初愛記念日 ある年は、呪(まじな)いの込められたヒトガタ。またある年は、京都の老舗の和菓子店が出す落雁。
雨彦さんは、僕に何かをプレゼントしてくれる時、決して後に残るものを贈ろうとはしなかった。いつか僕たちが別れる日がきても、残された贈り物で僕が後悔をしないように。僕達二人をつなぐ特別な関係にいつか終わりはくるのだと、遠回しにそう距離を取られているような気がしていた。
別にお金をかけた物が欲しかったわけでも無い。大学生の僕なんかが買えるような、安価なものでよかった。ただ僕は、雨彦さんからもらったのだと、そうカタチに残るものが欲しかったから。僕はずっと、雨彦さんからの贈り物を素直に喜べずにいたのだ。……今、目の前にあるものを見るまでは。
「……雨彦さん、これ」
「気に入らなかったかい?」
「う、ううん。そうじゃなくてー……」
これ、どうしたの。とは聞けなかった。
僕達は今、クリスさんのおすすめだという料理店の個室にいた。あらかじめ聞いていたおすすめのメニューを一通り食べ終えて、その後頼んでもいなかったはずのケーキが出てきて、プレートには鮮やかなジュレソースでハッピーバースデーと綴られていた。季節のフルーツをふんだんに使ったフルーツタルトは、ナパージュされた宝石のような煌びやかな果物で作られた豪華さに負けない程美味しくて。目を輝かせながらあっという間に食べ終えてしまった。デザートと共に出された紅茶を飲みながら手を綺麗に拭き直していた後、テーブルの隣に座る恋人から声をかけられたのだ。
改めて誕生日おめでとう。その言葉と共に渡された重厚で高級感のある紙袋にデザインされたブランド名は、あまりハイブランドに詳しく無い僕でも聞いたことがある立派なものだった。この重さで、この大きさの紙袋に入っているものなんてひとつくらいしか思いつかない。
「これ、開けてもいいのー?」
「お前さんが嫌でなければ、今開けてみてくれないか」
恐る恐る紙袋の中を覗き込む。中には綺麗な真っ白な箱が鎮座していて、恐る恐るそれをお皿の片されたシミ一つないテーブルクロスの上へとおく。白い箱の上蓋を持ち上げると中には刻印の施された綺麗な木で作られた箱が入っていた。
大方、中に何が入っていたかの予想がついてしまう。想像している中に物を思い浮かべて自然と背筋が伸びる。震えた指を誤魔化すように小さく息を吐いて、おずおずと木の箱を開けると……中には見るからに高級そうなレザーストラップのシルバーの腕時計が飾られていた。
文字盤を囲むシルバーも、ぐるりと台座に巻き付けられているブラウンのレザーストラップも、兄がくたびれたスーツの裾から覗かせるものなんかよりもずっと綺麗で、ずっと高そうだ。……実際、かなりの値段がするのだろうと思う。文字盤に刻まれたブランドの名前には聞き覚えがある。この間講義中、後ろの席の集団がバイト代が貯まったら買おうと思っていると自慢し合っていた高級時計は、確かこのブランドのものだったはずだ。
どう反応をするのが正解か、今の僕にはわからなかった。きっと、夢なんじゃ無いかと。だって、雨彦さんが僕にこんな、目に見えてわかる「恋人へのプレゼント」を選ぶことなんて、今まで一度もなかったのだ。逆に、何か深い意味があるのでは無いかと疑ってしまう。この腕時計を手切金として、俺と別れてくれないか。そんなことを言われてしまうんじゃないかと思うくらい、僕は今目の前に置かれたものが一体何を意味しているのかがわからなくて困り果てていた。
「……気にいらなかったかい?」
「えっと、ううん。そういうわけじゃ、なくってねー」
一体、この気持ちはどう説明すればいいんだろう。嬉しいなー、ありがとう。たった二言で済むはずのお礼を出すことすら、動揺した僕は忘れてしまっていた。目の前にある立派な腕時計と、隣の席に座る雨彦さんの顔を交互に見ることしかできない。きっと、こんな困惑した顔をしていたら雨彦さんだって困ってしまうだろう。
