冬はつとめて 冬の朝、朝日が昇るほんの少し前に、加州清光は目を覚ました。
素肌に直に触れるのは、なめらかなシーツの感触。衣服は何も身につけていない。目を閉じたまま身じろぎをすれば、つま先が寝具の端からはみ出した。素足が朝の冷気に晒され、清光は思わず身体を縮こまらせた。
日本家屋を模して作られた本丸の居住区画は、気密性も保温性もその見た目よりもずっと優れている。室温を調節すれば、真冬に裸で寝ていようとも凍えることはないのだが、あいにくと昨夜は空調を弱くしたまま寝入ってしまったのだった。おかげで今朝は、布団に籠っていても寒い。耐えかねた清光は傍らにあるはずの温もりに身を寄せようとして――自分が布団の中に一人であることに気づいた。
「ええ……相変わらず起きるの早……」
ずいぶん前に褥を出たのだろう、熱の名残さえも残っていない。特大の湯たんぽがないことにむくれながら、足元のほうへとずれていた毛布を引っ張り上げた。冷えた両脚を毛布で包んでから、布団をしっかりと被る。空調を調節するのは面倒だし、どうせすぐに相手が戻ってくるだろうと思ったからだ。
案の定、清光がもう一度眠りに落ちるよりも早く、山姥切国広は部屋に戻ってきた。国広が傍らに腰を下ろす気配を感じ、清光は頭まで被っていた布団を少しだけ浮かせて、その姿を見上げた。
「もう起きたのか」
意外だな、という意図を隠さない声で、国広が言う。自他共に認める朝型で、目覚めた瞬間から活動をはじめられる国広とは違い、清光は朝が早いほうではない。
「いい朝だぞ」
「どこ行ってた」
「外を……、歩いていた」
なんでそこで一瞬口ごもるんだよ、と清光は心の中で突っ込んだ。布団から顔を出そうとして、眩しさに顔をしかめる。薄目でのぞいた先、国広はいつもの赤ジャージの上着を脱ごうとしていた。
日が昇りはじめた外の明るさは、障子越しでも十分すぎるほどわかる。今日の天気も快晴なのだろう。
「ああもう、調子狂う。こんな……」
「こんな、なんだ?」
脱いだ上着を適当に放り、その下のシャツに手をかけながら国広が問う。
「こんなの、冬の空じゃない」
呟いて、清光は国広に背を向けた。
本丸の季節や天気は、審神者が自由に変えることができる。
昨年まで、この本丸の冬の空は、清光が生まれた土地と同じような空だったのだ。雲は厚く重く、今にも落ちてきそうなほどに低く垂れこめる。どこを見ても灰色の、色のない世界。それが清光にとっての冬だった。
それが、今年のはじめに一変した。高く高く、どこまでも澄み渡る、翳りのない空。それがこの本丸の冬の空になった。審神者がとある場所へと出かけて行き、戻ったその日からだ。
朝一の活動を終えた国広は、清光の隣に腰を下ろしたまま動かない。おおかた、次に何をしようか思案しているのだろう。
「あのさ、寒いんだけど」
「温度を上げるか」
「……」
そうじゃなくて、という返事の代わりにしばらく沈黙していれば、国広が、ふ、と小さく笑うのが聞こえた。そこで清光は気づく。わかって言っているのだ、この刀は。
あの朴念仁が、いつの間にこんなふうになったのだろう。過ぎた年月に思いを馳せながら、清光は待った。
まもなく、衣服を脱いだ国広が体躯を布団に滑り込ませてきた。横を向く清光の背中に、己の胸をぴたりと添わせる。
「あっ、つ……」
相手の肌は予想していたよりもずっと熱を持っていた。温かいを通り越して、熱いと言ったほうがいい。
「お前、さっき歩いてたって言ったけど、ほんとは走ってたんだろ」
「…………ばれたか」
国広が低い声で笑う。うなじにかかる吐息も、熱く湿っている。
「ばれたかじゃねえし。というか、別にごまかす必要なかっただろ」
「走ってきたと言ったら……入れてもらえないかも知れない」
清光の後頭部に鼻をすりつけながら言う。その声には拗ねたような響きがある。
「ええ……俺そんなこと気にすると思われてる? いや待って、確かに汗かいたままくっつくなとかそんなこと言ったことあったかも知れないけど、それって大昔のはなし! というかお前、最初っからこのつもりだったな?」
