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    pyakko_123

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    pyakko_123

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    短編集

     バターファッジsugar sugar成人するまで待ってただけよるに、ふたりクレープのおいしい食べ方ソナチネの指マフラー解熱剤恋人たちのクリスマスアリとカブトムシカップケーキビスポークこれもふたりの日常指輪ファーストフードまちあわせは22時赤茄子 バターファッジ
    「大寿君、ハリー◯ッター読んだことある?」

     部屋中に甘い匂いが充満している。
     知らない匂いではない。火にかけられた砂糖がゆっくりと溶けて、急に焦げてゆく匂い。これとそっくりな匂いを、幼い日に嗅いだことがある。妹と、弟、それから母と、みんなで暮らしたあの部屋に。
    「ルナが図書館で借りてきたんだけどさ。これが案外面白くて」
     あいつらに読み聞かせてるうちに、俺もけっこうしっかり読んじゃったよ。質問の返事を待つこともなく、記憶にない小さなキッチンに立つ背中は勝手に話を続ける。顔は見えなくても、笑いながらはなしていることくらいはその声で分かる。柔らかく、ほどけたその声は甘い匂いに包まれるように温かく小さな部屋中に響いていた。
    「変なおやつがいっぱい出てくんだ。蛙のチョコレートとか膨れっぱなしのチューインガムとか、ハナクソ味とかゲロ味のビーンズとか」
     こんな甘い匂いをさせながら、食欲が失せるような話を平気でする。噎せ返るような砂糖とバニラエッセンスの匂いに脳をやられてた俺はふと我に返った。そうだこの野郎はこういう野郎だった。愛する弟を誑かしたクソ野郎。大体、なにがどうなってこうなった。学校が終わって、俺は帰路を歩いていただけだ。偶然、道端で顔を合わせただけの、かつて拳をぶつけ合ったが友人どころかおそらく知人にすら至らないただの顔見知りの俺を、こいつは無理矢理自分の家に引きずり込んだのだ。
    「糖蜜のヌガーってやつとか、ケーキとかパイがやたら美味しそうで、あいつらも食べさせてやりたくてさ。でもレシピ調べたら結構手がかかるっぽくて」
     簡単にできるのこれだけだった。そう言ってそいつは笑う。キッチンの窓が逆光になって、その横顔はやたら眩しく見える。無理矢理連れ込んだ俺に水から出した麦茶を差し出した挙げ句、茶菓子がないからちょっと待っててって、さっきからやつは2口コンロの前で砂糖を煮ている。練乳残ってて良かったよ。生クリームもさ、こないだパンケーキ焼いたときのちょうど残ってた。会話なのかひとりごとなのか、甘いものがゆっくりと煮詰まる雪平鍋を揺すりながらどこか嬉しそうにそいつは話し続ける。
    「大寿君、食べたことある? フランスではヌガーだけど、イギリスではバターファッジって言うんだって」
     案外簡単にできるんだ。少し深い大皿の上に雑に鍋の液体を流し入れながら、依然としてそいつは話をやめない。その下らないにもほどがある物言いに対して、俺はなんの言葉も発してない。イエスともノーとも答えていない。首を縦に振ることも横に振ることもしていない。固めた拳をその横顔に叩き込むことも。
     その児童文学なら知っている。かつて、柚葉が読んでいたのを覚えている。別に如何わしいものでもないのに、俺に隠れるように読んでいた。多分、部屋に揃っていたから八戒にも読み聞かせていたんじゃないかと思う。こいつが、妹たちにそうしていたように。
     年相応の児童文学。そんなことで怒らないのに。気がつけばあいつらは、俺の前で息を潜めるようになった。家族なのに、兄弟なのに。自分が悪いのはなんとなく分かる。でも、俺が躾なきゃこいつらを誰が導いてくれる? もう、カラメルを焦がして俺らにプリンを焼いてくれた、あの優しい母さんはいない。俺が、俺がこの家を支えなくてはいけない。愛する兄弟を正しく神のもとへと導かなければいけない。
     行き場のない苛立ちや悲しみはすべて拳へと変換された。拳をふるえばふるうほど、次第に柚葉も八戒も笑わなくなっていった。母がいた頃には確かにあったはずの甘く優しいものが、この家から跡形もなく消え失せてゆく。気がついていたが、どうしていいかわからなかった。俺は母のようにはなれない。俺には暴力しか、
    「まるでおんなじ材料でさ、生キャラメルもできるんだよ。生クリームがなけりゃタフィーにもなるし」
     三人兄弟の長男、片親、忙しい保護者。
     ごく似た境遇のはずなのに、こいつと俺はちっとも似ていない。
     躾に暴力は手っ取り早かった。例え痛い目に遭わせたとしても、心底愛していれば、きっと伝わると信じていた。
     結果、このザマだ。
     俺はどこでどう間違えたんだろう?
    「えいっ」
     懐かしいような甘い匂いの中でぼんやりしていたら、いきなり唇を抉じ開けられた。
     次の瞬間、ひどく甘いものが口の中に広がってゆく。
    「あ?」
    「旨くね?」
     目前に迫った、柔らかい笑顔。
    「大寿君、実は甘いもの嫌いじゃないっしょ?」
     してやったりと微笑む顔が、新しい言葉を紡ぐ。俺は固めたままの拳をそこにぶちこんだらいいか分からない。
    「……普段食わねえ」
    「でも、嫌いじゃないよね?」
     その問いかけに、返答できない。何も言わなければ、首を動かすことすらしなかった。なのに、こいつは自信満々に続けるのだ。
    「いつもより優しい顔してるよ」
     こめかみが熱い。
     視界がぼやける。
     屈託のないこの笑顔の前で、どうして俺はこんなに苦しいんだろう?

    「あ、歯にくっつくから噛まない方がいいよ」
    「……さきにいいやがれ」
     目の前の顔が爆笑した。

    sugar sugar
     砂糖というやつは総じてタチが悪い。
     最低限は摂取すべきである一日二、三度の食事とは違う。もともと甘い菜は好みじゃないし、好んで食わなきゃまるで食わないでも問題ない。なのに、不意に一度でも口にしちまったら最後、身体が勝手にもっと寄越せと宣いはじめやがる。

    「昨日、あいつらに焼いてやったんだけどちょっと作りすぎてさ」
     今日は主日。労働から離れて神を思い出す日。午前中には近所の教会のミサに参加して祈りを捧げた。普段は必ず確認する経済新聞も株価チャートもRSIも見ないで神だけを思う大切な日。
     なのに、どうして当たり前の顔でこんなやつが、俺の部屋にいるんだろう? 俺のテーブルに荷物を広げて、俺のソファーに我が物顔で座ってやがるんだろう?

    「大寿君ちやっべーね。俺タワマン入んのはじめてだわ」
    「……なんでテメエがここを知ってる?」
    「……何でだろうな」
     こいつは俺の質問には軽く笑うだけであまり答えない。住所の出所はまあ予測はつく。緊急連絡先として家を出るときにここの住所は置いてきているが、八戒が教えるはずはない。大方、柚葉だろう。どういう約束が交わされたかは知らないが。しかし、住所は教えてもオートロックの番号まで教えるだろうか? 幾らなんでもそんなものまで赤の他人に漏洩するほど、我が妹は軽薄でも軽率でもないだろう。本来なら、エントランスにすら入れる訳がないのだ。なのにこいつは普通の顔で呼び鈴を連打しやがった。
    「大寿君におやつ持ってきたって言ったらすぐに通してくれたよ」
     いつもエントランスで慇懃無礼な様子で佇んでいる如何にも実直そうな初老のコンシェルジュを思い出す。俺は思わず目の前の野郎の銀色のつむじを見つめる。あんな男ですら誑かされるのか。弟や妹のみならず、根本的にこいつ人たらしなんだろう。
    「大寿君、カップケーキ嫌いじゃないよね?」
     好きとか嫌いとか以前に、そう食った試しはない。所謂パティスリーの類いにはあまり置いてないし、菓子作りが得意だった母が作っていた記憶もない。
    「バニラとチョコ、どっちがいい?」
     俺の答えも聞かずにビニール袋からぞんざいに出されたそれらは途端に甘い匂いをさせる。すると、勝手に身体は訴えはじめる。この、甘くていい匂いのものが欲しい、と。
     しかし、菓子に罪はない。俺は無言で茶色い方を引ったくる。こいつは笑って言う。良かった、バニラも悪くねえけど、チョコの方が巧く出来たんだよ。生地もだけど、中に割った板チョコいっぱい混ぜてあるんだ。適当だったけど、これが結構アタリでさ。
     どうでもいい話など聞き流す。無言で、歯を立てる。茶色く柔らかい生地が口の中で爆ぜた。途端にチャンクで出てくるチョコレート。口の中に溶けるとひどく甘い匂いがした。
    「うまい?」
    「……あめえ」
    「知ってる? 美味いと甘いの語源は一緒なんだよ?」
     うざい物言いに何も返さない。だが、子供用に作られたそれは俺の舌には甘過ぎる。頭が痛くなるほど甘い。
     そのせいだ。深い意味なんてない。
    「え、大寿君、珈琲淹れてくれんの?」
    「……テメエのはついでだ」
    「わー豆から淹れる珈琲、俺はじめてかも」
     ありがとう大寿君。
     目の前の顔が、笑みに柔らかく崩れる。

     身体がこいつを、もっと寄越せとせがみはじめている。
     それに今日も気づかないふりをする。

    成人するまで待ってただけ 
     あ、これは案外酔っ払ってるっぽいな。俺のそんな冷静な判断も言葉も全部、目の前の大口開けたデカい猛獣に飲み込まれた。一息で。

     事の次第は何てことでもない。今日は数年前から恒例のようになっている飯と称したスイーツ店めぐりの日だった。先日、誕生日を迎えた俺に大寿君は恵比寿にあるちょっと良い店の旨い肉とミックスベリーのパフェを奢ってくれた。
    「これでお互い成人したんだし、今度は酒でも飲みにこーよー」
     そうやって笑ったら、目の前の男は相変わらず眉間に険を漂わせたままクリームのかたまりを飲み込んだ。このガタイで案外甘党なのにももう慣れた。最初の頃はクレープ食ってはパンケーキ食っては爆笑してたけど。クリームの食い方も随分うまくなったね。キレるから言わないけど。
    「……頼みたきゃ頼め」
    「ん?」
    「酒くらいメニューにあんだろ」
     いやいや大寿君、ここカフェだからね?
     苦笑いでメニューチラ見したら普通にあったんだよね、アルコール。俺たち以外はほぼ女子に埋め尽くされたこの店内で、日曜日のこんな爽やかな昼下がりに。クラフトビールにハイボールと白ワイン、簡単そうな幾つかのオールデイカクテル。
     誕生日の夜には東卍メンバーにしこたま飲まされた。ビールに始まり日本酒、焼酎、ウイスキーなどなど。その時によく分かったことがある。俺はおそらく種類を選ばず酒がすきだし案外強いようだ。現金なもんで、メニューにあると分かったら普通に欲しくなってしまう。時計を見るとまだ十五時にもなってない。しかし問題ない。なんせ俺らは昼から酒を飲んでも誰にも怒られない成人男性ですし。
    「えーマジで? じゃあ俺ハイボールがいい! つまみもいい? このチーズが溶けてるやつ食いたい!」
    「……もう好きにしやがれ」
    「せっかくだから大寿君も飲もうよ~」
     俺が上機嫌でそう誘うと、大寿君は右の眉だけ器用に吊り上げた。

