distortion 呻く声は扉を開く前から聞こえていた。ノックに返事がないのは予想がついていた。鍵を外して部屋へと入る。白いベッドの上で丸くなった体は胎児のようだった。あの頃まで、喜怒哀楽の全ての中に放り投げられる前まで戻れたのなら、そこから動かずにいるのが一番幸せなのかもしれない。
「痛むのか?」
命に別状はない、という診断結果だったけれど、動きを止められる程度には攻撃を受けているのだからとても軽傷とは言えない状態だった。乱れたシーツから覗く足首には包帯が巻かれている。まっさらな白は、病室の中にあっても馴染まずに浮いて見える。
「じきに鎮痛剤も効いてくる。少しの辛抱だ」
さっき投与されたのは、鎮痛剤と呼ぶには少し強すぎる代物だ。彼を苛んでいるのはおそらく傷の痛みだけではない。俺の声が聞こえているのかどうかも定かではなかった。包帯を巻かれた足がシーツを蹴る。また新しく弧が描かれる。強張った手が暴れるように動く。今にも波間に沈もうとしているようだった。
手を伸ばしたのは、そんな連想を断ち切ろうとしたからなのだろう。指先が体を覆うシーツへと触れる前に赤が閃いた。血ではなかった。血を透かしてはいるとしても。全身の怪我も、薬の効果も、憎しみが上回っていく。弾かれたように起き上がったその体はまっすぐに俺の方へと向かってくる。俺の胸倉を掴んで、けれど、そこで限界を迎えたようだった。力の抜けた体を支える事はできなかった。二人揃って崩れ落ちる。座り込んだ病室の床は冷たく硬い。ぐったりとうなだれる首筋は細い。
「おい」
大丈夫か、と言葉にするよりも先に真我利が顔を上げた。俺の胸元で凍りついたように固まっていた手に力が籠る。軍の制服を着るわけにはいかないけれど、公安の制服が着られるわけでもなかった。何の変哲もない白いシャツに深く皺が寄る。
「……アンタには」
その声で紡がれる言葉は棘に満ちているけれど、元々の声色はどこか少年らしさを残した柔らかなものだ。そう思い出そうとしなければ思い出せないほどにひび割れた声だった。
「超能力者様には当たり前の事なんだろうな。入院すれば見舞いが来るのも。魘されていれば手を差し伸べられるのも。それが当たり前だったんだろうなあ」
膝を震わせながら真我利は立ち上がろうとする。このまま血が巡らなくなって崩れてしまいそうなほどに指先を白くしながら。
「腹が立つんだよ、アンタの、それ」
真我利の視線が俺の網膜を焼こうとしている。思わず息を呑んだ瞬間にいびつな形に曲がっていた膝が折れて、その体はまた俺もろとも床へと沈む。
「……殺してくれたらよかったのに」
掠れた声が、血の気を失った指先と一緒に床へと落ちた。
「虐げられて、馬鹿にされて……周りのやつも、可哀想だねって言われて」
それでも生きていかないといけないのか。問いかけのようでもあり、諦めのようでもあった。その言葉を最後に声は途切れた。痛みはまだあるのだろう。決して安らかとは言えない呼吸の音が聞こえてくる。小柄な方ではない。それでも、ろくに食事もしていない体は、擦り減り続けた体は軽かった。ベッドに横たえる。薬が招く眠りは深い。真我利は目を覚まさなかった。
守れるのかもしれない、と思ったのが軍に入った理由だった。俺の能力は代々そうであったように戦闘向きではないけれど、逃げたり、逃がしたり、情報を得るのには都合のいい能力だから。そう思っていたのに気が付けば俺は戦闘マシンの開発に関わっていた。無能力者が超能力者と対等に渡り合える力を得られるのであれば、それも一つの道だ。それでいいと思っていたけれど状況は変わっていった。命を削るような実験や、抑止力を手に入れる以上のものを見据えている目。大規模な実験が決行されたのならば犠牲者が出る事はわかっていた。だから、逃げ出した。実験は失敗に終わって、学園内部の闇は暴かれた。望んだ未来に向かって一歩を踏み出した。そのはずだ。そのはずなのに、一歩を踏み出したその足がどこにあるのかがわからなくなる瞬間が不意にやってくる。
真我利が小さく唸った。目を覚ましてはいなかった。眉間の皺は緩んで、そこにはただ年相応の寝顔があった。十九歳だと聞いている。人生に絶望するにはまだ早すぎる、と笑い飛ばす事はできなかった。もう十分すぎるほどに傷を負っているのだと、棘を纏った言葉の一つ一つが示していた。手を伸ばした。眠る真我利の前髪を指先で梳いた。額の温度が伝わってくる。……今度は守れるだろうか。せめて、ここにある命一つだけでも。
「……身勝手が過ぎるだろう」
額から離れた指先が冷えていく。その命を利用したのは誰だ。誰かに答えを求めるまでもなかった。俺が一番よく知っていた。守るとは程遠い事をしておいて、今更。足元が崩れていく。床に沈んだ重さは今度は俺一人分だった。眩暈がした。体を支えようと手のひらを床についた。拒絶するような温度が促してくる。早くその足で立て、と。首を横に振りたかった。どうやって立てばいいのかも、どうやって歩けばいいのかもうまく思い出せなかった。真我利のか細い声が蘇る。それでも生きていかないといけないのか。……生きていかないといけない、と、答えなければならない。
真我利が眠るベッドの端に手をかけた。これまで立って歩いて生きてきた体は、俺の忘れた立ち上がり方を覚えていた。微かな膝の震えが体中を揺らしていく。吐き気がした。それでも、立たないといけなかった。俺の生きていく先に何があるのかはわからない。真我利が生きていく先に何があるのかもわからない。それでも、生きていれば、きっと、いいことが。譫言のようなそれにすがって生きていくしかない。幸福が降り注ぐ光景を俺は語るのだろう。頭の中にすら描けないそれを、まるでこれから確かにやってくる未来であるかのように。どうか幸せに、と願いながら。どうか幸せに。幸せに。……幸せに、なりたい、俺たちは。
(END)