サキュバスちゃんb私立東雲学園は、生徒の自由性や個性を重んじる歴史ある男子校である。
そんな男子校の中で、一年A組の男子、香坂 祐輝(こうさか ゆうき)は特に取り柄もなく、個性もなく、ただ日々に身を任せて学園生活を謳歌している。
「う、うわあっ、避けて……!!」
ただ一つ、生まれつき不幸体質という点を除けば、平穏な学園生活を過ごせていると言えるだろう。
五月の某日。
朝から園芸部の生徒によって誤って水を引っかけられ、びしょ濡れになって遅刻しそうになりながら廊下を駆けていれば、つるりと滑ってしまう。
そんなものは日常茶飯事なのである。
「え?……きゃっ!?」
しかし、今日は"いつもの"毎日とは違っていた。
盛大に滑ったせいで、前方を歩いていた人物に抱きつき、そのまま雪崩れ込む。
むにゅうっ、と柔らかい感覚が手のひらに広がったあと、どてっと転んでしまった香坂。
慌てて起きあがろうとした彼は、鼻先にあたる布の感触に思わずすっと息を吸い込んだ。
──甘い香りが、する。
何より手に触れる、この柔らかで弾力のあるものはなんだろう。そろそろと目線を上に向ければ、ぱっちりと開いたつり目気味の瞳と目が合った。
水晶のように吸い込まれるアメジストの双眸は、驚いたように見開かれている。
「だ…大丈夫?キミ…」
「あ、はい……」
長い睫毛に、白雪のような肌。深い藍色の髪は先がウェーブがかっていて柔らかそうだ。
──女の子?
はた、と気づく。なぜ男子校にこんなに可愛い女の子がいるのだろう。
「おーい香坂。いつまでスカートの中に顔突っ込んでんだ」
「…へ?」
気怠げな一年A組の担任教師の言葉を噛み締める。
スカートの中。そろそろと目線を下げれば、そこに広がったのは黒のパンティー。
さらに、起きあがろうと手を動かすと、むぎゅうと何かを鷲掴んでしまい、その正体が何か視覚で確かめれば。
「………あ、う、うわあぁっ!?ご、ごめん!」
「う、ううん。大丈夫だよ。大胆だな、とは思ったけど」
慌てて彼女から離れて、落ち着いて状況確認をする。
女の子は、東雲学園の制服と、この学校で見たことのない紺のスカートを履いていた。
「ほら香坂。ホームルーム始めるから教室入った」
「は、はい!」
教師に軽く押されて教室に入ると、びしょ濡れの香坂を見て目を丸くするそばかすの男子が迎えてくれた。
「香ちゃん、濡れ鼠じゃん!どうしたの!?」
「いやぁ……色々あって……」
「相変わらずドジというか、不運だね?今日すげー良い天気なのに!」
あははっと香坂の不運を笑い飛ばすのは、鼻の頭にあるそばかすが素朴な印象を感じさせる西見(にしみ)だ。
そういえば、と彼は机から身を乗り出す。
「今日さ、転入生が来るんだって!」
「へえ、そうなん……」
だ、と言い切る前に過るのは、先程の美少女だ。
いやいや、まさか、と首を振る香坂の思考を振り切るように、ガラリと教室の扉が開いた。
「席につけ。ホームルーム始めるぞ」
髪を一つに縛った教師の声により、約20人の生徒たちがだらだらと席に着きはじめる。
今日もまたいつも通りの1日が始まるのか──彼らは、そう思っていた。
「今日は転校生を紹介する」
「待ってました〜!」
「兵藤、静かに。……つってもこれからもっと煩くなるだろうが…」
兵藤(ひょうどう)と呼ばれた小麦色の肌のチャラそうな男子が腰掛けると、教師は扉を見て「入っていいぞ」と声をかけた。
男子だらけで狭く感じる教室に、こつりと控えめな靴音が立てられる。
その一瞬、生徒たちは皆目を丸くした。
それもそのはずだ。
「……え、うそうそうそ」
「マジ……?」
「…夢?」
それまで興味なさげにしていた生徒たちも、転校生に視線を注ぐ。
男子校に相応しくないスカートから、黒のニーハイを履いた長い脚が伸びている。
制服の上着から分かるほど豊満な胸は転校生が『女子』であるという何よりの証。
「えー……今日からお前らの仲間になる…」
「月乃クリスです。よろしく」
月乃(つきの)クリス、と名乗った少女は可愛らしい、それでいてどこか妖艶な笑みを貼り付けた。
彼女が名前を言った瞬間、教室は歓喜の声で轟く。
「女子だあああああ!!!!」
「なんで!?男子校なのに!??」
「うるさ……」
「やば!マジテンション上がってきた!!!」
「フゥゥ〜〜〜!!!!」
ある者は机に立ち、ある者はガッツポーズをして。またある者はつんざくような声に耳を塞ぎ、信じられないように彼女を凝視した。
しかしなぜ男子校に女子が、と前例がないことに驚く隙も教師は与えない。
「それじゃあ、月乃の席は窓際の一番後ろな」
「わかりました」
「……先生」
彼女が席に向かおうとした時、一人の眼鏡を掛けた男子が立ち上がった。きりりとした顔つきからは真面目な印象を受ける。
「理解出来ません。なぜ男子校に女子を転入させたのですか?」
「おいおい冷めること言うなよ桑原〜」
桑原(くわはら)は厳しい目つきで教師を見つめる。
「色々家の事情とかがあるんだと。なあ月乃」
「…はい。もちろん、無理に受け入れてくれとは言わないけど、邪険にしないでくれると嬉しいな」
月乃が笑いかけると、桑原は眉を顰めて静かに席についた。
「月乃、桑原は学級委員長だから、何か分からないことがありゃ聞くといい」
「はい」
「はいはいはい!俺も相談ウェルカムで〜す!!」
「俺も〜!!」
西見と兵藤を筆頭に男子たちが手を挙げる中で、着替えのジャージを取り出しながら香坂はぽうっと月乃を見つめていた。
(やっぱり、転入生だったのか。可愛い子だなぁ……)
「よろしくね」
「へ?」
自分の席の隣に座ることになったらしい彼女を見つめる。ニコッと笑われると、香坂は頬をみるみるうちに赤らめていった。
それから一限目が終わるや否や、学校中の男子が一年A組を訪れていた。
「なんでうちのクラスじゃないんだよ!?」
「マジでかわいい…てか、雰囲気エロくね?」
「この前見たAV女優の…なんだっけ、あの子に似てる、爆乳ロリ顔幼馴染モノのさあ」
などと好き勝手に言う他クラスの男子たちに優越感を抱きながら、A組の男子たちは月乃に夢中になる。
香坂はそんな彼女をぼーっと見つめながら体操着に着替えようとした。
「おい、香坂!」
「……え?何?」
「レディーがいるのだから、今日から教室で勝手に着替えるのは禁止とする!」
品の良さそうな声で高らかに香坂を咎める、東條(とうじょう)。彼はキランと目を光らせると、月乃の前に跪いた。
「すまないな、月乃。TPOを弁えない猿が、無礼な真似をして」
「別に、無礼だとは思ってないけど……」
「いやいや。レディーの目を穢れさせるなど言語道断!これからはこの俺、東條 海(とうじょう うみ)が、貴女の目を、心を守る騎士となろう!」
東條はお坊ちゃんらしいしなやかな動作で月乃の手を取り、チュッと手の甲にキスを落とした。
その瞬間、周りの男子たちがヤジを飛ばす。
「何やってんの海ちゃん!」
「そうだそうだ、謝れ!」
「アホ金持ちー!」
「あ、アホ金持ち!??」