     今日の大寿君、いつにも増して無口だな~。一時間くらい前の俺はそんな呑気なことを考えていた。ハイボール五杯ほどキメていたが極めて冷静なもんだったと思う。どうして大寿君ちに連れ込まれるのかな、みたいな疑問はそう強く感じなかった。だって、クレープのあとにパンケーキのあとに、大寿君のタワマンでまったりだらだら弟妹談義なんて別によくある話だから。いつもと違ったのはドアが開いた途端に壁ドンされたことくらいだろう。
     俺はその悔しいくらいにびくともしない胸や腕に拳をぶちこむことを一旦やめて、とりあえずその広すぎる背中に腕を回してみた。自分よりデカいやつとの喧嘩の仕方もいろいろあるけど、流石に喧嘩の前にキスなんかしない。よな? しかしこのウエイトの差はほんとどうしようもねえな。八戒も大概だけどこの背筋に胸筋。比にもならねえ。腹立つ。そもそもゼニアの黒シャツとか二十歳そこそこの野郎が着る服じゃねーし。右から見て左から見て正面から見上げても腹立つほど似合ってるけどさ。柔らかくて掴むとちょっとヌメるテクスチャーはもううっとりするくらいに最高。今日は違うけど、ふだん着てんのは俺が以前に仕立てたシャツとかなんだよね。似合うかなと思って作ってみたネイビーのボタンダウンシャツ。俺のなけなしの予算の中では頑張った方の生地だし、縫製も丁寧にしたから自信作ではあるけどさ。もう三年も着てくれてるよね。八戒もそうだけど、生まれ持っての金持ちゆえの執着の無さか、あんま物持ちいいイメージないのに。ごくシンプル。でもなにげにお洒落でセンス良くて、会う度に違うジャケットと靴と小物類。そんな中で、繰り返し見かけるこのシャツやクルーネックのプルオーバー、フリーダムスリーブのカットソーなどなどには大概が見覚えのあるパターンを敷かれている。つまるところ、全部俺の服。思いの外、凄く大事にされてるっぽい。採寸のときいつもそのうちサイズ合わなくなりそうとか思ってたけど流石の大寿君もこれ以上でかくならないらしい。
    「ん、う」
     しかし今も昔も大寿君が規格外なのは間違いない。舌もデカくて長くて、俺の口んなか大寿君のでほぼ埋め尽くされている。じんわり熱くて息が出来ない。思いの外よく動く舌先で上顎こすられて、なんか甘ったるい声が出ちまう。くすぐったい。キスなんて何人かの女の子とか東卍メンバーの悪ノリとかで知ってるには知ってるけど、大寿くんは慣れているのかも知れない。巧いのかも知れない。気持ちいいし。
     なんか肋骨のどっかがチクリと痛んだ。喧嘩もしてないのに、どうしてかな。
    「ん、ん、」
     大寿君の唾液からはアルコールの匂いがした。頼んでたのは白ワインだっけ? イタリアかどっかの軽いやつ。ひとくちもらったけど辛くて飲みやすくて美味しかった。大寿君もぐいぐいやってた。顔にはちっとも出てなかったから、強いと思ってたけど。
     アルコールの匂いと強すぎない整髪料の匂い。それ以外は全部大寿君の匂い。
    「……ふ、」
     大寿君は敬虔なクリスチャンだから。カソリックでは同性愛は大罪だから。デザイナーとしてまだまだ駆け出せてもいねー俺なんか、社長さんの大寿君に相応しくないから。
     だからたまにこうやって会って飯食って甘いもん食って、そんでいろんな話が出来るなら、もうそれだけで良かった。一時間前までは。 

     ぜってー逃がさねー。

     俺は大寿君のシャツのボタンを幾つか寛げると、その奥の逞しい身体にしがみついた。


    よるに、ふたり
     意外なくらいに食べ方は綺麗だ。
    「なにガンくれてやがる」
    「ん~? いつも美味しそうに食べてくれるなって」
     俺のそんな返答に対し、特に否定もしなければ肯定もしない。その代わりにスプーンに山盛り掬われたカレーが豪快に開かれたでっかい口に放り込まれる。ちっとも下品に見えないのはスプーンもフォークも箸も、その大きな掌や太い指先で正しく使用されているせいだろうか。口の中に食べ物がある時は絶対にしゃべらないせいだろうか。そう食べるのは早くない。ゆっくりと噛み砕いては飲み込んでゆくのに、ひとくちひとくちが大きいから皿の上はすぐにカラになってしまう。
    「おかわり食う?」
    「……おう」
     差し出されたカラの皿に米の一粒も残ってないのを見て、俺はいつも楽しくなる。だけど、今夜はちょっと勝手が違うのだ。

     カレー作ったから、食いに来ねえ?
     誘ったのは俺の方だった。そう珍しいことじゃない。俺んちの一番大きな鍋で山盛り作ったカレーとかおでんとか豚汁とか、食べきれないからって。そんな理由で一人暮らしの大寿君を呼ぶ。いつも通りに無口だけど、誘えば大抵いつも来てくれる。だから、大寿君も俺んちや俺の飯、俺の妹たちが嫌いって訳じゃないんだろう。ルナに抱きつかれてもマナによじ登られても眉間にシワ寄せるだけで怒ったりしない。ため息はつくけど。
     ただ、今日は母ちゃんが田舎の法事であいつらも連れて里帰りしてるから、ウチには俺しかいない。
    「……お前は食わねえのか」
    「ん、俺はもう腹いっぱいだし」
     コップに麦茶を注ぎながら言う。俺の皿はとっくにカラになっていて、いつもより腹は空いていないので嘘ではなかった。そうこうしているうちに大寿君は三杯目をおかわりする。
    「てかあいつらいねえのに、なんでこんな作りやがった」
    「だって、カレーってデカい鍋でいっぱい作ったほうが旨いじゃん? 別に明日も食えばいいし、残ったら冷凍しとけばいいし」
    「……小鍋でも大鍋でもそう変わんねえだろうが」
    「いやいや全然違うって! 小鍋で作ってもなんか旨くねーもん!」
     俺はともかく、大寿君には明らかにサイズの合ってないちゃぶ台に向かい合わせに座りながら、そんなどうでもいい会話をする。いつも通りなのに、なんかぎこちない。だって、食後は大抵大寿君におんぶにだっこのあいつらもいないし、どんなに待っても今夜は母ちゃんが帰ってこない。何時になったって、この部屋には俺らふたりしかいないのだ。
     家事が嫌な訳じゃない。だけど、何もしないで己の世話だけしてりゃいい夜なんて、そんな沢山あるわけじゃない。母ちゃんも今日くらいは何もせずにゆっくりしてねって言ってくれた。なのに、ごめん母ちゃん。一人ぼっちが寂しいって齢でもねえのに、俺は迷いなく鍋いっぱいのカレーを口実に目の前のデカい男を部屋に連れ込んでる。いつになく緊張しながら。

    「大寿君、緑茶でいい? コーヒーもあるよ。インスタントだけど」
     俺は皿を片付けながら聞く。山盛り四杯平らげても、今夜の大寿君は足を崩さない。いつもなら率先して片づけを手伝ってくれたり、ルナマナを見ててくれたりしてくれるけど、今夜はどちらでもなくて。
    「いや、もう帰る」
     そしてその違和感はすぐに的中する。突然の言葉に、俺は思わず振り返る。そこには既に立ち上がって今にも踵を返そうとしている大寿君がいる。
    「え、なんで?」
    「……なんでもクソも、もう遅えだろうが」
    「まだ八時だよ? 全然遅くなくねえ? てか、泊まってきゃいいじゃん」
     誰もいねえんだし、とはなんとなく言えない。でも、伝わってると思う。
     大寿君は呆れたような口調で返してきた。
    「たまにはゆっくりしろよ。こんな日にまで俺の世話なんて焼いてんじゃねえ」
     まるで母ちゃんみたいな台詞を吐く大寿君に、俺は思わず駆け寄って食い下がる。
    「え、待ってよ。食うだけ食って帰んのかよ?」
    「洗い物だけやって帰る。お前は休んでろ」
    「てか、俺ら付き合ってんだよね!?」
     大声が出てしまった。
     一度、口にしてしまった言葉は引っ込みがつかない。目の前の男が言葉を失う。俺はそれを睨み付けることしかできない。ああ、とうとう言っちまった。だけど、俺はきっと悪くない。命懸けで好きって言ったら同じ言葉が返ってきた日からもう半年も経過している。
    「俺、なんか勘違いしてる?」
     俺はもっと側にいたい。触りたいし、触ってほしい。
     キスだってセックスだってしたいんだよ。俺の言った「好き」ってそういう意味だよ?
     大寿君のそれは違うの?
     食ってかかりたいのに言葉が出ない。目の前の男は押し黙ったままだ。こんなの泣くようなことじゃない。なのに、視界は勝手に水を含んでぼやける。

     さっきまでそれなりに賑やかだった部屋はしんと静まり返って、時計の音しか聞こえない。
    「三ツ谷」
     沈黙に耐えかねたのか、大寿君の声が俺を呼ぶ。だけど、顔を上げることができない。
    「……ごめん、帰っていいよ」
     涙声になってしまった。古い畳が俺のせいで余計に汚れてしまっている。なんでこんなことで泣いてんだ? だっせえな、俺。もうなんか開き直って、思い切りぶん殴った方がいいかもしれない。少しは気が済むかもしれない。俺の心を弄びやがって。大寿、やっぱりテメエはクソ野郎だ。
    「三ツ谷、顔を上げろ」
     こんな時ばっか優しい声出してんじゃねえ。もう騙されねえぞ。ふざけんな。
    「三ツ谷、テメエは間違ってねえ」
     俺を呼ぶ三回目の声が聞こえると共に、腕も足も動かなくなる。
     視界が急に奪われて、思わず顔を上げた瞬間に息も出来なくなった。びっくりして、開きっぱなしだった口の中に舌を突っ込まれた。
     そのまま口の中を掻き回される。
     苦しい。時々、歯も当たる。多分、ヘタだと思う。俺もするの初めてだけど。
    「……容赦しねえぞ」
     ヘタクソなキスの合間に聞こえた大寿君の声がいつもより掠れてて、心音もクッソ早くて、俺は思わず吹き出してしまった。

    「俺もしねえよ?」
     広い背中に腕を回す。
     そして、腹いっぱいになるまで大寿君の匂いを吸い込むと、思う存分ふたりきりの夜をねだることにした。

    クレープのおいしい食べ方
     リビングのソファーの上に放りっぱなしにされていた八戒の携帯電話。俺はそこで、初めてこいつの顔を拝んだんだった。開いたディスプレイに映し出されていた明らかに隠し撮りらしい横顔は、笑っても怒ってもおらず、ただ無心に前を見つめていた。
     その時に覚えた感情は、相手の姿かたちに対する感想なんてものではなく、己の弟が同性の誰かに懸想しているらしいという胸糞悪い不快感のみだった。顔を殴ると柚葉が煩い。俺は八戒の腹を蹴り飛ばすと、目の前で携帯電話を破壊してやった。いつもの通りに拳のひとつも返すこと泣く情けなく泣きやがる弟が呟く「たかちゃん」という呼び名だけが妙に耳に残っていた。

    「大寿君、決まった?」
     こんなに選択肢あると流石に迷うよね、などと呟いて、メニューと俺の顔を交互に見ては笑う。その笑顔はどこか困ったような苦さを含みながらも嬉しさを隠し切れていない。随分と器用に動く表情筋だ。 最初の印象とは違って、三ツ谷隆という男は随分と表情豊かな男だ。
    「俺は何でもいい」
    「それじゃ注文にならないじゃん。甘いのにする? 食事系もあるよ」
    「テメエと同じでいい」
     そう返すと、こちらを見上げていた眼が少し丸くなる。そして「ほんと面白いよね大寿君」とかなんとかほざいて、笑う。何だか知らないが、こいつはとにかくよく笑う。箸が転がっても笑うなんていう慣用句は本来なら若い女を指す言葉らしいが、こいつを見てるとよく思い出してしまう。食い物を見て猫を見て犬を見て、目の前の風景を眺めて、俺を見上げては笑う。
    「あー、でも別のにしようよ。ひと口あげるからさ」
    「あ?」
    「だから俺にもちょうだい」
     こいつは当たり前に自分の食いかけを寄こそうとするし、俺の食いかけも欲しいらしい。それなら最初から自分用に二枚買いやがれ。どれだけ食い意地が張ってやがるんだ。俺から言わせれば、こいつの方がよっぽど滑稽でおかしい。
     去年の聖夜には比喩表現ではなく、本当に殺そうと思って、その顔に腹にと拳をぶち込んだ。
     弟を誑かした悪魔。
     当たり前のようにこいつとやたら甘ったるい匂いのクレープ屋の前で、俺は一体なにをしている? 当たり前の顔で俺の腕を引きながら、こいつは一体何を考えている?
     どうして俺はこいつを不快に思うことも、かつては確かに感じていたはずの嫌悪すらも抱けないのだろう?

     結局、クレープは二枚ともこいつが選ぶことになった。
    「俺いちごWクリームメインで食いたいから大寿君はアップルシナモンビスケットでいい?」
    「……好きにしろよ。何なら二枚とも食え」
    「え、やだよ。一緒に食ってよ。甘いの嫌いじゃないくせに」
     普段なら問答無用にド突きたくなるような言い草だ。だが、どうせこいつに幾ら拳を振るったところでもう当たらない。巧く避けられるのが関の山だ。無駄なことはしない。俺は今日もそうやって、こいつをド突かない言い訳をする。そんな自分が不愉快で、俺は紙を引きちぎるとクレープに噛り付く。途端に、甘く煮られたリンゴとカスタードが口の中になだれ込んできた。知ってる味よりも幾分か甘ったるい。だが懐かしい匂いがした。
    「ちょ、ひとくちで半分って」
     何がそんなにおかしいのか、こいつはまた笑う。これじゃ俺の分、全然残んないじゃんなんて呟きながらこっちを指さして笑う。本当に失礼な奴だ。思わず拳を固めるが、それを振り下ろす気にはまた今日もなれない。
    「八戒も好きなんだよ。アップルシナモン」
    「……知ってる」
     バニラアイスにかけたりトーストに乗せたりパイで包んだり、アレンジの利くリンゴの甘露煮は母親がよく作っていたから。
     俺ら兄弟にも、当たり前に甘いものを分け合えていた頃が確かにあったのだ。
    「やっぱ兄弟だよね」
     そのしたり顔が気に食わない。どんなに憎まれ遠退いたところで、同じものを食べて育った俺たちの味覚が似ていて当然だろう。あいつの好きなものは俺も好きで当然とでも言いたいのか。
     八戒の好きなもの。
     今も八戒の待ち受けにはこいつがいるんだろうか?
     こいつと俺が会っていることを、八戒が知ったら嫌がるに決まってる。なのに、どうしてこいつの掌はいつも迷いがないんだろう?

