Routine 善知鳥の朝は想像より少しだけ早い。
探偵というのは生き方にも似ていて、朝出勤して夕方帰ってくるようなものではない。とはいえ共同生活を営む以上、最低限やると決めたことはいくつかある。
「じゃあ、行ってくるよ」
「うん」
通常の半分以下の速度でしか動いていない頭を揺らして、善知鳥は玄関をくぐる竜胆を見送った。扉が閉まるまで、なんとか欠伸を我慢する。朝、同居人を玄関で見送ること。これが善知鳥の唯一の日課である。
見送りを済ませたら用意された朝食を食べる。両面がよく焼けた目玉焼きは、長らくの海外渡航の末、よく火の通った食べ物を好むようになった善知鳥の好みを忠実に反映していた。食べ終えた後の行動は日によってまちまちだが、今日は再び寝室に戻り、惰眠を貪ることにする。竜胆から携帯電話を買い与えられたことで仕事用になった善知鳥名義のスマートフォンは、しばらく何の連絡も受け取っていなかった。
二度寝から目覚めたのが十時ごろ。のそのそとリビングへ居所を移すと、十分過ぎる睡眠でようやく開いた目が、朝には気がつかなかったメモ書きに気がつく。「外に出ることがあればいつものパン屋で食パンを一斤買ってきてください。」几帳面な文字、置かれた財布をじっと見つめた後、善知鳥は自室に戻り身支度を整え始めた。指定された店のパンが焼き上がるのは十一時ごろ。徒歩で向かうことを考えればあまり時間に余裕はなかった。
「あら、ご結婚?」
頼まれた食パン一斤の代金を財布から取り出していると、そう声をかけられた。レジを担当しているのはパン屋の主人の妻で、バイトもいないこの店の接客は彼女が一手に引き受けていた。
「指輪、前まではしてなかったでしょ? だから最近のことかと思ったんだけど、違ったかしら」
「いえ、よく見ていらっしゃることに驚いただけで。ありがとうございます」
正確には、これまで右手につけていたものを左手に付け替えただけなのだが、その必要もないので指摘もしない。素直に礼を述べると、「おめでたいから」と言ってレジ横に置かれていた三枚百円のクッキーが買い物袋に入れられた。
「そこまでしてもらうわけには」
「常連なんだし遠慮しないで! そうよ、次は奥さんと来てちょうだいね」
それについては否定も肯定もせずに微笑む。彼女の期待に沿うことは出来ないが、ここのパンは友人のお気に入りであったからだ。その顔をどう捉えたのか、善知鳥の他に客のいない店内で彼女は少しばかり真面目すぎる夫の愚痴をこぼした。あなたはそうなっちゃだめよ、という先人の助言を添えて。
帰り道、郵便局に立ち寄る。外出のついでに国際郵便を出そうと思ったのだ。飾り気のない茶封筒の中身は、近況を報告する数枚の手紙と一枚の写真だった。写真の方は数日前に竜胆に頼んで二人で撮ったものだ。身につける腕こそ違えど同じ指に、同じデザインの指輪が見て取れる写真は、これから船便で二か月ほど掛けて、この指輪の以前の持ち主のもとへ届くだろう。
手続きの間、手持ち無沙汰になった視線がふらふらと彷徨う。壁のポスターはお歳暮と年賀状を宣伝し、善知鳥は来年の干支がうさぎであることをこの時初めて知った。次に目を止めたのは受付カウンターの横のチラシだった。嘘のような青空が印刷された保険の広告の、「結婚や出産、人生の節目に保険に入りませんか?」、そんな宣伝文句が目に入る。普段なら気にも留めないその言葉を意識したのは、やはり左手にあるもののせいだろうか。何かを誤魔化すように、善知鳥はチラシに手を伸ばした。
「ご結婚されたんですか? おめでとうございます」
いつの間にか戻って来ていた受付が、唐突にそう言った。
「え?」
「保険のチラシを見ていらしたので。それに指輪も、前来た時は右手でしたよね? 国際郵便を定期的に送られる方って、そう多くないので記憶に残ってて……って、ああ! すいません、立ち入ったことを……!」
「お気になさらず。そう言われるのが今日二度目で、驚いただけなので。素晴らしい記憶力ですね」
