君の名は 人影まばらな放課後の教室
先ほどまで廊下に響いていた笑い声もほとんど聞こえなくなった。
おそらくほとんどの生徒が下校してしまったのだろう。
「最近、あの子があいつとばっかり出掛けとるらしーわ、はぁ~凹むわ」
「なんだよ、らしくねーなー」
机に突っ伏してくだを巻くのは姫条まどか
その斜め前の席で、机に腰掛け足をぶらぶらさせながら片手でバスケットボールをもてあそんでいるのが鈴鹿和馬
定期試験前、放課後の部活動停止期間だからと言って、特段勉強をするわけなどない万年補習組の二人である。
教室の椅子は低く、そこに背の高い姫条が座ると、その長い手足を持て余しているようにも見える。
「せやかて、あない王子様オーラ出しまくり~の、キラキラ星人~みたいなヤツ相手に、オレがどない対抗できるっちゅうんや」
「なっ、んかはあんだろ、例えば…っと、そーだな、例えばっ…」
懸命に脳をフル回転させているが対抗できる箇所というが一向に出てこない。脳ミソの中には、バスケとボールとバスケットボールしか詰まっていないので、それは仕方がない。
「なんもないんかーい!ま、ええわ、鈴鹿なんぞに慰めを期待したオレがアホやったわ、あー、こないなとこでうだうだ凹んどってもしゃーないな、ほな、ちょい図書委員のお仕事しとるあの子んとこ行って、当たって砕けてくるわ」
じれた姫条が立ち上がり、カバンに手をかける。
気になっているというよりはもっと存在が大きくなってしまった少女──東雲みるくを誘うために駆け出そうとしているのだろう。
「どういう意味だ?」
「お子様にはわからんままでええ」
「まあ、元気になったんならいいけどよ」
先ほどまで凹んでいた姫条が急に立ち上がったことに驚いた様子の鈴鹿だったが、戸惑いつつもエールを送る。
「あ、姫条ー、ファイトだぜ。打倒!葉月……なあ、あいつなんて名前だ?」
鈴鹿の言葉に、姫条が大きく頷き再び席につく。
「せや、それな、オレもずっと疑問やってん」
首を捻る万年補習コンビ
「や、待て、確か…」
「試験の順番発表の時によー見るけど」
なにか閃いたらしい鈴鹿が机の中から、ぐしゃぐしゃと丸められた前回の試験の答案と、筆入れにも入れられず裸のまま机の中にほっぽられていた鉛筆を取り出す。
前回の試験から5ヵ月も経っているのにまだ机の中に答案が入っているのが、試験にも勉強にも全く興味がないことを示している。
「なんか読めねーけど、確かこんな漢字じゃねーか、葉月蛙」
……蛙、カエルの王子様
「んー、葉月鮭、こないな字ぃーやなかったか」
……鮭、今度はシャケになった
ツッコミ不在のボケ天国
そこにパタパタと小走りで近づいてきたのは、先ほど話題にあがっていた東雲みるくちゃん──姫条まどかの想い人である。
「あ、にいやん、スズカー、二人で何書いてるの? あ、葉月くんの名前? 漢字難しいよねー、えっと、確か、葉月畦?あ、違うな。葉月桂?」
……畦と桂、アゼとカツラ
当然どちらも違う。
三人寄れば文殊の知恵ということわざがまったく当てはまらないボケボケトリオである。
元々この3人は補習トリオで、
彼女の担任教諭である氷室零一の頭痛の種となっていた。
しかし、最近の彼女はめきめきと成績をあげ、ついに前回7月の試験では、葉月珪を抜いて1位になった。
「まったくあなたって不思議な人ね、一体どんな勉強をしているの?」と親友の有沢志穂が問えば、
「うーん、別にそんなに特別なことはしてないよ、ただ試験前に葉月くんと一緒に勉強したのが効果あったかなぁ、その葉月くんが肝心の試験の時に寝ちゃったから、1位になれたんだと思うよ」ぽわぽわと答える。
成績はあがっても、どこかボケたままの天然小悪魔ちゃんである。
そんな彼女を熱っぽい瞳で見つめていた姫条が口を開く。
「鈴鹿、オレなんや自信出てきたわ」
「なんで急に自信つくんだよ」
「名前も書けへんような仲ちゅうことや、なあジブン、オレの名前は書けるよな?」
きょとんとした顔のあと、可愛らしい笑顔を見せた彼女が言う。
「もちろんだよ、まどかくん」
「あかん、不意打ちはヒキョーや、完璧…ノックアウトや」
当たって砕けろと、卒業前に想いを伝えようとしていた気持ちは彼女の笑顔と、いきなりの名前呼びの前で雲散霧消、そろそろ帰ろーぜという鈴鹿の言葉に素直に頷き、うっかり仲良しこよし3人組で帰宅してしまう姫条。
□ □ □
茜色の空が徐々に姿を変え、夜の帳が下りる頃、教室の奥のカーテンが揺れる。
「……またやった。」
おそらくカーテンの影の日だまりでうたた寝をしていたであろう葉月珪が独りごちる。
既に日は落ち、窓際の席は気温の低下でとても眠っていられるコンディションではなかった。
図書委員の仕事があると言っていた彼女──東雲みるくを教室で待とうと思っていたのだ。
約束をしていたわけではないが、試験前で撮影も休みだから一緒に帰れたらいいと思っていた。
しかし下校時間はとうに過ぎ、空には星が瞬き始めていた。
こんな時間まで眠っていたのであれば、彼女はとっくに帰ってしまっただろう。
「約束……すれば、良かったな。俺は……言葉が足りない、いつも。」
そんなことを考えながら、教室の電気を点け、一人帰り支度をしていると、その視界の端に自分の名前の書かれた紙が映る。
「……葉月カエル…俺のことか?……12点……鈴鹿和馬……絆創膏…。……別の筆跡もあるな……葉月シャケ、あの黒いヤツのか。
アゼとカツラは、……あいつか……ふっ、あいつ、この間初めて、「珪くん」って呼び掛けてきたくせに。「けいくん」だったんだな、頭の中。来週、うちに誘おう……」
一体何が王子様の琴線に触れたのかは分からないが、その表情の柔らかさから、彼女へのときめき度が更にあがったのは想像に難くない。
□ □ □
早速葉月珪は、次の日曜日の約束をする。
ゆったりな所作とは違い、彼女に対しては意外なことに驚くほどアグレッシブである。
この辺りが、西の王子様と東の王子様の違いだろうか?