    「大寿君」
    「ああ?」
     急に呼ばれて、振り返るとそこには携帯電話をこちらに向けている三ツ谷がいた。何してやがる、と問いかける間もなくシャッター音が聞こえる。
    「やべえ、大寿君かわいい~」
     そして、一人でまた爆笑を始める。目に涙まで溜めて、耳まで赤くして。終いには噎せ込んでしまった。本当にふざけた男だ。腹立たしくて、その手から問答無用に携帯電話を奪う。
     ディスプレイには口元にクリーム付けた俺の間抜け面が映っていた。
    「ちょ、返してよ」
    「消す」
    「やめてやめてカメラ立ち上げんのも苦労したんだから!」
     訳のわからないことを言いながら、今度は子供じみたふくれっ面を晒す。めまぐるしいくらいにくるくると変わる表情。こいつ、あいつの兄貴分なんじゃなかったのか。俺の前ではこんなガキみたいなくせして。昔のようにこんなもんぶっ壊してしまえばいいのに。また、今日もできない。
     呆れるくらいの素早さで俺の手の中から携帯電話を奪い返すと、三ツ谷隆は朗らかに笑ってこう宣った。
    「なあ大寿君、待ち受けってどうやって設定すんの?」

    「八戒と柚葉にも送ってやろっと」
    「殺すぞ」
     そして、俺たちの何とも言えないこの奇妙な関係も、割とあっさりあいつらにバレるのであった。


    ソナチネの指
     なんか、ライオンの檻にでも迷い込んじまった気分っつーか、いや違うな、居心地のよい場所でうたた寝してたら実はそこはライオンの檻の中だった、が正しいな。
     俺は身動きひとつ取れない状態で、妙に冷静に今の己の状態を分析する。見えるのはコンクリートの天井とほとんどピントも合わないくらい近くにチラつく青い鬣。聞こえるのは想像よりもずっと静かな息遣いと、想像通りの大きな心音。なんだかやたらと速くて、ごく近くでバスドラムを聴いてるような心地。結構、潔癖なことくらいはもう知ってる。何もかも大きくてけだものみたいなくせにどこもかしこも清潔ないい匂い。そして身体中はそんなけだものにのし掛かられて満遍なく重く苦しく、あっちこっちがくすぐったかった。

     三年くらい前の出来事を思い出す。俺はまだ十五歳で、中学三年生で、東京卍會二番隊隊長で、手芸部部長だった。フリマに出品する作品が部員分全員なんとか出揃って、その確認を全て終えた時に家庭科室の窓の外はすっかり真っ黒だった。今日は母ちゃんが非番の日だし集会もない。そして目下の部の目標であったことが無事達成できそうで、俺は安堵と解放感に包まれてかなり気が緩んでいたんだと思う。
    「ん……ん?」
     肩が、背中が重い。その違和感にふと覚醒すると、途端に五感が鮮明になる。机に臥せっているせいで視界はまだ真っ暗だが、なんだか汗臭い。耳元に湿った感触と繰り返される荒く低い息だけの声。布の上を這い回る生暖かい何か。みつやくん、みつやくん、みつ、三回目が聞こえる前にはその脇腹にエルボーを、怯んだ隙にその鼻に拳を叩き込んだ。ひいっと声を上げて呆気なく家庭科室の床に転がったのは見覚えのあるやつだった。隣のクラスの口も聞いたこともない野郎だった。
    「テメエ、」
    「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
     そいつはこっちが口を開く前に妙に甲高い声でひたすら謝り倒すと、ほとんど転げ回るようにして家庭科室を出ていった。
     あまりにも一方的で、あまりにも身勝手で、あまりにも一瞬の出来事。
     俺は少し放心した。しかし、静まり返った風のない部屋の中で首筋だけが妙にスースーしてて、思わず手をやるとそこはぬるり、と濡れていた。流石に血の気が引いて吐き気がした。思わずシンクに頭を突っ込むと、そのまま水を被った。あいつは眠っている俺にどこまでのことをしやがったんだろう? 想像がつかなくて、ひたすら不愉快で、俺は頭痛がするまで水を被り続けた。思い出すだけでも吐き気が甦る思い出である。
     その時に知ったこと。幾ら疲れていたとしても中学校の校舎で眠るとロクな目に遇いかねない。俺みたいな坊主頭の野郎にでも欲情する輩はいる。そして、人の寝込みを襲うやつなんて漏れなくクソ野郎でしかない。

     その後、別段シメることもないままそいつとは二度と口を利かずに卒業し、俺はそのままデザインの高専に進んだ。どうせ行くならレベルの高いところをと選んだ学校の厳しいカリキュラムの中で慌ただしく日々は続いていった。ぶっちゃけ俺が東卍で過ごしたあのかけ替えのない日々と数限りのない思い出を思えば本当に文字通りクソでしかない出来事だった。だから思い返すこともほぼ無かったように思う。今のこのタイミングで思い出すのも少し申し訳ない気すらする。眠っている俺を抱き締めて、息を潜めるように静かにしている美しいけだもの。
     慈悲深き天なる父よ、、、私は日々に感謝を捧げ、、、願わくば、、、私の罪を、お赦しください。
     俺の左耳に吹き込まれたのは途切れ途切れの懺悔だった。最初は意味が分からなくて。でも、寝たふりを続けながらふと思い当たる。もしかして、俺の十字架に懺悔をしているのか。叶わぬ祈りを捧げるように、そこには何度も苦しいような息がかかる。
     だけどさ、大寿君。
     寝込みを襲うやつは、俺はやっぱ総じてクソ野郎だと思うんだよ。

    「好きに使え」
     まるで何でもない事のように言って、大寿君が俺にこの部屋のカードキーを差し出してきた時は流石に驚いた。
    「や、大寿君、そんな簡単に他人に合鍵なんか渡しちゃ駄目だよ」
    「俺がいないと外で待ってるだろ。めんどくせえ」
    「いやいやいや俺が悪いことするかもしんないじゃん」
    「しねえだろ」
     あっさり投げられたそれを受け取ることしか出来なかった日からもう一年か。以前ほどルナもマナも手がかからなくなり母ちゃんも家にいられる時間が増えたというのもあるし、実家より高専から近いってのもあるけど、当たり前のようにこの部屋に入り浸っている己が恐ろしい。大寿君の部屋は大寿君本人にどこか似ていた。でかくてシンプルで、お洒落で潔癖。殺風景で静か。なんとなくここに出汁の匂いとかカレーの匂いとかさせてみたくて、いろいろ作って無理矢理パーティーをするようになった。最初は鬱陶しがってたけど、餌付けが成功したのか最近は献立をリクエストされることだってある。そんな風に、最近では一番側に居る仲の良い友達だと思っていた。他人の好意に胡座をかいてるからこんなことになるんだ。こんなことに、
    「三ツ谷」
     気がついたのはいつだったか。その指先が俺の襟足の髪を鋤いた時だろうか、そのまま輪郭をなぞるように頬を撫でた時だったか、それとも息を確かめるように唇に指の腹が押し当てられた時かもしれない。大寿君の指は乾いてて、さらさらと心地が良い。だから目を開くタイミングを失ってしまったのだ。鼻先をつついて、睫毛に、瞼にと移ってゆく指先。耳朶を触られるのはくすぐったくて、小さく息をついた。
    「三ツ谷」
     俺を呼ぶ声。あの時は三回目でエルボー入れたっけ。あの時の、あれほど気持ちの悪かった感触を思い出そうとする。あの鳥肌が立つような記憶。同じようなことをされている。あいつと一緒で、大寿君はクソ野郎だ。抱き締めてくる腕がこれほど優しくても。いい匂いがしても。

    「いつまで寝たふりをしてるつもりだ、三ツ谷」
     そして俺は思い知らされるのだ。
     その背に腕を回すこともしないで、嘘をついたまま男の指を待っているやつ。そいつも同じくクソ野郎だってことを。

    マフラー
     聖夜から十二日後。主の公現の祭日に当たる一月六日。宇田川キリスト教会の礼拝堂に柴大寿の姿があった。

     起きよ、光を放て……あなたを照らす光は昇り、 主の栄光はあなたの上に輝く……
     集う人々の小さな祈りの声がする。ごく静かだが、大寿の声も確かに響いていた。その横顔は十二日前のあの夜とは別人のように静謐としている。クリスチャンにとって古の祝日に当たる今日だが、彼を含め人影は日曜のミサに比べればそう多くない。この日を正しい祝日としない日本では、公現祭は今日に当たらず次の日曜日に開かれるためだ。今年は八日のこと。この教会でも細やかながら祝祭は行われ、リーフ模様のついた手作りの焼き菓子が振る舞われる。アーモンドクリームの挟まった素朴な甘さのガレットが悪くないことくらいよく知っているが、祝祭は雑念がやたら目に付いてしまうのでそう好きではない。だからここ数年は暦通りの今日に訪れると決めている。
     人々がそれぞれに祈りを捧げてそれぞれに去ってゆく。大寿もまた例に漏れず福音の朗読を始める。彼は礼拝を愛していた。今も昔も心の休まる唯一の時間だ。
     そんな彼の耳に聞き覚えのある音がかすめた。
     ウォンウォウォ、ウォンウォウォ、ウォンウォンウォンウォウォ……
     バイクの直管マフラーの立てる耳障りな騒音。
     俗にコールと呼ばれるもの。
     徐々に近づいてくる静けさとは程遠いそれに、なんとなく嫌な予感がした。あまり思い出したくない風景がそのまま甦って、穏やかな時間が急速に遠退く。舌打ちのひとつでもしたい気分であったが、それでも福音のすべてを口にするまで大寿はそこから立ち上がろうとはしなかった。

    「あれ、大寿君じゃん偶然だね」
     予感的中。
     階段の真下で待ち構えるように立っている男に見覚えがあった。
     三ツ谷隆。東京卍會二番隊隊長。弟を誑かした悪魔だと思っていたが、家を出て家族と離れた今となってはもうどうでもいいことだ。あの夜に八戒は変わった。もう心配はない。
    「平日なのに結構人多いね。今日なんかの日なの?」
     だが、見たい顔か見たくない顔かと言われたら、まあ後者だろう。大寿は勝手に何やら話している相手を無視するように歩き出した。
    「ちょ、無視は酷くない? せっかくだし話そうよ」
     背後から聞こえる声には笑いが籠められていた。オレとお前で何を話すことがあるというのか。振り向き様に思いきりド突いてやろうかとも思ったがそれも面倒くさい。
     そもそも、明らかなくらいに待ち伏せしていただろうがテメエ。柚葉辺りから情報が漏れたか。一体、何をたくらんでやがる?
    「ねえ、もしかしてそのマフラーさ、ジョシュアエリスの新作じゃね?」
     いつの間にか大寿の前に猫のように滑り込んできた男は、遠慮もなく大寿の首もとに手を掛けてきた。流石にド突いてもいいだろう。しかし、振りかざした拳は軽く避けられてしまった。
    「もう大寿君のパンチは見切ったし」
     間髪いれずにもう一発見舞おうとするがやはり空を切るだけだった。掠りもしないことに苛立つ。もう一発は肘で止められてしまった。こいつといい佐野といい、チビの癖にどんな身体構造してやがるんだ。
    「いつも良いもの持ってるよね。手触りからして違うな~あったけ~」 
     大寿の苛立ちなど物ともせずに、三ツ谷はどこかうっとりと大寿のマフラーを撫でている。一月上旬の薄曇りの空の真下、オーバーサイズ気味のスカジャンとトレーナーという飾り気のない格好。流石に手袋はボトムのポケットに突っ込まれているようだが、こんな薄着でバイク飛ばしてきたのか。何のために?
     マフラーひとつ巻いていない三ツ谷のほっそりと長く白い首は見るからに寒々としていた。
     大寿は乱雑に己の首からマフラーを抜き取る。そして、
    「やるから消えろ」
     三ツ谷の首に雑にそれをぐるぐると巻いた。
    「え……はあ?」
    「ふん、似合ってんじゃねえか」
     流石に言葉を失う三ツ谷に少し溜飲を下げた気分になった。立ち尽くす相手をいいことに、そのまますぐに流しのタクシーを拾う。
    「ちょ、待ってよ大寿君!」
     タクシーに乗り込みながら、やっと我に返ったらしい三ツ谷の大声を聞くと、大寿は久しぶりに笑い出したい気分になった。

