねがい」とばかりに見上げ、下唇を噛む。
惚れたら負け。これは良くできた言葉だ。負けてしまった、と考えるからいけないのか。いつだって、整のために負けてやった、と捉えることにしたい。
「分かってやってるだろ。ここぞとばかりに可愛いを駆使するな」
「さあ、俺には分からないけど、だって可愛いんでしょ」
と言われいつもの癖で黙ってしまう。うんうんと頷くと、整は嬉しそうに笑った。
「本当にいるんだな」
「うん。毎晩ちゃんと使うから」
「分かった……」
「あ、和章が買いに行ってくれるの?」
「整。お前が可愛いから許されたわけじゃないからな」
「うん。分かってる」
枕だけでなく、こうして部屋に雑多なものが増える。あれもこれも仕方ないのだ。ある程度のことは、整のことが、好きだから。
「ありがとう和章」
とはいえ欲しいのか、本当にこんなもの。おずおずとレジに向かう。これだけ買うのも気が引けたが、もういい。店員が小さなビニール袋に枕を押し込む。出口では、笑顔で手を振る整が待っている。
こんな安っぽく世界一いらない枕で、半井整の笑顔が買えた。絶妙に、複雑な心境。
でもいいか、あいつが嬉しいなら、それで。
「和章ありがとう。今日はこのまま帰ろっか」
「うん……あ」
そういえばコンドームがあと三つしかない。
「ゴムがないな。買って帰らないと」
そう言うと、整はぽかんと口を開けて、みるみるうちに耳まで真っ赤にした。
「恥ずかしいのか?」
「違う」
「恥ずかしいんだな。この枕はいいのに?」
「だって直接的すぎる……和章がそんなこと言うの、初めてだったし」
「整の恥ずかしいラインが難しいな。ゴムこそなんてことない、使うんだから」
整は黙ってしまう。こちらを見つめている顔は、それ以上やめて欲しい、という意だ。
「……あ。寄りたいところがある」
ついでにシーツの洗い替えも欲しい。聞こえているのに、整はもう振り返らない。
「いりません」
「すごいな、なにか分かるのか?」
「和章の考えてることなら、なんとなく」
「幼馴染だからか」
整の背中に声をかける。振り向いた整は、まだ耳まで赤かった。
「恋人だから、って言って」
伏し目がちの瞳の軸がぶれて、整は小さく呟く。歩き出しそうな手を取ると、驚いて隣に立った。手は繋いだまま、とにかく体が熱い。
手をつなぐだけでいいのか。普段は「セックスしたい」とばかりに誘ってくるのに、たったこれだけのことが、嬉しいのか。そういえば外で手をつないだことがなかったな、と気づく。
「……どうしたの。和章が珍しく強引」
「分からないけど、好きなんだろ。こういうの」
「もしかしてさっきの仕返し?可愛いんでしょって、俺が煽ったから?」
「さあな」
「和章、ほんとに意地っ張り」
整は声に出して笑った。
「教えてくれないなら、今日はノーにしようかな?青色の方を抱いて待ってるから」
「はいはい」
「嘘だと思ってる?俺が本当にノーを抱いてたら、お風呂から出た和章は――」
シーツは手に入らないとしても、どこでゴムを買おう。見回して店を探す。整はまだなにか言っていたが、もう聞いてなかった。
整は昔から、妙なところを恥ずかしがる節がある。この調子で、本当にイエスを抱いて俺を待つことなんてできるんだろうか。やって貰おう。せっかく買ったんだから。
なんなら、その枕ごと抱いてやる。楽しみで少し、口元がほころぶ。整は黙ってから、「今やらしいこと考えた?」と、さすが幼馴染で、恋人の察しの良さを見せた。