鬼交鬼交
「孕ませたのはおまえか」
実家の門扉をくぐり、玄関先に立った途端にそう叫ばれ、あろうことか拳が振り下ろされた。意味もわからぬままに甘んじてその拳を受けるつもりもなく、驚きとともにその拳をかわしていた。
帰着の挨拶よりもさきに繰り出された拳にはたっぷりの怒りがのせられていて、何のことだと思わずにはいられなかった。
「どうされたのです、父上っ」
怒り心頭に発したまま、更に殴りつけてこようとする父に慌てて声を掛けた。
「どうもこうもないっ、おまえがっ」
怒りは凄まじかった。父の語尾が震えていることにただ事ではない雰囲気を感じ取った。
「どうしたのです」
わからぬまま、父に問い直した。それと同時に弟の姿が見えないことに気が付いた。いつもであれば玄関先で俺自身を迎えてくれるのは父ではなく、弟の筈だ。
「あの子は?」
胸の騒ぐにまかせて父に弟の所在を尋ねていた。
「寝込んでいる」
吐き捨てるようにそれを告げられた。
「寝込んで?どこか具合でも悪いのですか?」
重ねてそれを口にすると、父の瞳が倍以上に見開かれた。
「おまえ、おまえのしたことをよく考えてみろっ」
ぶるぶると震える手で指差された。父の指先は震えるままに曲線となり、まるで俺の心の臓を掴むようにも見えた。
「……」
わからなかった。一体どのようなことをしでかしたのだろうか。そして寝込んでいるという弟にいますぐ会いたくなった。
悉く振り上げた拳を避けた故か、その分父の呼吸があがってきた。肩で大きく息をしながら、小さく「くそっ」と吐き捨てている。
「あの子に何があったのです」
何か病だろうか。
父上を押しのけ、家へあがり込もうとすると体を張った父上に邪魔をされた。
「おまえ、自分のしたことをよく考えてみろ」
「だから、なにをですか」
玄関の上がり框で押し問答を繰り返した。
「孕ませただろう?」
「孕ませた?」
つい先ほども同じことを言われた。
「誰をです?」
孕む、とは子ができたということか。考えてもみたが馴染みの女達とも久しくそのような間柄にはなってはいない。
「おまえ、本当にわからんのか」
父上が愕然とした様子で何度目かの言葉を絞り出した。
「……千寿郎をだ」
そこで目が覚めた。
覚醒と同時に瞬時に周囲を窺ってみたが、見上げた天井は見慣れた自室のものであった。ただし、ぐっしょりと寝汗をかいており、寝間着が重く冷えている。
「夢か」
千寿郎を孕ませたことを父に咎められる夢だった。
――千寿郎を。
千寿郎は男児だ。たとえどんなに愛おしく思っていたとしても、交わって子を生すことは不可能だ。それなのに、なぜこのような夢を見たのだろう。
布団に横になったまま、妙に現実感のあった夢の内容を反芻してみた。
「兄上」
部屋の廊下側、襖の向こうで千寿郎の声がした。
「起きてらっしゃいますか?」
「ああ」
返事をしつつ、そこでようやく布団の上に半身を起こした。首に張り付いた髪をかき上げていると、静かに襖が開き千寿郎が顔を覗かせた。
「あの、おはようございます」
「おはよう。少し寝すぎたな」
そう言って笑ってみせた途端、千寿郎の顔がわずかに歪んだかと思うと両手でその顔を覆い、「わっ」とそのまま泣き崩れてしまった。
「千、どうした」
廊下で座り込んで泣き崩れてしまった千寿郎のもとへ、布団を跳ね除け慌てて駆け寄るとその体を抱き起した。すると、俺の腕に縋るようにして千寿郎が顔をあげ、口を開いた。
「よかった、戻ってこられたのですね」
よかった、よかったと千寿郎が繰り返している。
「戻って、きた?」
どういうことだと問い返すと、千寿郎がしゃっくりをあげつつ事情を話してくれた。その事情によると、数か月ほど前の鬼との交戦の際に俺自身、瀕死の重傷を負い生死の境を彷徨ったとのことだった。
「そう、だったのか」
千寿郎に説明を受けたが、その部分の記憶は何故だかすっぽりと抜け落ちている。記憶を手繰り寄せようとしたが、それは叶わなかった。
「兄上?」
そんな俺を心配そうに千寿郎が見上げてくる。
「千、俺はずっと眠っていたのだろうか」
だから記憶が抜け落ちているのだろうかと思ったのだ。すると、千寿郎が一瞬体をひくりと震えさせたのち、「覚えてらっしゃらないのですか?」と小声で呟いた。
「目覚めていたのか?」
「は、はい。いえ、でも、覚えてらっしゃらないのでしたら、それは、その、その方がよいかと」
歯切れ悪く千寿郎が言葉を発し、視線を彷徨わせた。
「……」
千寿郎の様子から、何かが起こったことは察した。「覚えていない方がよい」と言われるほどのことがあったということだ。
「あの、朝食にしましょう」
そう言って千寿郎が必死に話を、その場の空気を変えようとしている。気を遣ってくれているのだ。
「あ、ああ。そうだな、腹が減った」
頷いて笑んでみせると、あきらかに千寿郎がほっとしている。そしてそこで、俺の視線は立ち上がった千寿郎の腹回りに縫い付けられてしまった。千寿郎の腹回りが幾分膨らんでいる。
「千、その腹は?」
問いつつもそこで、先ほどの夢のなかで父上が叫んだ言葉が思い出された。
―――『孕ませたのはおまえか』―――
「あ、これは」
千寿郎が戸惑いつつも、手つきは柔らかく自らの腹をそっとひと撫でしてみせた。
「う、産み月まではあともう少しございますが、その、」
「俺の子か」
千寿郎がびくりと肩を揺らした。そしてその後、急にカタカタと体を震わせたのちその場にひれ伏してしまった。
「も、申し訳ございません。男子の身で、その、は、孕んでしまいました。兄上の手は決して煩わせません。どうぞ、このままっ」
千寿郎の叫びに目の前がぐらりと揺れたように思えた。
本当に身籠っているのか。しかもやはりそれは俺の子であるらしい。
「千、すまない。事情が呑み込めない。俺は、今日まで本当に俺であったのか?」
弟を手籠めにし、なおかつ男子である千寿郎を孕ませたとなればそれはひとの所業ではない気がした。
「鬼か」
ふと思い立ったことを口にした。
鬼は木の股からでも子を生す存在だという。情愛のわからないものの例えではあるが、あながち間違ってはいないだろう。
「もしや俺は鬼と化していたのか」
そこで自らの手のひらを見つめた。刀を握る右の手だ。幾体もの鬼を斬ってきたこの手が弟にどのように触れたのか。
「あ、あにうえっ」
見つめていた右手が千寿郎の両手によって包まれた。
「千が、千が自ら受け入れたのです。だから、これは喜ばしいことなのですっ」
必死にそう伝えてくる千寿郎が今まで以上に愛おしく感じた。
「子ができたということは正式な夫婦になったということか?」
心の奥底からふつふつと湧きあがってくる感情は千寿郎に対する愛おしさだった。もちろん今までも家族として、弟として、これ以上ないくらいに愛おしい存在だったが、今のこの気持ちは狂おしいほどだ。
「千寿郎」
たまらない気持ちのまま、傍らの千寿郎をかき抱いた。
「あにうえ」
呟いた千寿郎の声は涙交じりのものだった。