    「お客さん、なんか着いてきてますけど」
     初老のタクシーの運転手が恐る恐る呟く。
     振り替えるまでもなく、もう覚えてしまったインパルスのコール音が大寿の耳にも届いた。
    「振り切れ、金なら出す」
     妙に楽しげな様子で言う強面の客に、運転手は小さくうなずくとアクセルを踏み込んだ。

    解熱剤 集会の前に八戒から「昨日、大寿出てったんだよ」と聞いた時、オレは特になにも考えずに「おう、よかったな」と返した。

    「うん、そうだよね。よかった」
     オレの返事を聞くと八戒は笑った。薄暗いことを差し引いても、よく知ってる屈託のない顔とは言い辛い顔だ。どこかすっきりしない。身体のどこかに痛い部分を隠したような。
     オレは自分がついさっき安易に吐き出した答えを少し後悔した。そんな簡単なことじゃないと分かってる。それでも、弟分やその姉を長く苦しめるだけだった存在があの家から去ったなら、それは悪いことじゃない。
     急に胸がざわめいた。自分の言った言葉を反芻する。よかったな、あいつが出ていって。よかったな、あいつが家からいなくなって。よかったな、たったひとりの本当の兄貴がいなくなって。
    「そうだよ。これでよかったんだ。せいせいした」
     八戒が笑う。泣きそうな顔で笑う。
     その顔を見ながら、オレはもう何も言えなかった。ただ、どこもかしこも似ていないこいつのたったひとりの兄貴のことを思った。
     あの男と、柴大寿とちゃんと話がしたいと強く思ったんだ。

    「やっと見つけた……」
     オレは相棒のインパルスを停車すると、目の前に聳え立つマンションを見つめる。柚葉に聞いた新しい住所っていうタワマンは暇がある度に通ってみたけどあのデカい背中は全く見かけなかった。宇田川キリスト教会のミサに通いつめてようやくその青い鬣を発見したが無視されては逃げられた。都心のやたらドラテクの優秀なタクシーとの壮絶なカーチェイス(オレはバイクだが)を繰り返すこと3回目にして、やっと居場所を突き止めることができたのだ。
     しかし、
    「……ほんとにここ……か?」
     思わず首をかしげる。柚葉に聞いたタワマンは高層過ぎて首が痛くなるくらいだった。でも、今日確かにあの男が消えていったこのマンションは六階建てで首はそう痛くない。オレんちよりはまあ綺麗だけど、そんなに真新しい建物にも見えない。オートロックは付いてるっぽいしエレベーターもありそうだけど階段は手すりが低くて外から丸見えだ。大寿君なんかめちゃくちゃ目立つだろう。チラ見したベランダは狭くて、あちこちに洗濯物が風に泳いでるのが見えた。如何にも単身者向けに見える。ごく一般的というか……本当にあの男はここで暮らしているのだろうか? 作り付けの小さいキッチンで飯を作り、狭い浴槽に身を縮めるようにして風呂に入り、あのデカい手で洗濯物をベランダに干している姿を想像しようとしたら頭痛がした。寒気もした。
    「ぶえっくしょん」
     おっさんのようなくしゃみが数回。寒い。くらくらする。薄着でバイク飛ばしたせいだろうか? 頭が痛過ぎるのは変な妄想のせいではなさそうだ。仕方ねえけど今日のところは撤退かな。そう呟いて踵を返そうとした。
     が、できなかった。
    「あ、れ?」
     膝から力が抜けてゆく。踏みしめている地面が水を吸ったスポンジのように心もとない。直立できない。あ、目が回る、そらのいろ、やべ、コンクリ、の上は、せめて、ここじゃなくて、どこ、か、
     詳しくは覚えていないが、その辺でオレの意識は途切れたらしい。

     まるで水の中から浮き上がるように、ふと意識が浮上する。口の中がやたらと苦くて熱くて、長いトンネルを突っ切った時みたくキンキンと耳鳴りがした。だけど、この布団はあったかい。ふかふか軽くて肌触りがよくて、なんか清潔な匂いがする。頭はまだ痛いようだ。火照る額には冷たいなにかが乗せられていて、それが気持ちいい。
    「動けるなら今すぐ帰れ」
     そんな辛辣な声がする。辛うじて開くことが出来た瞼の向こうには仁王像のような形相がこちらを向いていた。驚くほど整った顔立ちと眉間に走る血管には見覚えがある。
    「た、じゅく、」
     思わず咳き込む。声が掠れてロクに出ない。喉が痛い。大寿君は舌打ちする。
    「飲めるなら飲んどけ」
     差し出されたのはスポーツドリンクのペットボトル。途端に喉が渇きを訴える。ありがたく受け取るが蓋が回らない。大寿君はまた舌打ちすると、オレの手からペットボトルを奪い取って蓋を空けてくれた。
     ひんやりと甘い液体がオレの舌の上の苦いものを流してくれて、少しホッとする。
    「解熱剤が効いたら帰れよ」
     大寿君の声は依然として冷たい。だが、オレは現状から幾つかのことを判断する。オレはおそらくマンションの前の植え込みに倒れた。コンクリの上よりかはマシだと思ったのを微かに覚えているから、多分。口は悪いけど、大寿君はそんなオレを助けてくれたんだろう。救急車でも呼べばよかったのに。
    「ごめ、むり」
     今はまだとてもじゃないけど起き上がれない。大寿君はまた舌打ちをした。ほんとに図々しいなテメエは、そんなことを呟きながらもオレの額に手を当てる。
    「次に目が覚めたら帰れよ。鍵はポストにでも入れとけ」
     耳鳴りの合間にそんな声が聞こえた。オレはまるで促されるみたいに再び意識を失った。 

     次に目が覚めた時には日が暮れていたけど、なんとか熱は下がっていた。部屋の中にはもう大寿君の姿は見つからない。気配もない。ベッドボードには解熱鎮痛剤の箱が飲みかけのペットボトルと一緒に置いてある。いつの間にか飲んでいたらしいそれが効いたんだと思う。なんとか動ける。オレは布団から這い出すと、まだどこかぎくしゃくとしている身体を引きずってベッドを出る。
     その部屋の間取りは想像していたものよりは広かった。それでも小さなリビングがあってキッチンがあって、ベッドばかりが大きな寝室がひとつ付いているだけのシンプルな1LDKのようだ。大寿君はここを普段使いしてるのだろうか? 壁に置かれたチェストの上には小さな祭壇があって、キリストの像が刻まれた十字架があって、マリア像と一緒に小さな写真立てがある。伏せられたそれを見るのは気が引けたけど、好奇心に勝てなかった。優しそうな表情の女性がいる。少しだけ八戒に似てると思った。それだけ確認して、元通りにしておく。
     鞄もスカジャンもリビングのソファーの上に置いてあった。オレは携帯を取り出して時間を見る。十七時二十一分。もう帰らないと。
     鍵はキッチンのテーブルの上に置いてあった。そのすぐそばに飲みかけの珈琲が入ったマグカップが置きっぱなしになってたから、なんとなくそれを洗う。
     ああ、そうか。
     だから、オレの口の中はあんな苦かったんだな。
     納得して、なんとなく居心地が悪くなる。そんな自分を無視してオレは部屋を出ることにした。近いうちに、必ずまた来よう。

    恋人たちのクリスマス
     この曲さあ、毎年この時期になるとかかるよね。それこそ街中でさ、12月になると聞かない日はないんじゃねーのってくらいに。
     ん、いや、嫌いとかじゃないよ? 別にテレビ消さなくていいからね? ただ、オレこの曲聞くとさ、思い出すんだよね。大寿君と出会った、あの年のクリスマスのこと。
     初対面が休戦協定成立の時だったよね? そこからクリスマスまで、オレなんか知んないけどやたらこの曲をあちこちで聞いたんだよ。スーパーとかコンビニとか、部活の時に後輩がかけたりとかもしてた。別に普段はそこらでかかってる曲なんて気にしないのに、なんかやたら耳に残ってた。歌詞の意味とか全然知らないし、歌ってる人も何となくでしか知らない。タイトルも知らなかったくらい。でも何度も耳にするから、気がつくと口ずさんでたり。
     あの年のクリスマスは日曜日で、ルナとマナとホットケーキミックス使ってパンケーキいっぱい焼いて。クリーム挟んで重ねて、苺乗っけてクリスマスケーキみたいにしたら、あいつら大喜びでさ。つけっぱなしにしてたテレビから、やっぱりこの曲が流れて。
     そんな時に、千冬から連絡が入った。
     だから、この曲聞くと思い出すんだよね。オレ、最初は大寿君のことほんと敵としか思ってなかった。大寿君のこと八戒と柚葉からしか聞いてなかったってのもあるけど。なんならすげえ嫌いだったし、最低の兄貴だって軽蔑もしてたくらい。
     毎年十二月になると思い出すよ。この曲がかかる度に、毎年つい思い返しちまう。最初はね、オレはあんたのことが大嫌いだったの。八戒が出来ないならオレがぶっ飛ばしてやるクソヤローって、バイク飛ばして教会に向かった。

    「……で?」
    「ん?」
    「そんな話をオレに聞かせてどうするつもりだ?」
     十二月二十四日。
     都内に数店舗の飲食店を経営するオーナーと新進気鋭のファッションデザイナーが恋人という関係を持つようになってもう十年近くが経過しようとしていた。互いに目が回るほど多忙な日々を送っている。師走となればなおのことだ。一緒に暮らすようになって三年目の冬になるが、イヴに共に過ごすのだって決して定番ではない。去年もおととしも仕事で一緒にはいられなかった。それに零時になれば敬虔なクリスチャンである大寿は礼拝に行ってしまう。今年は珍しく休みが重なったのもあり、それまでは一緒にいてと三ツ谷がねだったのだ。
     スマートフォンの電源を切って、食事もそこそこに昼からゆっくりと時間をかけて何度も抱き合った。久しぶりというのもあって性急な場面も度々あったが、ごく幸福な時間である。それ故に、なんとなくつけたテレビから流れてきた定番のクリスマスソングを耳にして、少し気だるげにしていた恋人が話し出した話は大寿を少しだけ不愉快にさせた。
    「いや、別にどってことない話だけどさ」
     ただ、思い出したから話しただけ。そう笑う三ツ谷にそれ以上なにも言うことはなかった。大寿はボックスから煙草を一本取り出すと、手元もろくに見ずにオイルライターを擦った。青とオレンジ色の火が上がる。軽く吸い込むと、軽い眩暈を覚える。そして、そう旨くもない紫煙を吐き出す。例え深い意味はなくとも、今は最愛の恋人に「かつては嫌いだった」と言われて嬉しいわけがない。
    「その一年後の十二月に、なんとなく歌詞を調べたらちょっと驚いたな」
     まだ三ツ谷の話は終わってなかったらしい。聞き流してしまおうと思った。大寿は特に返答もしなかった。
    「オレの気持ちそのまんまだったんだよね」
     その途端、聞き流そうとしていたクリスマスソングが、やけにはっきりと響き出した気がした。

     クリスマスに多くは望まない
     欲しいものは1つだけ
     ツリーの下のプレゼントなんてどうでもいい

    「凄いよね、一年前はあんなに嫌いだったのにさ」
     少し照れるように笑って三ツ谷は続ける。
    「あんな始まりだったのに、大寿君のこと神様にも渡したくないってくらいに好きになってたんだ」

     大寿は何も言わずに煙草を揉み消すと、テレビの電源も消した。そんな恋人の顔を覗き込んで、三ツ谷は笑う。
    「あれ、不機嫌になっちゃった?」
     無表情に近いが、知っている。これは拗ねた時の顔。
     大寿は返事をしない。
    「でもさ、大寿君だって最初はオレのこと嫌いだったでしょ?」
     目の前の小悪魔のような微笑みを問答無用にシーツに押し付けると、大寿はその首筋に思い切り噛みついた。
     いってえ! と声が上がるのと同時に、息だけの声でささやく。
    「……ねえな」
    「え、」
    「オレがお前を嫌いだったことなんて、一度もねえ」
      
