祝杯「今日の仕込みはそんなに多くなくて良さそうですかねぇ」
「出るはずだったピアニストも来られなくなったし、そうだなァ……八割くらいで頼むわ」
「はあい」
　気のない返事にマスターの視線が刺さる。それに気がつき、これまた気の抜けた謝罪を述べると、呆れたようなポーズをしてマスターは店の奥へ引っ込んでいった。自分もまた、配送された食材や酒類を確認する作業へ戻る。荷物を運ぶついでに階段の先、外の様子を伺うと、雨足は更に強まっていたようだった。

「あれ、来たんだ？」
　カランコロン。本来ならあるはずのステージの音楽を邪魔しない程度の軽い音を立てて、来店を知らせるベルが鳴る。入口に見慣れた長身を認めると、すっかり慣れた手つきでタオルを投げ渡しながら言葉をかけた。濡れ鼠は器用にタオルを受け取りながら、しかしどこか不安げな色でこちらを見る。
「なにか不味かっただろうか……」
「いやいやそういうわけじゃないって！　ほら、外すごい雨じゃん。それに普段に比べると来るのも遅かったから、さすがに今日は真っ直ぐ家に帰ったんだと思って」
「来ると約束したはずだ」
「雨天延期って可能性もあるだろ。俺、仕事中は携帯電話も確認しないし」
「今日は泊まりの日だ、無駄にするつもりはない」
　身体についた雨をおおよそ拭い、定位置となっている隅の席に座った元濡れ鼠―水落ハゼは真面目な顔をしてそう言った。そうして遅くなったことを謝罪し、勤め先の台風一過の対策に男手として駆り出されたせいだと忌々しげに口にした。そんな日にわざわざバーに足を運ぶこいつは、やはりちょっとズレている。
「仕事なんだし別に謝る必要はないけどさ。まあいいや、何飲む？」
「そうだな……度数の高い、身体が温まるものを」
「やっぱ帰った方が良くない？」
「そんなに帰らせたいのか、水上」
「そうじゃないって！」
　こういうときのハゼはいやに小さく見える。狙ってやっているならまだしも、そうでないのは明らかだからタチが悪い――そんなことを考えながら、彼が満足するまで、俺は再び否定の言葉を述べ続けた。
　度数が高い酒を数杯煽り、軽食を食べ、本来であればそれなりに酔いが回るはずの時間。やはり変わらない表情で今日は一際ひとの少ないバーカウンターの隅に陣取ったハゼは、差し出されたグラスを不可解なものを見るような目で見つめていた。
「これは？」
「黒ビールとシャンパンで作るブラック・ベルベットってカクテル。初めて？」
「そうだな、初めて見る。……ちがう、まだ次は頼んでいなかったんだが」
「グラス空いてるぞ、どうせすぐ頼む気だったくせに。サービスみたいなもんだから金は取らないし、安心していいよ」
「それはそうだが……、サービス？」
　心当たりがないとでも言いたげな表情に思わず苦笑する。忘れているだろうことは分かっていたが、にしても普段の顔からは想像もつかないような惚けた表情だ。そんな様子を見て何を勘違いしたのか、ハゼは心当たりを端から列挙し、それを自分自身で否定していく。それもまた愛嬌はあったのだが、いい加減かわいそうになって来たので早々に答え合わせをしてやることにした。
「……ハゼが初めてこの店に来た日。祝うってほどのことじゃないかもしれないけど。俺はこれでも結構、おまえともう一回話せて嬉しかったからさ。記念に一杯くらい、悪くないだろ？」
　嘘ではないが、全てでもない答え。彼の言動には普段から振り回されているのだから、これくらいのズルは許されるはずだ。そんな言い訳をして、本当に言いたかったことは一杯のグラスに乗せる。再会を祝すその酒に、どうか気がついてくれるなという祈りにも似た気持ちを込めて。
「ほら、乾杯」
「……ああ、乾杯」
　グラス同士が軽くぶつかる音が、店の隅に響く。しかしそれは雨音にかき消され、二人のほかに知る者はいなかった。