序 視線が痛い。
そう感じながら出陣するのは何度目になるだろうかと、山姥切国広は自問する。わからない。数えるのはもうやめたのだった。
わかるのは、これがいつから始まったのかということだ。
始まりは、一振の刀の顕現だった。国広の本科――山姥切長義。
この本丸では、新しく顕現した刀がある程度暮らしに慣れた頃、しばらく近侍に就くことになっている。近侍の仕事の中には、出陣部隊の見送りも含まれる。
今日も、隊長である国広を、射るように見ている目があった。
「……行くぞ」
国広は部隊に向かって呼びかけた。号令に呼応して、部隊は移動を始める。
「まったく、……なんて、俺の仕事じゃ――」
視線に背を向け、逃げるような気持ちで出陣する。
いつまでこれが続くのだろうか。それはわからない。
わかるのは、痛みには慣れるということだ。
戦闘を終え、本丸に帰還する。
出迎えの中に近侍はいなかった。何か他に仕事があったのか、国広が主への報告を済ませるあいだも、姿は見えなかった。内心でほっとしながら審神者の前を辞す。
ところが、己の部屋まであと数歩というところで、鉢合わせになった。
「やあ」
長義は国広の行く手を遮るように、廊下の真ん中に立っている。無視するわけにもいかず、国広は顔を上げた。
長義が、軽く片手を上げながら言った。
「おかえり、偽物くん」
相手の口元に浮かぶのは友好的な笑み。その口から発せられるのは、笑みに似つかわしくない言葉。
何度も聞いた言葉だ。
長義がここに顕現してから、何度も、何度も、繰り返し。
「写しは――」
「偽物くんは、いつまで偽物くんでいるつもりなのかな」
「写しは、偽物とは違う」
うつむき、フードを引き下ろして答えた。
これもそうだ。何度も繰り返した返事。繰り返したやりとり。意味のないやりとりだ。いつだって、相手はこちらの話など聞いてはいないのだから。
そう思っていたのに、今日は違った。
「ああ、その通りだ」
国広の言葉を、長義は鷹揚に肯定した。国広はつかのま息が止まるほど驚いた。
思わず顔を上げる。その瞬間に長義と目が合った。こちらを真正面から射貫く瞳。出陣の度に国広のことを刺していた瞳だ。
国広は再び顔を伏せた。長義が同意するのであれば、これ以上の会話は必要ない。相手が退いて、道を空けてくれるのを国広は待った。
だがいつまで待っても、長義が動く様子はない。
長義が、すう、と息を吸う。何かを言おうとしているのだと気がついた。
気がついたところで、どうというわけではないのだが。
「お前は、お前の本歌であるこの俺が」
相手はそこで一度言葉を切った。今度は一体何を言い出すのだろう。そう思いながら黙って待つ。
「写しと、贋作の違いもわからないと思っているのかな」
長義は問うた。穏やかに、けれど明瞭に。そんなことを言われるのは初めてだった。どういう意味なのだろう、と考える。何を意図した質問なのだろう。
「いるのかな?」
考えているあいだに、問いは繰り返された。よりゆっくりと、はっきりと。一音一音を、噛んで含めるように。
そもそも、と国広は思う。長義がこちらの答えを求めること自体が、初めてではないか。これまで長義が国広に投げた問いかけは、どれも問いかけの形をした主張でしかなかったと記憶している。
長義の意図はわからない。だから、浮かんだ答えをありのまま口にした。
「……思っていない」
口に出してみると、にわかに思考がまとまった。
「だからこそ、お前がなぜ俺のことをそう呼ぶのかがわからない」
ひと息に言った。そして、気づいた。どうして今まで思い至らなかったのだろう。
相手は己の本科である。国広が打たれた時のことを、誰より知っている存在のはずだ。
ふ、と長義が息を漏らした。かと思うと、声を上げて笑い始めた。いかにも可笑しそうに。
国広はうつむいたまま、待った。笑いが止むのを待って、口を開いた。
「何が可笑しい」
「いや、なに……」
こみ上げる笑いを抑えるかのように、長義が息を吐く。国広は少しだけ視線を上げた。相手の顔の下半分が見えるほどに。長義は片手で口元を押さえていた。それでもわかるくらいに、相手の口は笑みの形を作っている。
「嬉しくてね。はじめて偽物くんと会話が成立したよ」
またわからないことを言い出した、と思った。意味はわからないが、長義の口調は真に嬉しそうだった。
「……何が言いたいんだ」
「言葉の通りだよ、偽物くん」
「写しは――」
反射的に口に出そうになる言葉を押しとどめた。思っていない。先ほどそう言った以上、この反論は成り立たない。
国広は口を噤んだ。そして、どうすればこの会話を打ち切れるかを考えた。そもそも、どうしてこの会話が始まったのだったか。それは明白だ。向こうが話しかけてくるからである。
「……どうして、いつも俺にかまう」
「おや。お前がそれを言うのかい」
心外だというように、長義は言った。国広は首をかしげた。
「俺は、何も」
「何年だったかな」
「何?」
「ここに俺がいなかった期間だ。そのあいだ、お前はよく俺の話をしていたのだろう? 主から聞いているよ」
「それは……」
「せっかく、こうして俺が顕現したんだ。俺の話は、俺のいるところでしようじゃないか。それに、俺も、お前の話がしたい。お前が俺の話をしていたように。いけないか?」
「…………いや」
否、と答えるしかないではないか。そのように言われてしまっては。
長義はまた笑みを浮かべてうなずいている。どうやら、国広の答えに満足したようだった。
「今日も出陣ご苦労だったね。偽物くん?」
「……」
返す言葉を持たない国広を置き去りにして、長義は去る。
「だから、なぜ……」
深くため息をついてから、国広は自分だけの部屋に戻った。
終