    「ちょ、それってど……んむ」
     次の問いかけが飛んでくる前に、大寿はよくしゃべる恋人の唇を己のそれで塞いだ。 


    アリとカブトムシ
     蟻は自分の体重の五百倍の重さのものを運ぶことができるらしい。
     こないだルナとマナと一緒に見てた教育番組でやってた。確か、俺が子供の頃にも図鑑か何かで同じような話を見たことがある。その時の例はカブトムシだった気がするが、まあ昆虫あるあるネタなのかもしれない。そう蟻だろうがカブトムシだろうが大した問題じゃない。現在において大問題なのは、俺が蟻でもカブトムシでもないのに体重が俺の倍くらいありそうな男を寝室まで引きずっていかなくてはいけないということ。

     日曜日の昼下がり。「ひまか」なんて何時にも増して簡単で漢字変換すらされていない雑なメッセージが届いたから、なんか嫌な予感はしたんだ。今日はかあちゃんがあいつらを見ててくれるし、特に急ぎの用事もなかったからすぐ「暇だよ」とだけ返したけど、それに対する返答は一時間待っても帰ってこなかった。いつもなら内容は雑でも返信は迅速なのに珍しい。なんとなく「なんかあった?」と追撃を投げてみたがやっぱり返信はない。違和感が三つに積み上がったところでインパルスを飛ばして部屋までやってきた訳である。
     借りっぱなしになってるけど使っていいのか悩んでいた合鍵を今日初めて使った。恐る恐る中に入るとすぐに嫌な予感は的中した。だだっ広いキッチンの床暖も効いていない冷え切ったフローリングの真ん中で蹲っている大男を発見してしまったのだ。
    「ちょ、大丈夫大寿君!?」
     声を掛けたら大きな背中がぴくりと動いた。良かった生きてる。思わず駆け寄ってその顔を覗き込むと、いつも険しい眉間がいつにも増して険しい。閉じた目は名前を呼んでも開かないし、微かだが睫毛に涙が滲んでいるようにも見えた。呼吸は手負いの獣の如く荒く、ほとんど肩で息をしている。
    「ごめん、触るよ」
     確認して触れた額はじっとりと汗ばんでいて熱く、いつも見慣れた肌より薄赤く見えた。よく見れば、部屋着からはみ出している肌のほとんどが火照って上気したようになっている。
    「大寿君、どこか痛い? 熱は測った?」
     案の定、返答はない。かなり汗をかいているようだが、見たところ外傷があるようには見えなかった。身体の反応を見る限りこちらの声が全く聞こえてないわけじゃなさそうだった。ふと顔を上げるとキッチンのテーブルに半分ほど中身の入った水のペットボトルと市販の解熱鎮痛薬の箱が散らばっている。二錠分くらい空になったシート。どうやら飲んだあと力尽きたっぽい。
    「大寿君、俺に摑まれる? 立てる?」
     やはり、返答はない。外気で冷え切っていた俺の手が心地いいのか、額を擦り付けるような動きをする。かわいい、なんて思ってはいけない。それどころじゃない。でもかわいい。いや、それどころじゃないから、
    「あんまり酷いようなら救急車呼ぼうか?」
     俺の言葉に小さく首を横に振る。ただの、かぜだ。からっからでほとんど息だけの声が聞こえる。正直不安だったけど、俺の声に反応できるなら安静にしておいた方がいいかもしれない。
     俺は小さく覚悟を決めてその脱力した腕の下に頭を突っ込む。
    「ベッド行くよ、摑まって」
     あとは己の腕力と精神力と根性を総動員するのみだ。

     キッチンから寝室まで二十メートルくらいのもんだろうか。今までの人生の中でこれほど長い二十メートルは初めてだった。人は蟻にもカブトムシにもなれない。少しは大寿君も協力はしてくれてるみたいだったけど、肩も腰も限界値を超えてる。
    「た、いじゅくん、ごめん、ころがすよ?」
     何とか担いでいた上半身をベッドの上にほとんど落とすように転がすと、俺まで倒れこんでしまった。脱力してるに近い状態だし想像以上にキツかった。何とか立ち上がって丸まった大寿君を奥に転がして布団をかけたら、情けないことに息が切れた。
    「ふう、」
     一息つく。さてどうしよう。汗が酷いからまず身体を拭かないと冷えてしまう。水分をしっかり取らせて、頭と腋を冷やさないと。ジェルシートみたいなのがあればいいけど、なさそうだな。氷はあるかな。ビニール袋とかもあんのかなこの部屋。最悪、冷えたペットボトルでもいい。ほんとは股間も冷やしたほうがいいけど絶対にあとで怒られる気がする。
     なんとか寝室には連れてこれたし、暖房もいれたし、ちょっと薬局にでも行ってこようかな。
    「みつや」
     大寿君の声が聞こえる。
    「ん?」
     顔を覗き込むと、小さな声で「すまねえ」と呟いた。
     その顔が怒られたあとの子供みたいで、俺は思わず吹き出した。
    「いやいや、偉いよ大寿君」
     俺が笑ったのが気に入らないのか、俺の言葉の意味が分からないのか、それともその両方かは分からないけど、眉間の険が深くなる。でもいつもみたいな威嚇ではなくて、純粋に疑問に思ったっぽい。
    「ちゃんと助けてって言えたじゃん」
     今までは体調が悪くても、どんなに苦しくても、じっと一人で耐えてたんでしょ?
     俺が笑いながら言うと、反論があるらしく口を開きかけて、そのまんま咳き込んでしまった。駄目だ、かわいい。
     相手が弱ってるのをいいことにその頭をナデナデすると、抵抗する力もないのかされるがままだ。
    「まあまあ、おかゆでも作るから安静にしてなよ」
    「テメェ……」
    「まずはその汗まみれの身体拭こうかな」
     大丈夫だよ、心配しなくても勝手にいなくなったりしないから。

     あとでおぼえとけ、なんてくぐもった声が聞こえる。でもさ、そんな顔じゃかわいいだけだよ。口に出すとまた咳き込ませちゃいそうだったから、俺は黙って寝室を出る。そして、まずはバスルームへ向かうとフェイスタオルを三枚くらい拝借して水で湿らせることにした。三枚で足りるかな。

    カップケーキ ルナが今年はカップケーキも作りたいと言い出した時、俺は予算やかかる手間の事くらいしか考えていなかったと思う。

    「クッキーだけじゃ駄目か?」
     二月中旬の土曜日。
     俺は室温に戻したバターと振るう前の小麦粉、大量に減るであろう砂糖、そして妹たちの並んだ笑顔の前で少し困っていた。
     はじまりはルナが小学校に入学したくらいだろうか。ここ数年のルーティンとして2月半ばの休日になると三ツ谷家のキッチンでは大量のクッキーが生産されることになっていた。いわゆるバレンタインというものである。学校でお友達と交換するの! と妹にキラキラした笑顔で言われれば兄貴として作らないわけにはいかない。しかし、最初はプレーンのクッキー生地にチョコチップを混ぜた程度だったのに、妹たちの希望に沿っていたら年々難易度が高くなっていってしまった。チョコ掛けしたり砂糖掛けしたりジャムのせたり生地を凍らせたりと今やすっかり一大行事だ。そう若くないうちのオーブンレンジにもトースターにもやばそうな煙を吐きながらフル稼働してもらうことになる。追い付かなくってフライパンで焼いたこともあるけど焼き目が綺麗につかなくて、それは東卍の集会に全部持ってった。案外好評だったけど。
     故に、俺は出来ればこれ以上の出費や手間は回避したかった。クッキーだけでも全部で百枚以上は焼くこととなるし、これに全く違う新しい工程を足すことになるのは正直ちょっときつい。
    「今年はダメ」
    「だめー」
     即座に駄目出ししてくるルナにつられる様にしてマナまでぶんぶんと首を振った。幼いながら妹たちがわりと頑固なのはよく分かってるつもりだ。おそらくここで「ごめんな、我慢してくれ」だの「今年もクッキーだけな」なんて言おうもんなら今日一日ずっとふくれっ面のままだろう。いやいや、まだ駄々を捏ねてくれるくらいの方が心に苦しくない。例え多少拗ねたところでルナもマナも泣いてまで何かを欲しがることはしないのだ。普段から主に金銭面においてどうしても我慢させなくてはならないことが多いし、きっと残念な思いだって沢山させてる。それを思うと自分ができることは出来るだけやってやりたいと思うのが兄貴としての心意気ってもんだろう。しかし、俺はこれまでマグカップで膨らませるタイプのもの以外、カップケーキというものを作ったことがなかった。
    「まずはレシピな。見つからなかったら諦める。それでいいな?」
    「なかったらマカロンがいい」
    「マカロンー」
    「それは普通に兄ちゃんには無理だ」
     盛り上がる妹たちを他所に、俺は内心とても焦りながらもキッチンの棚でボロボロになっているお菓子作りの本を捲った。

    「で、出来上がったのがコレな」
     真っ白い湯気の立ち昇る真っ赤なマグカップからは珈琲のいい匂いがする。俺は家に余ってたケーキ箱から昨日の成果を取り出して珈琲の隣に並べた。妹たちが「たいじゅくんへ」ってラッピングしたクマがピンクのハートを抱っこした形のクッキーと、ココアを混ぜた生地に割った板チョコをたっぷり混ぜて焼いて、てっぺんにハートのクッキーを乗せたカップケーキ。
    「難儀だなテメエも」
     どこか呆れたような口調が聞こえるが、その強面をよく確認すると口角は案外あがっていたりする。この体長約2メートルの男が実は甘党であることくらいとっくに知っているのだ。珈琲を淹れるのが意外と上手なことも知ってる。俺相手でもちゃんと豆を挽いて紙で淹れてくれることも、ミルのハンドルを握る横顔が驚くほど静かで、穏やかにさえ見えることも。
    「いや、ありがたいことにさ、案外簡単だったんだよね。材料もクッキーで使うもんばっかりだったし」
     さすがにカップケーキの型は一番近所の百均へ走ったが、薄力粉にベーキングパウダー、卵にバターに粉末ココアで作れることが分かった時は心底ホッとした。レシピ的には混ぜるだけでクッキーより手間いらずなくらいだった。それでも沢山は作れなくて、出来上がったのは5センチのマフィン型に六個だけ。うちふたつは味見と称してルナマナの胃袋に一瞬で消え、ひとつは母ちゃんに渡すべく三人でラッピングした。
    「すげえよなお菓子って。材料おんなじなのに量とか混ぜ方とか入れる順番とかが違うだけで全然別のもんになるんだからさ」
     話を続けながらも温かいうちにマグカップに口をつける。インスタントじゃないちゃんとした珈琲なんて大寿君に淹れてもらうまで飲んだことなかった。豆の名前とかほぼ呪文の羅列で全然分かんないけど、大寿君の淹れる珈琲はいつも濃くていい匂いがする。
    「初めて作ったけど、変なもん入れてないし味は悪くないと思うよ。良かったら食って」
     差し出すとすぐに大きな手が伸びてくる。5センチしかないカップケーキなんて大寿君からしたらひとくちで終わるだろう。しかし、大きく開けた口に全部放り込まれるかと思ったのに、意外にもカップにいくらか残っている。まあふたくち分もなさそうだけど。
    「ふん、悪くねえな」
     すぐにそんな声が聞こえてきたので、本当に悪くなかったんだろう。ホッとして、俺も自分の分に噛り付いた。思ったよりもふんわりと焼き上がったココアの生地に塊で入ってるチョコが美味しい。本に載ってたのがいいレシピでよかった。
    「で?」
    「え?」
     珈琲とチョコって相性最高だなー、なんて呑気に考えていた俺に、大寿君からこんな質問が飛んできた。
    「ルナがカップケーキ作りたいなんて言い出した理由は、ちゃんと聞いてやったのか?」

    「カップケーキはとっても大好きな人にしかあげちゃいけないんだよ」
     ちなみにマカロンもだよ、ルナがそんな風に言い出した時、俺は思わず真顔になってしまった。正直言って無茶苦茶ショックだった。まだ幼くて守るべき子供だと思ってたルナがそんなことを言い出すなんて。確かに部活の女子たちの話を聞くと初恋は保育園の頃とか小学校低学年とかいう話だって普通に聞くし、全然遅くないのかも知れない。でも普段の会話からしてそんな気配感じたことなかったのに。いや、いやいやいや、そもそもルナがこんな我儘を言い出してまでカップケーキを渡したいと願うくらいの相手だ。まさかくだらねえつまんねえ男ではないだろう、うん、落ち着け俺。落ち着け。
    「はい、お兄ちゃん」
    「マナもー。はい、お兄ちゃん!」
     そんなんだったから、丁寧にラッピングされたカップケーキをふたりから手渡された瞬間、俺は本気で泣きそうになったんだ。
    「だから、お兄ちゃんもいま一番好きな人にあげてね」

