南方神官的故事 それはいまにも決壊しそうな、ぎりぎりで保たれる引き攣った嗚咽の音だ。
きっとまだ幼い。
奥深い山の中で、がさがさと草や小枝を踏み鳴らしながら風信は辺りを見回した。
下界での公務の合間に、木を的にしたり或いは狩りをしたりするのに丁度良いような、人気のない深い森だ。
風信のように、長年の修練によって聴覚や視覚が優れていなければ、きっとそれも気づかずにいただろう。やがて近くの木々の影に、あまり使われている気配のない、廃れた小屋を見つけて風信はそちらへと足を進めた。
その小屋の表で、まだ小さな子供が膝を抱いてうずくまっている。
おそらく無邪気に外を駆け回っているような、五、六歳かそこらの歳頃だろう。
「……どうした、大丈夫か」
風信がそう声をかけると、加えていきなり木の影から人が姿を現したことにも驚いたのか、その少年は大きく身体を跳ねさせて膝を抱いた手を後ろについた。
「……ああ…脅かしてすまない……とって食ったりしない。そんな顔で見るな」
風信はできるだけ落ち着いた声で言い、思わず頭を掻きながら、ざっとこの少年を見遣った。おそらく質がいいとはいえないが、衣服はまだそう綻んでおらず、髪や頬は薄汚れている。手足は細く、眼窩はやや窪んでいるが、その黒曜石のような瞳は生命力を忘れていない。おそらく、この状況を過ごしているのはまだ片手で数えられる程度なのではないだろうか。
その少年は恐れと安堵を天秤にかけるような微妙な表情で、姿勢を正し、固く拳を握って風信を見ている。
風信は一歩だけ踏み出してゆっくりと膝をつき、身を屈めてその子供を覗き込んだ。
「……ひとりなのか?」
その少年は風信をじっと見つめ、それからぶんぶんと首をふった。
「……誰か中にいるのか?」
風信は顔を上げてその小屋を見る。人ひとり住むのにも手狭そうな本当に小さな小屋はうっすらと入口の扉が開き、煙突から煙がのぼる様子もない。隣には扉の閉まった小さな納屋のようなものがある。
子供は再び首をふった。
その瞳は先程よりきらきらと光を跳ね返し、必死に結んだ歪んだ唇が、それでも何か言おうと開く。
「…おかあさん」
その言葉を口にした途端、続く言葉はうわああと叫び声に変わり、大粒の涙が頬を、顎を伝う。
大きく口を開け、叫び声とも唸り声ともつかない声を上げて泣き出した少年に、風信はどうすればいいかわからずしばらく呼吸を止めてしまう。
やがて短く息を吸い、ゆっくり吐き出しながら傍に歩み寄ると、大きくしゃくりあげる少年の背に手をやった。
こういう時、身につけた装身具は心底邪魔で、ガチャガチャという金属音、どこに触れたら硬くて冷たいか、気を配りながらその少年をを引き寄せる。
「……母親と、一緒にいたのか?」
うう、とまだ泣き声を上げながら、それでもごしごしと眼を擦って少年は頷く。
「…いっしょに……きた、…でもぉ……いな、…いないんだよ……ぉ…」
まだ嗚咽を漏らしながらも、再び泣き叫ぶことはせず、なんとか落ち着こうとしている。
その姿を見れば、風信はもっと多くのことを確認しなくてはならないが、再び腕の中の子供が泣き出すことを思うと躊躇する気持ちが芽生えて一旦口を噤んだ。
辺りは暗くなりはじめ、今からこの子供を連れて下山することは良い選択ではないだろう。縮地千里を使うことも、いくら何もわかっていない子供の前であろうと、やはり良い選択ではない。とすると、ここで一夜を明かすことが残された選択肢で、そうなればいろいろと確認をする時間はまだ十分にあるはずだ。
そう風信自身も心を落ち着かせる。
そして改めて、この小屋に近づいてみると、わずかなすえた臭いの存在に気がついた。
