サキュバスちゃん──魔界。悪魔たちが住まうこの場所に、ある一人の『サキュバス』の少女がいた。
藍色の柔らかなボブヘアーに、妖しい色の紫の瞳を持つその可憐な少女の名前を『クリス』と言った。
悪魔たちは16の年齢を迎えると、人間界に一人前の悪魔になるための試験を受けなければならない。
そして、サキュバスのクリスに課せられたのは──。
「……はあ」
魔王から命じられた試験内容に、クリスは溜め息をついていた。
「全くふざけているな」
「兄様……!」
血の繋がっていない兄・ラルドは、クリスの試験内容を知り眉間に皺を寄せていた。
人間界の男子校に三年間通い、一人でも多くの人間と肉体関係を持ち、精力を奪いながら生活すること。
親代わりであるラルドは、クリスを心配してくれているらしい。
「なんで兄様の方が不安そうなの?」
「不安にもなる。恋愛未経験な可愛いクリスを人間界の男子校などという獣の溜まり場に放り込むなど」
「相変わらず心配性だな…」
苦笑いしながらも、育ての兄を心配させまいと、クリスはその頬に手を添える。
「安心して?兄様。僕、立派なサキュバスになって帰ってくるから」
「……クリス。しかし、三年もクリスに会えないのが私は寂しいのだ」
「ふふっ、たまに遊びに来てもいいよ?」
「……そうさせてもらう」
「あ、毎日はやめてね」
「ダメか」
「ダメ」
やはり毎日通う気だった兄を宥めながら、クリスは人間界と魔界を繋ぐゲートを見上げる。
不安、とはいえ。
(人間のオトコノコって、どんな味がするのかな)
期待を持ってないと言えば嘘になるクリスだった。
▷
──5月某日。
東雲学園、1年A組に転校生がやって来るとのことで、教室は少しざわめいていた。
「転校生ってどんな奴だろうなー」
「それな!あ〜、女の子みたいに可愛い子がいいけど……ないだろうなー」
銀色のピアスを朝陽に反射させる真田(さなだ)と、脚をゆらゆらと揺らして唇を尖らせる西見(にしみ)。
そんな彼らの話題に入ってくるのは、端正な顔立ちの男子、桐嶋(きりしま)だ。
「ないよ、絶対。男子校だしさ。期待はしない方がいいんじゃない?」
「そんなのわかってるよー」
「つか、桐島、今日朝から仕事あったんじゃね?」
「いや、今日転校生来るらしいから撮影時間ちょっとずらしてもらった」
「読者モデル、自由かよ!」
真田のけらけらという笑い声を裂いたのは、ガラリと開いた扉の音だった。
扉を開けたのは、全身水浸しになった男子、香坂(こうさか)である。
「香坂くん、今日はまたどうしたの?びしょびしょじゃない」
「あ、あはは……朝から水やりしてる先生のホースに当たっちゃって……」
「うわ〜今日もやってんな、香ちゃん」
「うーん……今日の占いは一位だったんだけど……」
香坂はしょんぼりとしながら席につき、鞄の中に仕舞った体操着をいそいそと取り出す。
本当にツイてないな、ドジだな香坂、という声が香坂の背中に突き刺さる。
(今日は良いことあると思ったけど、朝からこの調子じゃ駄目そうだな……)
溜め息を吐きながら香坂はシャツを脱いだ。
そんな時、閉まったばかりの教室の扉が再度開けられる。
「席につけ。ホームルーム始めるぞ」
髪を一つに縛った気だるげな教師の声により、約20人の生徒たちがだらだらと席に着きはじめる。
今日もまたいつも通りの1日が始まるのか──彼らは、そう思っていた。
「今日は転校生を紹介する」
「待ってました〜!」
「兵藤、静かに。……つってもこれからもっと煩くなるだろうが…」
兵藤(ひょうどう)と呼ばれた小麦色の肌のチャラそうな男子が腰掛けると、教師は扉を見て「入っていいぞ」と声をかけた。
男子だらけで狭く感じる教室に、こつりと控えめな靴音が立てられる。
その一瞬、生徒たちは皆目を丸くした。
それもそのはずだ。
「……え、うそうそうそ」
「マジ……?」
「…夢?」
それまで興味なさげにしていた生徒たちも、転校生に視線を注ぐ。
男子校に相応しくないスカートから、黒のニーハイを履いた長い脚が伸びている。
制服の上着から分かるほど豊満な胸は転校生が『女子』であるという何よりの証。
「えー……今日からお前らの仲間になる…」
「月乃クリスです。よろしく」
月乃(つきの)クリス、と名乗った少女は可愛らしい、それでいてどこか妖艶な笑みを貼り付けた。
彼女が名前を言った瞬間、教室は歓喜の声で轟く。
「女子だあああああ!!!!」
「なんで!?男子校なのに!??」
「うるさ……」
「やば!マジテンション上がってきた!!!」
「フゥゥ〜〜〜!!!!」
ある者は机に立ち、ある者はガッツポーズをして。またある者はつんざくような声に耳を塞ぎ、信じられないように彼女を凝視した。
しかしなぜ男子校に女子が、と前例がないことに驚く隙も教師は与えない。
「それじゃあ、月乃の席は窓際の一番後ろな」
「わかりました」
「……先生」
彼女が席に向かおうとした時、一人の眼鏡を掛けた男子が立ち上がった。きりりとした顔つきからは真面目な印象を受ける。
「理解出来ません。なぜ男子校に女子を転入させたのですか?」
「おいおい冷めること言うなよ桑原〜」
桑原(くわはら)は厳しい目つきで教師を見つめる。
「色々家の事情とかがあるんだと。なあ月乃」
「…はい。もちろん、無理に受け入れてくれとは言わないけど、邪険にしないでくれると嬉しいな」
月乃が笑いかけると、桑原は眉を顰めて静かに席についた。
「月乃、桑原は学級委員長だから、何か分からないことがありゃ聞くといい」
「はい」
「はいはいはい!俺も相談ウェルカムで〜す!!」
「俺も〜!!」
西見と兵藤を筆頭に男子たちが手を挙げる中で、ジャージに着替えた香坂はぽうっと月乃を見つめていた。
(可愛い子だなぁ……)
雪のように白い肌に柔らかそうな桃色の唇。ぱっちりとしたつり目。整った輪郭。滑らかな線を描く身体。
どこをとっても美少女である彼女を、教室中の男子が見つめている。
「よろしくね」
「へ?」
自分の席の隣に座ることになったらしい彼女を見つめる。ニコッと笑われると、香坂は頬をみるみるうちに赤らめていった。
それから一限目が終わるや否や、学校中の男子が一年A組を訪れていた。
「なんでうちのクラスじゃないんだよ!?」
「マジでかわいい…てか、雰囲気エロくね?」
「この前見たAV女優の…なんだっけ、あの子に似てる、爆乳ロリ顔幼馴染モノのさあ」
などと好き勝手に言う他クラスの男子たちに優越感を抱きながら、A組の男子たちは月乃に夢中になる。
「月乃さんってどこの学校から来たの?っていうか、親しみを込めて"くーちゃん"って呼んでいいかな?」
「いいよ。えっと、君は?」
「僕は桐島。モデルやってるんだ、知ってるかなこの事務所」
「お、桐島が抜け駆けしてんぞー」
モデル事務所の名刺を差し出す桐島に、真田がケラケラと笑う。西見と兵藤も負けじとアピールし始めたようだ。
輪の中の中心にいる彼女を、香坂はぼんやりと見ていた。