     最後に残ったたったひとつだけのカップケーキの行方。
     珈琲とカップケーキでぐちゃぐちゃになった口の中のものを飲み下す。なんかもう味がしない。さっきまであんなに美味しかったのに。
    「……いや、多分そんな深い意味はなかったんじゃないかな」
     ふたりとも俺にくれたし、と笑うけどそれほどの興味もなかったのか、大寿君はこっちも見ないでクッキーの袋を開けようとしている。まだカップケーキも食べかけで残ってるのに。そうだよ、俺だって別に大した意味はない。カップケーキの意味なんて知らなかったし。甘いものが好きなやつって、それだけで。でも、どうしてだか甘党のマイキーを筆頭に元東卍のメンバーの顔は誰ひとり浮かばなくて。かなり甘くしたから、大寿君の丁寧でいい匂いの珈琲に合うだろうなって、それだけで。
    「おい」
    「なに」
    「付いてる」
     不意に伸びてきた右手が、言葉に詰まったままの俺の顎を柔く捉えた。
     乾いた親指が、何も言えなくなった俺の唇をなぞった。
     喉からひゅ、と音が鳴ったけど、聞こえていたかどうかは分からない。
    「ほんとガキみてえだなテメエは」
     そうやってちょっと嬉しそうに笑うから、俺は悔しくてしょうがなかった。俺にそんなこと言いやがるやつ、他にはいねえんだよ。頼むから指についたそれを舐め取ったりしないでくれ。そんな兄貴みたいな顔はやめろよ俺はテメエの弟じゃねえ。
    「じゃ、こいつは余り物ってことでいいんだな」
     追い打ちのようにかけられた言葉で分かってしまった。絶対確信犯だこの野郎。思わず握った右の拳をどこにやろうか迷ってるうちに、大寿君は残りのカップケーキを口の中に放り込もうとする。
    「ちが、う」
     正しい答えが何なのかなんて自分でもまだ分かんねえ。
     でも、それは間違いなく余り物なんかじゃないんだ。

     残りのカップケーキはすぐに大寿君の大きな口に放り込まれてしまった。
     俺が丹精込めて作った甘いものが、跡形もなく飲み込まれてしまう。
    「じゃあ、全部よこせ」
     それでも猛獣はどうやら食い足りないらしく、俺にまで腕を伸ばしてきやがるのだ。
    「……腹、壊しても知らねえ」
     少し痛いくらいに抱き締められて、俺は悔し紛れに呟いた。だけど、なんかもう観念するしかなくて。少し大袈裟な溜息をひとつつくと、ごつい腕の中でそっと力を抜く。
    「ふん、上等だな」
     残さず食ってやる。
     大寿君は上機嫌で、俺を掻き抱いたまま声を上げて笑った。

    ビスポーク
    「スーツを一式」
     十二月の中旬。いきなりマンションにオレを呼び出した大寿君は、相変わらず言葉少ななままオレにチャコールグレーにチョークストライプの入ったスーツ生地を差し出してきた。それだけでオレに何をしてほしいかくらいは、察せる程度には仲良しのつもりだけど。
    「大寿君、オレまだ学生だよ」
    「出来ねえのか?」
    「や、できるけどさ」
     来春、恵比寿にオープン予定だっていうレストランの支配人を任されるから、気持ちも新たにスーツを新調したい。
     話の流れはそんな感じ。まあ理屈は分かる。だけどさ、同じ頃にはデザインの高専を卒業予定ではあるとはいえ、スーツなら学校の課題で作ったことがあるとはいえ、簡単なシャツやジャケットなんかは大寿君にも何枚か作ってあげたことはあるとはいえ、
    「オレ、誰かにスーツ作るの初めてだけど」
    「そうか」
    「うん、そうかじゃなくてさ」
     半信半疑差し出された生地を確認したらロロピアーナのフォーシーズンズで思わず息を飲んだ。当たり前の顔してるけどさ、今まで誰かのスーツを仕立てたことのない人間に渡して良い生地じゃないよコレ。大寿君がセレブなことくらいは分かってるけどさ。
    「出来ねえのか?」
     二回目の同じ質問は、どこか挑発めいた響きを持っていた。ふと顔を上げる。目前で、オレを見下ろすその顔もにやり、と歪められる。
     イラッとした。
    「出来るって言ったよね?」
     オレが負けず嫌いで意固地で売られた喧嘩は絶対に買うやつなことくらい、大寿君もよく分かってるんだろう。

    「お店で着るならスリーピースにする?」
    「ああ」
    「シングル? ダブル?」
    「お前の得意な方でいい」
    「……」
     だからさ、得意とか苦手とかまだ分かんないんだって。そんなに回数作ったことないってば。でもそう言うと負けた気がするから言わない。だからって無理して難しい挑戦をするには生地が上等すぎる。ここはスタンダードで行こう。
    「……じゃ、シングルで。ノッチドラペルになるけど」
    「任す」
     だから、そんなにオレは詳しくないの。パターンだってまだそんな幾つも引けないし、好みがあるなら言ってもらった方がいいんだって。
     オレのこと信用してくれてるんだろうけどさ、好きなものや得意なこと、もっと教えてよ。
    「……スマートカジュアルの店だ。あまり堅苦しくない方がいい」
     オレの迷いを読んだのか、大寿君は助け船を出してくれた。
    「……じゃ、生地もイタリアだし丸め軽めのシルエットにする?」
    「おう」
    「サイズは? 」
     いつも大きな身体にぴったり合ったスーツを選んでいる。そんな大寿君のことだから、自分のサイズくらいは知っているに決まってる。だから、オレは当たり前に数字とアルファベットの羅列が聞こえてくるのを待ってた。
     だから、
    「測ってくれ」
     部屋着のスウェットを脱いで大寿君がそう言い出した時、オレは今日二度目かの息を飲んだんだ。

     これまでだって大寿君の服を作ったことは何度もあった。でも、簡単なものばかりだったから、こんなに細かく採寸なんかしたことなかったんだ。
     そもそも、オレがメジャー持ち歩いてなかったらどうするつもりだったの。またそのスウェット着るつもりだったの。
     その様子を想像したらなんか間抜けで、思わず吹き出してしまった。
    「なんだ?」
    「なんでも」
     笑いを噛み殺して、まずは総丈から。首の後ろから踵まで。これだけでオレの総身長くらいあるのが腹立つ。次はオーバーバスト。二の腕からぐるりと一周。何も考えないように心がけているつもりなのに、その盛り上がった上腕二頭筋につい惚れ惚れしてしまう。上半身に走るトライバルの意味を聞いたことはないけれど、きっと宗教的なものなんだろうと思う。聞くならきっと今が絶好のタイミングなのに、オレはなんとなく口を開けない。
     鍛え上げられた後背筋に背負った十字架だって、こんなに近くで見るのは初めてかもしれない。
     綺麗だな、口の中だけで呟く。
    「じゃ、胸囲測るから、腕上げて」
    「おう」
     オレは大寿君の背中に腕を回す。まるで前から抱きつくような仕草で。でも変な意味じゃない。変な意味じゃない。あんまりにも近くて苦しい。あのクリスマスの夜にも見た。だけど今はもっと近くにある胸筋の上のトライバル。正しくは読めないけど、福音なのかな?
     つむじのあたりに視線を感じるから、顔を少し上げればきっと視線が合ってしまう。
    「三ツ谷」
     不意に名前を呼ばれる。それでもオレは顔を上げることができない。こんな顔、見られちゃいけない。見られたら、何もかもバレてしまいそうで。
    「な、に?」
     大寿君の匂いが好きだ。声が好きだ。大きな身体も好きだ。その奥に隠れている、驚くほど不器用な少年も、すきだ。

     大きな両手がオレの背中に回った時、オレはそれまで必死で数えていた数字の全てを忘れてしまった。
    「愛してる」
     震える声と大きな心音に、オレは今日三度目の息を飲む。そして、夢心地で目を閉じた。
     
    これもふたりの日常
     こんな日は、一年にほんの数日しかないと思う。珍しいといえば珍しいけど、確実にあるのでもう驚くこともない。多忙な日であろうが休日であろうが、ハレの日であろうがケの日であろうがそれは普通にやってくる。相手が一番大切にしているであろう宗教も今日のお天気もカレンダーのお日柄もおそらく関係ない。ただ、この広々としたリビングに置いても存在感を放ち続けるこの体積の大きな男と、一緒に暮らすようになって早五年。こんな日は、頻繁ではなくとも必ずある。

    「……大寿君、トイレ行ってきてもいい?」
     いわゆる恋人同士の時間を過ごした翌日の朝は先に目を覚ました方が朝食を作る。特に話し合ったルールではないし、身体の負担を思うと圧倒的に相手が朝食を準備してくれることが多い。だけど、今日はたまたま俺の方が早く目が覚めた。ベッドを抜け出してキッチンに立ったら、なんとなく炊き立ての米と出汁のきいた味噌汁が食べたくなって。とりあえず米を研いで水につけて、雪平鍋に鰹節と水を入れて火にかける。さて、味噌汁の具になるものってあったっけなと冷蔵庫を物色していたら静かに後ろから抱き込まれたのだ。残念ながら俺は背後を取られることにわりと弱い。その時に、すでにもしかしたら、とは思っていたのだけど。
    「……行ってこい」
     振り返らずも渋々といった表情が目に見えるようだ。俺は漸く緩んだ両腕から擦り抜ける。顔を見ると罪悪感に囚われそうなので振り返ることのないままそそくさとトイレへと向かう。
     後頭部に突き刺さる寂しげな視線が重い。
    「ふう」
     用を足してひといきつく。別にいやってわけじゃない。寧ろ、普段のちょっとむかつくくらい大人なその立ち振る舞いに慣れている身としては嬉しいくらいではあるのだ。ただ極端なだけで。トイレとか飯とか風呂とか、現代人として当たり前の欲求すらも時に満足に満たせないくらいに重度であることが困るくらいのことで。
    「終わったか」
    「……あのさ、ドアの前で待ってるの止めよう? 危ないしさ」
    「善処する」
    「うん、聞く気ないね」
     ドアを開けた瞬間に視界が男で埋め尽くされるのにも、まあ慣れた。
    「むぐ」
     今度は前から思い切り抱き込まれて視界がブラックアウトする。こういう日はそうたくさんはない。だけど、一年に数回は、必ずある。
     今日は大寿君があまえたになる日なのだ。

     午前中は洗濯と掃除して、昼飯は一緒に近所の中華かカレー屋で食って、本屋行ったり散歩したり、小腹すいたら甘いもんも食って、そのまま夕飯の買い物して……いいお天気だし、丸一日一緒の休日なんて沢山はないから、ちょっとデートっぽく過ごすのもいいなって思ってたんだけど。
     膝の間に座らさせられて、背後からぎゅうぎゅう抱き込まれたまま心の中だけで呟く。今日は多分、一日中部屋着のまま膝の間か、たまに上だろうな。とりあえず洗濯は出来たけどサンルームに干したらすぐにソファーに逆戻りさせられたし、掃除は今日はお掃除ロボットに任せるしかないらしい。
     自分のと絡めたり握ったり揉んだり、今日はやたら指を触りたがる。この間は耳だったからくすぐったくてしょうがなかったけど。今日はなんかハンドマッサージでも受けてる気分。大寿君は俺より体温が高いから、膝の上でぼんやりしていると自然と眠くなってくる。
    「ふあ」
     思わず欠伸が出た。昨夜はそんな気配なかったのにな。久しぶりだったから激しくはあったけど。
    「眠っていいぞ」
     耳元でそんな声に囁かれて、少し不思議に思う。側にいる俺は眠ってる俺でもいいんだな。てか、俺が腕の中にいればそれでいいんだろう。
     いい天気の日にあったかい部屋の中でくっついて、おなかすいててもトイレ行きたくても、絶対に離れたくないなんて。
     一体、なにがそんなに怖いんだろう?

    「大寿君」
    「なんだ?」
    「怖い夢でも見た?」
     ごくり、と息を飲む音が近くから聞こえる。
     振り返ったところには絶句顔があって、俺まで絶句してしまう。そんなに間違いでもなかったみたいだ。ちょっとカマかけただけなのに。
     どんな夢だったの、なんてことは聞かないことにする。そうか、この人たぶん年に数回のレベルで見てるんだな。
     俺がいなくなる夢。
    「よしよし」
     俺は両手で大寿君の頭をわしゃわしゃと掻き混ぜた。0距離で見るちょっとばつの悪げな顔はレアだ。大丈夫、どこにも行かないよ。囁くと怒られた大型犬みたいな顔をした。クッソ可愛くて、思わずその鼻先にキスをしたらそのままデカい口が下りてきた。
    「ん、う」
     ほとんど八つ当たりみたいに口の中を掻き回される。ちょっと怒ってるっぽいけどさ、気持ちいいから何の効果もないんだけど。何度も言う。本当に、こんな日は嫌いじゃないんだ。年に数回しかないけど、大寿君が甘えたになる日。部屋から出たがらず、家事もしたがらず、俺から離れなくなる日。

     こんな日は開き直って、ただひたすら愛し合うに限る。
     とりあえず、もう部屋着もいらねーわ。脱ご?

