咬みついたら君は笑った 不意に目が覚めて、ラピスは寝袋の中で目を擦った。眠気もなくすっきりと起きられたのはラピスにしては珍しい。どれほど早めに就寝するようにしても朝には「もっと寝ていたい……」となるのがほとんどなのだ。
ぼんやりと見上げたテントの中は暗い。ラピスの両眼に高性能な暗視機能が備わっているから周囲が見えるだけでまだ闇に包まれている。テントの入口付近を見遣っても日光が差し込んできている様子はないのでまだ夜なのは間違いなさそうだった。こんな時間に目覚めたとなるとますます珍しい。
とりあえずラピスはもそもそと身動ぎして起き上がってみた。できるだけ物音を立てないように周囲を見回してみる。隣には人型に膨らんだピンク色の寝袋。更にその向こうには同じように膨らんだ青色の寝袋。どちらからも規則的な寝息が聞こえてくる。では、と逆側に目を向けてみればもぬけの殻となったシンプルな黒色の寝袋が転がっている。つまり今は本来そこで寝ているはずの人、ルーファスが周辺の見張りをしている時間帯ということだ。野営の際はラピスを除いた三人で寝ずの番を交代している。ラピスも協力したいと度々申し入れているもののこれまで一貫して却下されどおしである。子ども扱いされているようでラピスが常々不満に思っていることの一つだった。
二度寝しても良かった、というより普段ならそうしていただろう。しかしあまりにも寝覚めが良いので暫く起きていたい気もする。しかも今ならルーファスが話し相手になってくれるかもしれない。勿論ナーディアたちを起こさないように話し声の音量や物音には気を配る必要はあるが、真夜中の静かな森の中で葉擦れの音に耳を傾けながらルーファスと語らうというのはかなり魅力的な絵図である。よし、と気合を入れてラピスは慎重に寝袋から這い出た。夜とはいえまだ夏と言える時期なので寝間着の上から何かを羽織る必要はなさそうなのは僥倖だった。無駄にテントの中を動き回って二人を起こしてしまうリスクを冒さずに済む。
足音を殺しながらそろりそろりとテントの出入り口付近まで歩を進め、ふとラピスはすんっと鼻をひくつかせた。何だか嗅ぎ慣れない匂いがする。何かが燃えている匂いではあるのだが薪ではない。正確に言うと薪が燃える匂いもしているがそれ以外の匂いもある。肉だの魚だのという食べ物の類でもないのは食欲が刺激されないことからも明らか。草っぽい物のような気がするが確証は持てない。ラピスは首を捻ったものの、考えたところで答えが出るようなものではあるまい。外にルーファスがいるのはまず間違いないし彼に尋ねるなり自分の目で確かめるなりすればいいだけのことである。ラピスはすっぱりと思考を断ち切り、手早く靴を履いてテントの外に足を踏み出した。
テントのすぐ傍、と言っても間違っても飛んできた火の粉が引火しない程度には離れた場所できちんと組まれた焚き木が燃えている。その脇には即席の椅子として大きめの丸太が置かれている。そしてそこに腰掛けている、ラピスにとっては見慣れた人影。その人物が全く見慣れぬ物を手にしているのを目撃して、ラピスは目を丸くした。
とてとてと近寄っていったラピスに、人影――ルーファスは特に驚いた様子もなく流し目を送ってきた。誰かの気配には気付いていたのだろう。ラピスも物音にこそ配慮していたが気配までは心を砕いていなかった。むしろ下手に気配を消そうとして野生動物や魔獣に間違えられて攻撃されるような状況になっては事である。ルーファスがそんな失態を犯すとも思えないが、念には念をというやつだ。
「まだ交代の時間でもないのに、と思ったが……君か。子どもの夜更かしは感心しないな」
「……目が覚めちゃったんだもん。それと、子ども扱いしないで」
「ふふ…………」
くすっと笑って言うルーファスの前に仁王立ちし、ラピスは唇を尖らせた上でジロッと彼を睨みつけた。ルーファスは腰を下ろし、ラピスは立っているという状況ではあるがそれでも見下ろすには至らない。ルーファスが座っているのがかなり直径の大きい倒木ということもあって目線の高さはほぼ同じか若干ラピスの方が高いかもしれないという程度である。
ラピスの文句を受けてもルーファスは和やかに笑うばかりだ。ちっとも反省した様子はない。ラピスの外見が幼い少女のものである以上は他の誰に子ども扱いされても多少は仕方ないと考えているラピスではあるが、ルーファスにそのように扱われるとどうしてか腹が立つ。彼にはラピスのことをきちんとレディとして遇して欲しい。その欲求の大本が何なのか、ラピスはまだ知らない。
そんなことよりも今は気になることがある。ラピスはじっとその対象に視線を注いだ。ルーファスの右手に摘まれている、細長い筒状のもの。先端は微かに燃えて煙を発している。それがどういう物であるかは、ラピスも知っていた。そしてラピスがテントを出る時に引っかかりを覚えた匂いはその煙のものだった。