雨彦さんの中で、どんな心境の変化があったのだろう。僕にこの重厚な時計を身につけるだけの価値と、資格が本当にあるのだろうか。
僕の反応を期待してくる雨彦さんの目を、少しばかり怖いと思ってしまった。──今の僕の心の中に現れた、暖かくて、じんわりと染み渡るような切なさを、僕はなんという言葉で表せばいいかがわからない。
「……どうして、」
恐る恐る、僕の心を口にする。それが正解なのかすらわからなかったけど、何も伝えないことでさらに困惑させてしまうくらいなら、きっと本音を口にしたほうがいい。少なくとも共に季節を何周も巡る間に、言葉が足りないことはどんどん互いの関係を拗らせてしまうことに繋がると僕は気づいてしまった。
「どうして、雨彦さんはこれを僕に贈ったのー?」
今まで、形に残るものなんて贈ってくれたことなかったでしょー。そこまで口に出す勇気は僕にはなかった。でも、今僕は、なんで雨彦さんがこれをくれたのかを知りたいと思う。人よりも大きな体で全てを見透かしているような目をして、その癖自分のことになると一番無頓着になる雨彦さんの心の変化を、少しでも共有してほしいと思った。
「わざわざ言うのも、恥ずかしい話なんだが」
「……僕は、知りたいよ」
はぐらかして欲しくない。細かなヒントを読み解けばわかるかもしれない本心でも、直接本人の口から聞きたいと思ってしまったから。
「雨彦さんのことは、全部。あなたのことが、好きだから」
あなたのことを知って、僕もこの感情の名前という答えが知りたい。だから教えて、雨彦さん。
「そうさなあ。……お前さんがこれを聞いて俺のことを怖いと思っても、もう離してやれそうに無いんだが。それでも、いいのかい」
「どうして、そこで逃げるなんて出てくるのさ。……僕は、そんなに弱く無いよー」
そう返すとくすりと笑って、そうだな、とわらった雨彦さんはほんの少し緊張が解けたように見えた。あ、その顔、好きだなー。あんまり雨彦さんが緊張している姿を近くで見ることは無いから、新鮮だと思った。
「お前さんを、いつか手放さなければいけない日が来ると。ずっと、そう思っていたんだ」
そう語り出した雨彦さんは、どこか、遠くを見つめている。その先に何を見ているのか、なんとなくわかってしまった気がした。
──ありきたりな、幸せ。いつかどこかで出会うかもしれない素敵な女性とお付き合いを重ねて、結婚して、子供を産んで。奥さんと、子供と、三人で並んで手を繋いで堂々と歩けるような。そんな未来は僕達二人には絶対に来ない。
きっと、雨彦さんなりの責任感があったのだろう。仕事仲間として、同じ目標を掲げるユニットのリーダーとして、年齢もほぼ一回り離れた大人として。もし僕らの関係が間違いだと糾弾された時、僕がこの関係を間違いだと思ってしまった時にすぐ僕を手放せるように。
「そう思っていた筈なのに。……笑えないな。共に過ごしていく間に、俺の方がどんどんお前さんを手放したくないと思ってしまったんだから」
「……うん」
正直、雨彦さんの方が僕なんかよりもずっと、ずっと先のことを考えてくれている。だって、僕は今まで、ただ目の前のことしか見えていなかった。今の僕が雨彦さんに恋をしていて、今の僕が雨彦さんとお付き合いしたいと思っている。そして、雨彦さんも僕と同じで僕を好いてくれているのだから、それだけでいいじゃ無いかと思っていた。
でも、間違っていたのは僕の方だった。ただひとときの感情に流されて、躍起になって。好き合っているんだからそれでいいじゃ無いか、なんてそんなことは無かったのだ。