    指輪
     ……とりあえず落ち着け。その拳を下ろしてこっちの話くらい聞け。断じて言い訳じゃねえ。神に誓ってやる。
     ほら、ちゃんと見ろ。平打ちで幅が4ミリもある。石は入ってないかわりに表面に少しの意匠が入ってるだけで、デザインとしてはシンプルだろ。ほら、手に持ってみろ。分かると思うが、けっこう重いだろ? プラチナってのは変質し辛いから重宝されるが金や銀よりずっと重くて普段使いし辛いんだ。おそらく相手の趣味に合わせたんだろうな……結婚指輪なんて一生モノだってのに、我儘ひとつ言わなかったんだろう。いま思い返しても、これは正直、あの華奢な指にはあまり似合っていなかったように思う。とはいえ、俺もガキだったからな。そこまで深くは考えていなかった。ただ、家の中を走り回っていつも忙しくしている母の細い指に、絶対にこいつはずっしり重そうに光っていた。
     例えばだが。テメエが飯作る時や洗濯物干す時、妹共の世話をする時に、利き手でないとしても手にこんなもんついてたら邪魔じゃねえか? 実際に、平打ちの指輪ってのは他の指を傷つけがちで、家事だけでなくそもそも作業向きじゃない。俺たちに触れる時は外すこともあったが、基本的には外さずに気を使っていたように思う。気丈だったからな。子供の前で弱音ひとつ吐きはしなかった
     本当は一緒に燃やしてやりたかったんだ。だが、火葬では指輪は燃え残ってしまう。だから副葬品として骨壺に入れよう。そう思って、俺が預かったんだ。母が亡くなった翌日に。
     式のことは今でもはっきり思い出せる。棺に横たわる母を見て……叫び出したいのにひとつも言葉が出てこなかった。泣くのが怖かった。泣いてしまえば母が本当にこの世界のどこにも居なくなってしまう。そんな気がしてな。ほっそりと冷たくなった母は白くて、触らなくても生きている頃のように柔らかくないことが分かった。目は閉じているのに口は丸く開いていて、どこにも色は全く無かった。真っ白だった。もう二度と生き返ることはないと分かってしまった。
     それを見てたら……手放したくなくなってしまったんだ。泣いて縋り付きたがるあいつらを止めながら、俺は柚葉にわからないように、八戒にわからないように、そっとこれを拝借したんだ。
     思えば、俺にとってあれが一番最初の罪だったように思う。


    「……疑って申し訳ありませんでした」
     思わず床に土下座する三ツ谷を見下ろしながら、大寿は思わず溜息をついた。こちらの言い分も聞かずに問答無用とばかりに拳を打ち込まれたせいでさっきまで鼻血が止まらなかった。曲がりなりにも被害者として謝罪は当然とも言えたが、自分にも非があると言えなくもなかった。
    「……まあ、誤解を呼んでも仕方ねえわな。もういい」
     この間、祈りを捧げたあとに大寿は久しぶりに祭壇の引き出しの奥から取り出して指輪を眺めていた。人は声から忘れる。よくそう聞くから。母の声を思い出せるか、ふと不安になって。
     たいじゅ、あいしてる。
     その声をちゃんと思い出すことができたことに安堵して、そのまま眠ってしまった。神経質な大寿にしては珍しく、指輪をベッドボードに置き忘れたまま。
     そして翌朝、目が覚めると合鍵で入ってきたらしい恋人のガチギレ顔が目の前にあったのである。
    「大体、デザイナー志望なら分かんだろうが。デザインからして古いだろ」
    「いや〜それは人妻とかかも知んないじゃん?」
    「やめろ生々しい」
    「だって大寿君年上にモテそうだし」
    「……老若男女関係なくお前みたいな物好きそうはいねえよ」
     大寿は溜息をついた。不安にさせるようなことは何ひとつしていないつもりなのだが。八戒に聞いてみたい。一体こいつのどの辺がクールで格好いい兄貴だというのか。
     三ツ谷は床から立ち上がる。そして未だに夜着のままの大寿に抱きつく。
    「……本当にごめんね。俺、大寿君のことになると冷静さ失っちゃう」
     そして、ぎゅうぎゅう抱き着きながら許しを乞うた。
    「……わかった、もういい」
    「大好き」
     耳元で聞こえる愛の言葉はくぐもっていて、母のそれとは全然違っていた。だが、大寿は心から満ち足りた気持ちになる。
    「俺も、愛してる」
     そして、鼻は依然として痛むが許してやることにするのだ。

     指輪は小さな祈りとともに、ふたりで祭壇の奥に再び仕舞った。
    「多分、だけどさ」
    「あ?」
    「お母さん、この指輪が大好きだったんだと思うよ?」
     三ツ谷は笑って言う。
    「だってカッコいいもんコレ」
     大寿は思う。まったく、こいつは簡単にこういうことを抜かしやがる。八戒から柚葉から俺から聞いて、事情は少しばかりは知っているだろうが。それでも思ったことは躊躇せずどんどん口にする。
    「そうかもな」
     そして、どうしてだかそれは紛れもない正解に思えるのだ。
     
     いつか、俺もこいつのために指輪を用意するんだろうな。
     その丸い後頭部を見つめながら大寿はそんなことを思った。

    ファーストフード 
     その日、柴大寿が自宅から最寄りの某ハンバーガーチェーンに立ち寄ったのには3つほどの理由があった。
     ①腹が減っていたから。
     ②少し前に立ち寄ったら意外と悪くなかった。
     ③自宅の冷蔵庫の中が冷凍室含めそろそろ空っぽになるから。
     以上。要するに、大して大きな理由があるわけではなかった。

    「い、らっしゃいませ〜」
     スマイルは0円らしいが大抵の店員は大寿を見ると笑顔が強張る。コンビニだろうがクレープ屋だろうがドーナツ屋だろうが同じことだ。まあ仕方がない。本人はもうとっくに不良なんてものからも、柴家の暴君からも足を洗っているのだがいちいち説明するわけでなし、見た目も変えようもないし、変えるつもりもないのだから。
     腹が満たされれば何でも良かったので、メニューの中で一番大きなハンバーガーをフライドポテトとコーラで注文する。
    「600円でーす」
     それなりにボリュームはあるのに驚くほど安い。これでも前より高くなったらしい。以前にここに来た時にそんなことをぼやいていたやつがいた。すぐに商品は揃って、大寿はトレイを手に席を探した。イートインにした理由は簡単だ。あの部屋の中でひとり紙袋を漁っている自分を想像したらちょっと腹立たしかったからだ。

    「しばらく忙しいんだよね」
     ひとつきほど前にひとりごとのように呟いていたあの横顔を思い出す。何がどういうことで忙しいのかは別に聞かなかった。ただ、しばらくは逢えないという事実がそこにあるだけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。実際にその日から相手からの連絡は途切れた。
     その途端に静かになった部屋と携帯電話がなんだかすごく居心地悪かった。

     一般的には大きなハンバーガーでも、身長約2Mの大寿の手のひらには小さい。あいつは大笑いしやがったっけ。全然ビッグに見えねーって。ポテトのLもコーラのLも意味ねーって。
     当たり前にあの男のことを考えている自分が不愉快で、大寿は力任せに包装紙を破くとそれに齧り付いた。
     大きな口に、ハンバーガーの半分程度が一瞬で消えた。
     その歯に何度か咀嚼されて、舌に舐られ、突き出た喉仏の奥へと飲み込まれてゆく。
    「……ああ?」
     誰も聞いていない疑問符が上がった。
     以前食べた時と全然味が違う。確かに前とは違う店舗だが、チェーン店にこれほど味の差があるものなのだろうか? 思わず声に出てしまうほど、それは味気なかった。揚げたてのはずのポテトもなんの変哲もないはずのコーラも同じことだった。
     失敗だったな。心の中だけで呟いて、大寿は自棄糞のようにポテトを口に放り込む。油の匂いが強いそれのせいで口の周りが不快だ。あいつはこれが絶品だって大喜びで食ってやがったのに。
    「春はてりたまだよな〜」
     などとワケの分からないキャッチコピーにまんまと乗せられて、あいつは嬉しそうにハンバーガーを頬張っていた。その小さな唇をいっぱい開いて齧り付いても大寿のふだんのひとくちにも満たない。なのにその頬は途端に丸く膨らみ、口元は如何にも嬉しそうな微笑みが浮かんだ。いつもはそう赤くない唇を照り焼きのタレで汚しながら。
     その唇が紅を引いたようにも見えたことをなんとなく思い出しながらあっというまにポテトを完食する。コーラを啜りながら大寿は呟く。俺も、てりたまとかいうやつにしておけばよかったな。どんな味だか知らんが、コレよりかは旨かっただろう。
     残りの半分を見ても食欲が沸かなくて、大寿は小さなため息をついた。

     勘弁しろよ。
     ひとりなんて慣れてんだろ。
     一体、何がそんなに寂しいっていうんだ。

     ため息をついた途端に携帯電話が振動した。
     いまうち?
     メカ音痴からのごく短いメッセージに思わず舌打ちが出た。
     大寿は残りのハンバーガーをひとかけらも残さずに口の中に放り込んだ。
     さっきよりもずっと美味いそれに、思わず笑いが溢れる。我ながらなんて現金なんだ。もう、誤魔化しようがないじゃないか。

     今、帰るところだ。
     ごく短いメッセージを返すと、大寿は急いでハンバーガーショップをあとにした。

    まちあわせは22時
     備え付けの駐車場にインパルスを止めた時、どうしてだか小さく深呼吸をしたのを覚えている。なんでもないことのはずなのに胸が少しだけ苦しくて、ごまかすように小さな咳をした。携帯電話のディスプレイを確認する。素っ気ない数字が並んでいた。21時52分。待ち合わせは22時。

     小さな映画館に備え付けられたやっぱり小さなカフェにはやたら大きな男ひとりを除けば誰もいなかった。備え付けられた簡単なテーブルや椅子からいろいろはみ出しながら、どっかの国の小難しそうな分厚い本を開いている。いつも待ち合わせると向こうが先に着いてることが多いので、今夜もいつもどおりだ。異様な威圧感があるのに、俺を待ってるって思うとなんだか可愛くも見えて、思わず笑ってしまう。
    「ごめん、待った?」
    「待ってねえよ。時間前だろうが」
     そっけない返答だが悪気はないのはとっく分かっている。テーブルの珈琲から湯気は上がってないし、それなりに先に来てたはずなんだけど。俺の視線を読んだのか、男は残った珈琲を全部飲んでしまう。
    「間に合って良かった」
    「あいつらは良かったのかよ」
    「今日はおふくろもいるから」
     俺は男の目の前に座った。時計はそろそろ待ち合わせ時間を指す。映画が始まるのは22時20分。いわゆるレイトショーと呼ばれるやつで、俺は大寿に誘われるまでこんな時間に上映される映画があるなんて知らなかった。
    「先にチケット買っといた」
     テーブルに差し出されるチケットには見知らぬタイトル。古い映画のリバイバルとは聞いてたけど。俺はカフェ全体に張り巡らされているポスターの中で該当作品を探した。真っ青な海と空の下で凭れ合う恋人たち。赤いボーダーのワンピースと膝の上の黄色い鳥。半世紀以上前のフランス映画。
    「こんな古い映画よく知ってんね」
     純粋な疑問として質問すると、大寿は右眉を少し上げた。別にいちゃもんつけたつもりは無いんだけど。かあちゃんも生まれてないくらいに昔の映画なんて、俺はほとんど知らないと思う。
    「……昔、家にソフトがあったんだよ。親父かおふくろが好きだったらしい」
    「へえ」
    「フランスの巨匠が若い頃に撮った映画だな」
     たったひとつしか年は違わない。だけど大寿は俺が知らないことを驚くほどたくさん知ってる。たまに悔しさすら覚えるくらいに。
    「何度観てもワケが分からねえし、ガキの頃は退屈でしょうがなかった」
     だけど、子供の頃の話をする時、彼は少し年相応な優しい顔をする。それがとても好きだ。
    「えー大寿くんで分かんないなら俺とか絶対分かんないじゃん」
    「小学生の頃のことだからな。今観たら少しは理解できるかも知れねえだろ」
     なんとなく、彼がこの映画を観に来た訳がわかった。
     両親が愛した映画だから理解したい。家族を愛する彼らしい理由だと思った。だけど、そんな大切な映画にどうして俺なんかを誘ったんだろう? 八戒は流石に難しいかもしれないけど、柚葉だったら付き合ってくれたかもしれないのに。
    「そんな難しい映画って初めて見るかも」
     レイトショーもリバイバルも、こんなに古い映画も、大寿と一緒に映画を観るのも、全部初めて。
    「映像はどのシーンも凝ってて飽きねえぞ。三原色の使い方がいい。今でも色んなところで引用されてる」
    「へえ……」
     青と赤と黄色。確かにポスターはお洒落だ。そっか、俺がデザイナー志望だから連れてきてくれたのかも。
     そっか、深い意味はないんだ。
    「あ、飲み物買ってくんね。なんかいる?」
    「俺はいい」
     なんとなく居心地が悪くなって、俺はカフェのカウンターに逃げる。すでに眠そうにしてるカフェの店員からコーラを受け取る。こんな時間だし、ポップコーンやドーナツは売り切れだった。見たかったのにな。キャラメルのポップコーン頬張る大寿とか。なんか、俺が想像してた映画デートとは大分違うな。
     あ、そうだった。そもそもデートじゃない。俺ら別に付き合ってないし。こんな遅い時間に家抜け出すなんて、集会かツーリングくらいなもんだったから、深読みしてしまったけど。
     俺は友達と映画を観に来ただけ。大寿も友達を映画に誘っただけ。
    「二階だ」
     館内アナウンスが流れて、大寿はどんどん歩いていってしまう。階段でも廊下でも誰ともすれ違わない。こんなに人のいない映画館もはじめてだ。もしかしたら、俺ら以外に誰もいないのかも。
     多分100人入らないだろう小さな会場はまだ明るく予告編も流れてなくて放課後の誰もいない教室みたいに静かだ。やっぱり観客は俺たちだけみたいだ。俺よりかは慣れてるだろう大寿は一番うしろまでどかどかあるいて真ん中の席にどかっと座った。一応、両足は下ろしてるけどなんかはじめて会った時のことを思い出してしまった。そのままつられるように俺も隣に腰を掛ける。
    「すげえ、貸し切りみたいだ」
     つい小声で言うと、
    「ああ」
     息だけの低い声が聞こえて、少しドキッとした。だけど、大寿の表情を確かめる前に場内の明かりが消えてしまった。予告編がはじまる。でも内容なんてほとんど頭に入ってこない。 

