唇 痛みを感じてから、今自分が何をしていたか理解する。唇が切れた。
知らぬ間に歯でいじっていたらしい。人前じゃなくてよかった。そんなみっともないところ見せられない。
持ち歩いている手鏡を覗き込むと、少しばかり赤い線が唇を走っていた。被害は最小限、この分なら早く治るだろう。指先でなぞっていると、背後に大きな身体が映り込む。
「紅でも引くのかい」
「そんなわけないでしょー」
雨彦さんはケラケラと笑い、鏡越しに僕の顔を確認する。
「乾燥してるからな」
「リップクリーム、塗ってたんですけどねー」
「どれ、見せてみな」
頬を撫で、顎を掬う手の大きいこと。彼に視線を合わせる時、反らす背中が少し悔しい。
「……ありきたりな錆の味だな」
「何を期待したんですかー」
「北村の血は甘いか辛いかしそうだと思ってさ」
「僕のことなんだと思ってるのー?」
べろりと舐められた唇がひりひりと沁みる。これが特効薬になればいいのに。舐めれば舐めるほど悪化する、そんなことわかりきっているけれど。
「余計裂けたら悪いな」
「わかっててやってるでしょー」
束の間の逢瀬、温もりを確かめ合うようなキス。錆の味を含み交わす。
「血の濃度と海の濃度って、同じなんですっけー」
「古論に聞いたら長くなりそうだ」
「ふふ、確かに」
僕らを形成する海の生温かさたるや。雨彦さんは冬の方が元気だ。吐息が熱い。眼差しが熱い。
「これ以上は、治ってからな」
「……自分からやっといてー」
しばしのお預け。口寂しさに、飴でも舐めようか。
ぽんぽんと頭を撫でられる。その手をそっと払いのけ、指と指を絡ませた。
「悪戯な狐さんは、大人しくしててねー」
「おっと、捕まっちまったか」
冬の温度の指先は、唇の柔らかさを忘れない。