嘘ではなかった。自分が思っているよりも人々は、よく周囲に気がつくものなのかもしれないと思って驚いたのだ。あるいは自分の想像よりも、この指には意味があるのか。どちらがより正しいのかは結論を先送りにすることにして、広告は郵送の控えとともにパン屋の袋に突っ込んだ。
郵便局を出る時、受付が「末長くお幸せに」と言うのが小さく聞こえる。掛けられた言葉に実感はなく、冬の気配を滲ませ始めた外気同様に、善知鳥の輪郭をはっきりとさせるばかりだった。
「だから手紙の主は君のクラスメイトだ。君の動向を追っていた犬に関しては、君の持っていた匂い袋を追っていたようだから、それを処分すれば暫くは問題ないと思う。しかしストーキングは立派な犯罪だし、君の安全を考えるなら然るべき機関に相談すべきだと思うけど……どうする?」
十六時。よく公園に来る子どもの姉が、善知鳥にとって直近の依頼人だった。依頼内容はストーカー紛いの手紙の差出人を探すこと。父子家庭で、出来るだけ事を荒立てたくない。お礼もバイト代から払うとのこと―これに関しては解決の確約がないことを理由に断ったが。
数日の町歩きで得た事実は、家事やバイトのため早く下校する彼女の後を、犬が尾けていたこと。犬は彼女の持つ匂い袋を追っており、それは彼女がクラスメイトの女性から貰ったものであること。犬の首輪につけられた小型カメラは既に回収済みだ。それと手紙とで、証拠品としては十分過ぎるだろう。
「調べてくれてありがとう。でも大丈夫、知らない相手じゃないし、直接話してみる。あっ、善知鳥さんの言う通りちゃんと先生も呼んで!」
善知鳥の説明を全て聞き終わると、彼女は明るく笑ってそう言った。犯人が身近な人物であると知ってなお、取り乱す様子を見せず、あまつさえ直接話して解決しようとする人の良さに、思わず友人を思い出す。自分の助言を忘れず、大人も交えた話し合いの場を用意するだけ彼より幾分かマシかもしれない。そんな善知鳥に気がつくことなく、彼女は言葉を続けた。
「あの手紙、なんというか凄く私のこと心配してくれてたの。もちろんつけ回されてたのは腹立つし、なんでって思う。でもね、やり方がまずかっただけで、多分ほんとに私のことを気遣おうとしてくれてたんだと思う。善知鳥さんも読んだでしょ? 過保護なお母さんみたいで、憎めないの」
「わかった。でも何かあれば必ず警察かご家族……俺でも良いから相談してくれ」
「うん。善知鳥さんも調べてくれて本当にありがと! あ、そうだそうだ、お礼もしなきゃね」
花が咲くように笑った彼女が、公園の時計に目を向ける。既に陽は落ち始め、空は茜色に染まっていた。二人のいる簡素な東屋では時折吹く風の肌寒さを和らげるには至らなかった。
「今は……やば、もう五時だ。ちょっとついてきてくれる?」
彼女の先導に従って公園を抜け、商店街を歩く。数分ののち、立ち止まったのは昔懐かしい店構えを残した肉屋の前だった。ちょっと待ってて、の言葉と共に店の奥へ消えた少女は、次に現れた時には店のロゴ入りのエプロンをつけた立派な店員姿だった。
「私、ここでバイトしてんの。どうせお金は受け取ってくれないでしょ?」
そう言うと彼女はあれこれと店の商品を説明し始めた。ひき肉入りのコロッケは店の主人のお手製だとか、焼豚は夕方すぐに売り切れる人気商品だとか、云々。好意は有難いが、彼女から何かを受け取る気は初めからなかった。どうやって断ろうかと、示されるままにショーケースを眺めていると、彼女は初めて会った時からは見違える元気な声でこう続けた。
「そうだ、今度は私が善知鳥さんの相談乗るよ! ほら、善知鳥さんってはなぶさクリニックの院長さんとルームシェアしてるんでしょ? 共同生活の悩みなら聞けるよ、私これでも長いこと親戚の家にいたし」
何故そのことを、と尋ねると、「だって二人のこと、スーパーでよく見かけるもん。あそこのお医者さん、私が弟連れて行っても嫌な顔せずに診てくれるから有難くてさ」とさらりと答えられる。この町に暮らし始めて三年以上経つが、この日初めて善知鳥は自らの住む町が存外に狭いこと、この町において友人は自分よりよほど有名であることを知った。