そもそも西の王子様である姫条は決して奥手なわけではない。
1年の最初の頃は、上級生のお姉さま方にも可愛がられていたし、同級生の可愛い子ちゃん達の誘いにも簡単に乗っていた、適当に軽く、ノリも愛想も良く、見た目もカッコいい、モテないはずがない。
「来週、オレと遊びに行かへんか?」
ただ、彼女を前にしてはこんな軽いノリで誘うことなど、もうとうに出来なくなっていた。
日曜日、倉庫を改装した姫条ハウスで、そのベッドの上で彼が電話の第一声に悩んでいる頃、
「素敵な部屋だね」と彼女は言った。
あまり分かりやすい反応を示すことの少ない葉月だが、その言葉には嬉しそうに頷く。
「……そうか?」
窓辺に置かれたシルバーの一輪挿しにキラキラと光が反射する。
「この一輪挿しお誕生日の時の。飾ってくれてるんだね、白のガーベラ可愛い」
「……ああ、おまえみたいだろ、その花」
白のガーベラ一輪
おまえみたいだと言われて彼女の顔が赤く染まる
──あなたは私の運命の人です──
花言葉まで込みでおまえみたいだと言われたのかまでは分からなかったけれど。
彼女を見つめるグリーンの瞳が揺れる。
「なあ、おまえ…俺の名前、漢字で書けるか?」
「あは、あはは…この間、まどかくんとスズカーともその話になってね、実は…ごめんなさいっ、けいくんの漢字がうろ覚えなのっ、…ごめんね?」
「……だと思った。ほら、手…貸せよ」
彼女の右の手のひらに丁寧に名前を書いていく。
支える左手も、手のひらに触れる人差し指も熱い。
「……王に、土ふたつだ。」
ピンと来ない様子の彼女の肩を引き寄せ、背中側から抱き締める。アラン模様のセーターの柔らかさが彼女の頬に触れる。
「えっ、え?…けいくん?…あのあの…」
もう一度彼女の手を取り、今度は背中側からその柔らかな手のひらに自らの名を書く。
「…王に、土ふたつ…分かるか?」
「わわ、分かります、分かったからー」
葉月は、頭から湯気が出そうなくらい赤くなった彼女をぎゅっと抱き締める。彼女の瞳がぐるぐると回り、耳朶は燃えるように熱い。
(わわっ、葉月くんの息が首筋にかかって、緊張しちゃう~、葉月くんすごくいい匂い…わあ、わたしのバカバカ~そんなこと考えて…)
「……お前の手、小さくて柔らかいな、……それから、……すごく、いい匂いだ、ここ」
首筋に唇が触れてしまいそうな距離で囁かれ、自分の足で立っているのかさえ分からなくなってしまいそうだと彼女は感じていた。
そのままお互いの鼓動と体温を共有する。
二人の体温はすっかり馴染み、二つのメトロノームが共振するように心臓の拍動が同じリズムになる。
離すタイミングも、離れるタイミングも掴めないまま、どの位の時間そうしていたのか、デジタルな着信音が、二人の間の静寂を破る。
彼女のカバンの中の携帯電話の着信が現実に引き戻す。
赤い顔の彼女が、「でんわ…」と呟き、緩んだ腕の中から、スルリと抜け出す。
カバンから携帯電話を取り出し、その二つ折りのフィーチャーフォンを開くと、着信の主が姫条であると告げる。
「あ、まどかくんだ」
「……その電話、出ないで欲しい、って言ったら、怒るか?おまえ」
「え?…怒らないよ?まどかくんにはあとで連絡すれば大丈夫だと思うし」
イマイチ真意が伝わらない。
葉月が大きく息を吐く。
「やっぱり鈍いな……おまえ」
・ ・ ・
「はー、電話に出んわー、今頃あの子何しとるんかなー」くそほど寒いオヤジギャグをそれとは気付かず口にする。姫条の気持ちもまた決壊寸前。
三人の恋がこれからどう動いていくのか、
卒業の日まであと2ヶ月と少し。