     映画はざっくり言えば、退屈してる主人公が昔の恋人と再会してよりを戻したら殺人が起きて、ふたりはどんどん破滅へ向かってゆく……って感じだった。台詞がいちいち詩的過ぎるし場面展開も唐突で、途方にくれるようなよく分からないシーンが多かった。これは小学生に理解しろって言ったって難しすぎんだろ。高校生の俺にもちんぷんかんぷんだ。だけど、くるくると動き回る登場人物は魅力的だったし大寿の言うとおり三原色の使い方がとても綺麗で飽きることはなかった。ヒロインが小悪魔でめちゃくちゃ可愛くて、なんとなく居心地が悪い。大寿もきっと可愛いって思いながら観てんだろうな。こういうタイプが好きなのかな。もしかしたら子供の頃から、ずっと憧れてたのかも、なんて思うと。
     ああ、そっか。
     やっぱり、気の迷いなんかじゃない。
     俺は、やっぱり大寿のこと好きなんだな。
     そんなことを考えてる不真面目な観客なんてほったらかして、主人公がダイナマイトで吹き飛んで、映画は終わってしまった。

    「どうだった?」
     スクリーンにはエンドロールがゆっくりと流れている。
     自分の感想はさておき、俺はそっと大寿に聞いてみた。
    「昔と字幕が変わってた」
    「あ、そうなんだ」
    「おかげで前よりは分かりやすいな」
     誰もいないのになんとなく小声で話す。大寿は俺よりは昔よりは理解できたみたいで、感想をぽつりぽつり零してくれる。でも聞こえ辛いから、自然と耳を寄せた。肩がすっかりくっついていること、息がかかるくらいに顔が近いことに気づかないふりをしながら。
     大寿の綺麗な鼻の形から目が離せなくなってしまう。
    「ラストは昔の方が好きだったな。なんかつまんねえ訳になってる」
    「へえ」
     理解できたことが嬉しかったんだろう。いつもより饒舌な大寿が可愛くて、俺もなんだか嬉しくなる。俺自身はなんにも分からなかったのに。
    「どんなだったの?」
     ごく近い距離にある大寿の金色の虹彩が、俺をじっと見つめてゆっくりと瞬いた。

    「海が、太陽にとけこむ」

     鼻先が触れ合う。
     だけど、誰もいないから、止まらない。
     当たり前のように下りてきた唇に、俺はただ目を閉じることくらいしかできなかった。


    赤茄子
     歯を立てるとごく薄い皮がすぐに弾けて、冷たい液体と果肉が一気に口の中に雪崩れ込んでくる。酸味が味蕾とこめかみを刺激して、野菜特有の青臭さと甘さが舌の上で踊った。
     
     五月下旬の真夏日。梅雨を間近に控えているせいか屋内の陰にいても空気が水を孕んで肌に纏わりつくようだった。ごく見慣れたはずの薄く赤い球体は、旨いか不味いか以前に冷たさがひたすら心地良い。
    「やべえ、トマトうめえ」
     ほとんど囁きのような声がして、腕の中から小さな咀嚼と嚥下の音がする。こんなにクソ暑いのにわざわざ俺の膝に乗る意味が分からないし人の膝の上で物を食うなとも思う。だが、俺よりも少し冷たい濡れた肌が凭れ掛かってくる感触は存外悪くない。薄い麦茶よりはいいだろと言ってまだパックから外されてもいないトマトを冷蔵庫から出してきたのは三ツ谷だった。小さな部屋の中はやる前からとっくに蒸し暑く、やったらやったでお互いにすぐ汗だくになった。だが「俺んちクーラーは七月に入ってからって決まってんだ」とか言ってる時点でこいつは絶対にリモコンに触りもしないだろう。しかも窓も開けていない。声が漏れると近所迷惑だからだろう。壁が薄く近隣の生活音なんてほとんど筒抜けなんだから今更のような気もするが。今だって、近所の工事現場から聞こえる作業音やら子供を呼ぶ母親の声やら赤ん坊の泣き声やら、何一つ漏らすことなく聞こえてくる。考えるまでもなく、こんなところでやるべきじゃねえ。幾ら、こいつの妹たちが友達の誕生日会に呼ばれたとか何とかで不在だからって、俺は別にやるつもりでここに来たわけじゃなかった。「日曜のひとり飯ってさみしいから、俺んち来ない?」ってこいつが言うから午前のミサが終わった後につい寄ってみた。そしたら、炊飯器に炊けた米も、フライパン山盛りに作られた親子丼の具も放り出してこのザマだ。
    「大寿くん、食うのヘタ」
     季節の野菜は水気が多く、すぐに腕まで水が滴った。腕の中の頭が笑いで小さく震えている。普段、こんな風に野菜なんて食わねえんだから仕方ねえだろ。テメェだって口の周りベッタベタじゃねえか。腹が立ったんで口元を舐ってやる。うわ、食われる、笑い声は更に高くなって、負けじと俺の鼻先に嚙り付いてきやがる。ただでさえあちこちが赤く染まっているこいつの身体はどこまでがトマトのせいなのか、俺のせいなのかもよく分からない。
    「ん、ちょっとぐらいなら零してもいいよ。ど、うせ、あとで纏めて洗っちゃう、から」
     カーテンの向こう側に妹たちはいない。それでもこんなこと、硬い布団の上に大型のバスタオル三枚も広げてまでやることじゃねえ。汗と分泌物でドロドロになったタオルをどけたら、こいつはここで今夜も眠るつもりらしい。考えてみれば随分とグロテスクな話だ。バスタオルも湿ったカバーも纏めて洗って、布団は軽く干せば良いって話でもねえだろ。ルナもマナもよく潜り込んでくるっつってたじゃねえか。
     悪い兄貴はどっちだ。
    「んぅ……ちゅ、……ふ……」
     三ツ谷の口の中は青臭くて酸っぱくて甘い。要するに初夏のトマトの味がした。それを全部舐りつくすまで放してやるつもりはない。野菜の味がしなくなってこいつの味や匂いが戻ってきたら、問答無用に押し倒してやる。そう思ったのに、
    「……え、もっかいすんの?」
    「今更だろ」
     意外にも怯んだ三ツ谷に眉を寄せる。俺の部屋でやる時は、大概搾り取られるのは俺の方だ。そもそも三ツ谷とこうなるまで、俺は己に性欲というものが存在しているとは思っていなかった。
    「……や、流石に背中も膝も痛くて」
     三ツ谷は少し気まずげに苦く笑った。俺は少し目が覚めたような気持になる。ほらみろ、だから、俺の部屋でやるべきだったんだ。小さな部屋の中に無理やり俺らふたりが抱き合える空間を作ってまで、誰にも聞かれないように声を殺して、身体中を痛みに晒しながらやるようなことじゃない。
     恋人と呼び合う関係になってから一年ほど。こういうことをするようになったのはほんのひと月前のことだ。最初のきっかけだなんだったか、動き出したのがどっちからだったかなんて大した問題じゃないんだろう。以来、お互いにタガが外れている。最近は会えば必ず抱き合うようになってしまった。少なくとも、俺はこいつを見るだけで無性に喉が渇くようになった。
    「……見せてみろ」
     俺は三ツ谷の身体を抱き上げると、再び膝の上に乗せた。先刻までの獰猛さはどこへやったのか、まるで大人しい猫のように、三ツ谷はされるがまま俺の身体に凭れ掛かる。微かに赤く染まっているその膝頭を撫でる。なんとなく言葉にならない。だが、心臓のあたりが苦しいような思いがする。
     理性を手放すなんて愚か者のすることだ。どれだけ祈っても、罪はただゆっくりと積み上がってゆき決して消えてなくなる訳ではない。俺はきっと神の国へは行けない。
    「この体勢ならもっかいできるかも」
    「……いや、風呂行くぞ。親子丼食わせろ」
    「うん、もっかいだけしたらね」
     まるで聞き分けの悪い子供をなだめるように、三ツ谷は俺の背中を優しく撫でる。十字架にこいつの両手足が絡み付くのを感じた。後悔はしないだろう。そう思った。

    「あ、生ごみは台所」
    「あとでな」
     トマトのヘタをゴミ箱に抛ると、喧しい唇を塞ぐ。狭い部屋の中にはお互いの身体から吹き出した分泌物の匂いと齧り尽くしたトマトの匂いが充満している。ルナとマナが帰ってくるまでにこいつはコレをどうするつもりなのか。シャワーを浴びたら窓開けて消臭剤を巻き散らかして、掃除機をかけて洗濯機も回す。フライパンに冷めた親子丼を温めたら、もういつもの兄貴の顔に戻るつもりなんだろう。それはそれで少し惜しい気もするが、この顔を見ることが出来るのは俺だけだというなら大した問題じゃなかった。脇の下に吸い付いて赤い痕を残すと、俺は再びその身体を思い切り引き寄せた。

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    pyakko_123

    MOURNINGたいじゅくんのお誕生日に書いたたいみつツーリング小説です
    エロ書くために一旦引いたけどここに晒しておきます
    数限りなく、たったひとつの ワインディングに差し掛かったら少し引き離してやろう。そんなことを思ってるうちに最初の急カーブに差し掛かる。オレはスピードを緩めることなく愛機ごと深くバンクする。オレの子猫ちゃんは付き合いが長いってだけじゃなく、わりとグリップ力があるしシャシーも強いからハンドリングがぶれることは少ない。身体がシートに押し付けられるようなちょっとしんどい感覚。その窮屈な姿勢のまま車体の上で重心やケツの位置を何度も変えて最初のカーブを曲がり切る。愛機との連携と一体感。それだけがすげえ楽しくて、オレはしばらく続くワインディングとスピードに夢中になる。しかし、ふと思い出したように振り返りかけたらいきなりデカいやつが隣に乗り出してきやがった。300㎏超えの最新型ピカピカのボディに前後のフェンダーとフューエルタンクには見慣れたトライバル。少し得意げに上がる口角が見えた。危ねえなとかこの負けず嫌いがとか、思わないでもないけどここは冷静に姿勢を整え距離を取る。速度制限ガン無視の時点で言えたことじゃないが、峠の狭え道路で並列はやっぱ良くねえし、何よりオマエ道知らねえだろ。口には出さなかったが伝わったらしい。後ろのハーレーはすぐにスピードを緩め元通り千鳥走行に戻った。別に競争したいわけじゃなくて、オレが自分を置いていこうとしたのが気に入らなかったみたいだ。やっべ可愛い。オレは思わず笑い出したくなってアクセルを更に開けた。
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