善知鳥がぼんやりと思索に出ている間に、彼女は半ば押し付けるようにして温かさの伝わる包みを手渡した。それを開くと大ぶりのコロッケが四つ入っている。どうやら説明を聞いても決めかねたと誤解されたらしい。
「一番のおすすめ、二人で分けて食べてね」
善知鳥が帰宅してから一時間ほどして、玄関扉が再び開いた。「ただいま」の声に応えるようにして、自室から出て「おかえり」と告げる。玄関に顔を覗かせると、大きな袋を持った竜胆が危ういバランスで靴を脱ごうとする所だった。何も言わずに近づき、袋を預かる。中身はじゃがいもやにんじん、不揃いなそれらは明らかに店で買ったものとは異なっていた。
「ああ、悪いなあ御船」
「いいや。それよりこれは?」
「診察に来た患者さんから頂いてしまって。まりちゃんとも分けたんだがこの量だ」
竜胆が靴を脱ぎ終え袋を引き取ろうとするのを片手で制する。数秒の無言の応酬の末、勝利したのは善知鳥だった。渋々善知鳥の隣を通り抜けようとした竜胆が、ふと足を止めた。踵を返して善知鳥の方へ一歩歩み寄ると、そのまま肩口に鼻を寄せる。
「きみ、途中で買い食いしただろ」
「うん?」
「商店街のコロッケの匂いがするぞ」
「……なるほど、探偵助手に相応しい嗅覚だ」
何か言いたげな視線が刺さる。中身は多分、夕食前に間食をするなとか、腹が減ったなら家にある作り置きを食べろ、とかそういうことだろう。間食ひとつで不都合が出るほど衰えてはないが、この友人はこと善知鳥の健康状態となると非常に厳しい一面がある。主治医としてのプライドなのかもしれないし、それ以外の、善知鳥にはわからない何かかもしれなかった。
「その前に夕食にしよう。事情はきちんと説明するから……そうだ、今日のメニューはカレーなんてどうだろう」
「というわけで、あのコロッケはご好意で頂いたものだ。クッキーもあるから、良ければ食後に紅茶でも淹れよう」
「なるほどなあ。やはり君は、君が思うよりよほど周囲から認められているのだと思うよ」
「そうかな」
「でなければ、そう多くの人が君の変化に気がつきはしないさ」
すっかり食べ終えたカレー皿を片付けながら、竜胆が微笑んだ。
竜胆の物の見方は、いつも善知鳥に多くの気づきを与えた。自分のなぞる思考の中に、彼のものを置くことができればと検討したこともある。しかしその考えは、竜胆が常に身辺にいることで否定され続けている。善知鳥にとって、常に彼は唯一であるからだ。
「それで、一日の感想は?」
「と言うと」
「きみは、変わらないのならそれで良い、と言ってその指輪を受け取った。しかし実際はどうだろう。君と僕は変わらずとも、周囲の君を見る目は明確に変化した。それはきみにとって、厭うべき変化ではないのかい」
「なるほど」
キッチンに立つ竜胆の表情は善知鳥からは窺えない。そういう時、善知鳥もまた、彼の心中についてあえて推理しなかった。
暫しの沈黙。しかしそれが気まずさを生まない程度には、二人は長く共に暮らしてきた。嘘はつかない。そう心の中で繰り返してから、善知鳥が慎重に口を開く。
「俺は、俺自身がどう認識されようが構わない。俺に与えられた、疑い暴くという役割はその程度で変わるものではないからだ。……そうであるならば俺は、お前が俺に与えたいと思ったものを大事にしてみたい。俺がほんとうの意味でおまえの言葉を理解できていないことに変わらないし、所詮真似事と言われればそれまでだが。それでも」
流れるような言葉は、しかしやはり小さなつまづきを以て善知鳥の喉奥で滞留した。これ以上は踏み込むべきではない。彼の本心も、同じ温度を共有する意味も、自分は理解していないのだから。
引き継ぐように、竜胆が口を開いた。
「きみの望むようにすればいい。急がなくて良いし、無理もしなくていい。どれだけ時間が掛かっても、僕は君自身の言葉が聞きたいんだ」
「……ありがとう」
温かな紅茶で満たされたマグカップを手に取る。そうして初めて、金属と陶器が触れ合う音が、もう然程気にならないことに気がついた。