「お前さんはきっとそんな先のことまで考えていなかったんだろうと言うことには、悪いがもっと前から気がついていたのさ。だから俺が大人として、正しい道へ引き戻すための準備をしてやらなければいけないと思っていた。お前さんへの愛情が無かったわけでは無いと言うことだけは信じて欲しいが……こんなことを言ってる以上、難しい話だな」
「そんなこと、無い」
雨彦さんの気持ちなら、しっかりと伝わっていた。確かに言葉は足りないかもしれないけれど、その瞳が、その指が、僕に触れる時。雨彦さんが僕を大切に思ってくれていることは、痛いほど伝わっている。
「雨彦さんがちゃんと僕のこと好きでいてくれてるって、伝わってたよー」
「……そうか。それは、良かった」
そう告げる雨彦さんの顔は、安堵の色に満ちていた。そうして一呼吸置いた後、ちらりと僕の前の時計を見て再び口を開く。
「随分前に撮影でショッピングモールに行っただろう」
そのことならはっきりと覚えている。僕達Legendersと大型ショッピングモールのタイアップで、イルミネーションが点灯している時期にミュージックビデオや店内を見て回るデート風動画の撮影をしたのだ。そういえば、雨彦さんはその時プレゼントとして包装された腕時計を手にしていた気がする。
「この間久しぶりにあのショッピングモールに訪れた時に、この時計が目に入ってな。お前さんに似合うだろうと思うのと同時に、……これから時間を共に過ごして、その時計の針が少しでも長く北村の腕の上で時を刻んでいくのが見たくなった」
理由はそれじゃダメかい?、なんて聞かれてダメと返せる人はいるんだろうか。少なくとも僕にそんなことをできるわけが無い。吊り上がった瞳が柔らかな目線を僕に向けていて。そんな、まるで僕のことを、愛しているみたいな──
……愛?
ああ、この暖かくてじんわりとした、どこか切ない気持ちは、愛と呼ぶんだ。
きっと、雨彦さんはその感情を僕に向け続けていてくれたんだろう。いつか向けることができなくなるかもしれない愛情を、ずっと、一人で。そうして、初めてその愛情で僕を縛り付けたいと、そう思ってくれたのだ。
──嬉しい、と思った。重たい、大きな愛で縛られることを。そして、同じだけの愛を返せるかわからないけれど。……僕も、同じ気持ちを返していきたいと思った。
「……雨彦さん」
「なんだい、北村」
「僕、雨彦さんにこの時計、つけてほしいなー」
そう返すと嬉しそうにそれを渡してくれないかと言われて、雨彦さんに木箱を手渡す。手慣れたように高そうな腕時計を箱から取り出して、巻き付けられていたレザーストラップを台座から外す。こっちでいいかい、と聞かれて左腕を取られたから、うん、と言って長袖の裾をほんの少し捲った。
ストラップをぐるりと巻かれて、手首の裏でバックルを止められる。ずしりと重いそれが腕に巻き付いた。しっかりとしたつくりの文字盤と、それから年月と共にどんどん大きくなった愛の重さ。まるで手枷のような愛情を、気がついたらふらりと消えてしまいそうな隣の男に与えられたことに心臓がばくばくと高鳴る。
こんな高価なもの、撮影以外で身に付けたのなんて初めてだった。それも、自分のためのものだ。身の丈にあっているのかもわからない。でも心なしかすごく僕に馴染んでいる気がしているのは、気のせいじゃないといいと思った。
「……似合ってますかー?」
「ああ、凄く。それを選んだのは正解だったな」
そう言いながら嬉しそうな顔をする雨彦さんに、きゅっと胸が締め付けられる。……その顔を、もっと。たくさん隣で見ていきたいという感情が、あなたの抱え込んでいたものと一緒だったらいいと思う。
「ありがとう、雨彦さん。たくさん、大切に使わせてもらうねー」
「ああ、そうして貰えると有難い」
チクタクと秒針が音を奏でる。
この時計とたくさんの時を刻んで、たくさんの愛を僕も贈れるように。初めてもらった愛のカタチを、いつまでも大切にしたいと思った。