「そうだぞ」
国広の答えは率直だ。清光はなんだか頭を抱えたい気分になった。国広との付き合いは八年目になるが、どうしてこう、ぶっきらぼうなところは残したままで、妙な可愛げを育ててしまったのだろう。
どれくらい走ってきたのかは知らないが、国広のことだ、軽いジョギング程度の距離ではないのだろう。部屋に戻ってくる前に、悟られないように息を整えているところを想像すると、愛おしさを覚えずにはいられなかった。
身体の前に回された国広の手が清光の手を掴み、脚が脚に絡む。相手の肌はどこも熱くて心地良かった。
国広が、背後で満足げに息をついた。
「気持ちいい。冷たくて」
「そ。じゃあしばらくこうしてようね」
触れあう肌の温度が等しくなるころに、清光が口を開いた。
「で、本日の予定は? 近侍さん」
この本丸の近侍は、基本的には最古参である清光と国広が交代で勤めることになっている。実際は二振で相談し、協力しながら仕事をしているので、事実上の二振体制であると言って良い。どちらも既に練度は極まっており、戦闘からは退いて久しい。
「里だ」
「だよね、知ってた」
「極めたばかりの奴らの練度を上げる」
この本丸の審神者は、政府から与えられる各種任務を熱心こなすほうで、報酬として得られる修行道具も豊富にある。希望した者はすべて修行に出ることが許可されており、それゆえにまだ練度の低い者が多い。期間限定の合戦場は貴重な鍛錬の場である。
「新しい江、さ」
「稲葉江」
「そ。間に合いそう? いま何玉?」
「数えてはいないが、大丈夫だろう」
「そういうところ、お前らしいよ」
初日から全力を注いで玉を収集する。余剰が出たとしても、経験値が得られるのだから無駄とは考えない。それが収集系イベントにおける国広の方針だった。目標数から一日のノルマを計算するタイプの清光とは対照的である。
「江も増えたな」
「七振り目だって」
まさかこんなに大所帯になるとはね、と清光はしみじみとつぶやいた。背後で国広もああと同意する。
「覚えてる?」
「ん?」
「一番最初の江が来たとき」
「篭手切だな。あの時も里だった」
「うん、そうなんだけど……。新しい男士が予告されたとき、あれは『菊一文字』じゃないかーって噂があってさ」
「ああ……」
その時を懐かしむように国広はうなずいた。
「お。覚えてたんだ?」
「なんで意外そうなんだ」
国広の声には抗議の響きが乗っていた。腰に回されていた腕に力がこもる。清光はその手に自分の手を重ねて言った。
「ごめんて。でもみんなはきっと忘れてるだろうな。新しい男士が来たらお祭り騒ぎだし、もう五年近くも前のことだし」
「……そうかも知れない」
少しの沈黙の後、国広が静かに答えた。
「遠征は順調にまわってる?」
「ああ」
鍛刀や手入に欠かせない資源や、各種札、出陣に必要な小判の管理も近侍の仕事である。資源は備蓄上限に達しており、依頼札も手伝い札も豊富にあるため、遠征先は小判の取得を優先に選ばれている。
「だが、そろそろ交代させないと不満が出始めるころだ。月が変わったら――」
「お前みたいなんだよな」
国広の言葉をさえぎって、清光は言った。
「いきなりなんだ」
「この冬の空」
「……」
背後の国広が困惑しているのが、清光には手に取るようにわかった。困惑はやがて沈思へと変わる。長い熟考の末に国広は答えた。
「俺の目は、あんな色ではない」
「そうじゃなくて」
清光は布団の中で身体を転がし、国広と向き合った。真剣な表情の中の、はてなマークが浮かぶその瞳を見る。少しのあいだ見つめてから、目を逸らした。
この空は自分には明るすぎる。
疑問符を浮かべたままの国広を置き去りにして、清光は背中を向けた。なんなんだ、という声が聞こえたが、返事はしなかった。
「寝るのか」
「……」
黙っていると、まあいい、という諦めの言葉と小さなため息がうなじにかかった。
「時間はある。少しだけだが」
国広の身体から力が抜ける。どうやら相手のほうも、もう一眠りする気になったらしい。
背中にかかる重みを確かめ、清光は満足して目を閉じた。
終わり