その夜、泣き疲れたその少年が眠りについてから、風信は閉じられた納屋の扉を開けた。
次の朝、まだ夜が完全に明け切る前に風信が小屋に戻ると、少年は風信が残した外套を掴み、その姿を見つけると、ぱっと顔を輝かせた。
「おじさん!」
昨夜からとはうって変わって見せられた明るい表情に安堵しつつも、風信はつい眉間に皺を寄せずにはいられない。
「…おじさん……」
確かに生きてきた年数を考えれば、それ以上でもお釣りがくるくらいだが、如何せん身体の年齢と同じように精神的な若さは保たれたままなので、そこには納得し難いものがある。
「おじさん、かえってきてよかった!」
「ああ、すまない……」
浮かべられた笑顔に複雑な感情で頷きながら、風信は名乗ろうとして一瞬思案した。しかし子供相手だと思い直す。
「……風信、だ」
「ふぉんしん」
「…お前、名前は」
「あーやお」
「……阿揺? ……それはたぶん……」
愛称ではないか、と風信は思ったが、おそらくそんな話をして通じる年齢ではないのだろう。風信は幼い子供は全くの不得手で、扱い方にいちいち戸惑ってしまう。
「……わかった、阿揺。腹が減っていないか」
そう言いながら、風信は先程採ってきたばかりの果実を指した。近くには湧水があり、果実もなり、雉も捕らえられた。小屋の外には井戸もあり、古いがすこし手入れをすれば使えるようになるだろう。この少年を天界に連れ帰るわけにはいかないので、どうすべきか決められるまでしばらく留まるにしても、悪くない場所だ。
「たべる!」
飛び上がるように起き上がった阿揺は、風信に駆け寄りにこやかに果物を受け取る。
「それは? どうするの?」
そして風信の手に握られた動かない雉を覗き込んで、心底不思議そうに尋ねた。
「これも、た…いや、見ない方がいい」
「え? なんで?」
もごもごと口を動かし、くぐもった声を出しながら、まだよく見ようと身を乗り出す阿揺を押し返すようにして風信はそれを後ろ手に隠す。
「いいからもう聞くな。黙って食え。……ちょっと外にいる」
そう声を荒らげると、風信は小刀を掴んで小屋を出た。
陽が高くなると、阿揺は風信が火を起こす姿を興味深そうに覗き込み、丈夫な葉に包んで焼かれる肉をどこか楽しげに眺め、その都度なにか尋ね、焼き上がったそれを熱そうに口にしながら、また呑気に話した。
「ふぉんしんは、なんでもできるんだね」
「……昔、こんなことも経験したからな」
「けいけん?」
「……ああ、もういい。なんでもない」
思った以上にこの子供は身の回りのことはひと通りできて、しっかりしているが、思った以上に意思疎通は難しいと、風信はため息を吐きたくなる。
―殿下のところの……"花謝"、あの子も…これくらいだっただろうか……。
彼ならうまく扱ってくれるのかも知れない、と希望を募らせながらも、まだもうすこし粘ろうと風信は自身を鼓舞する。
「阿揺……ほかに、知っている人はいるか。ここに来る前、いた場所の名前は、わかるか」
阿揺はまだもぐもぐと口を動かしながら、のぼる煙を眺めながら答える。
「わかんない」
風信が返す言葉を考えているうちに、少年は同じように淡々とした口調で続けた。
「でも、おれのおとうさんは、ろうやってところにいるんだって」
「……なんだって…?」
風信が驚いて詰め寄ると、阿揺はなんでもないふうに返す。
「ろうや」
「ああ……、そうか」
「おれのいたところからはとおいんだって。とおいから、あえないんだって」
「……そうか」
おそらく彼にはその意味がまだわからないのだ。屈託のない表情で、問いかける。
「ふぉんしんは、しってる? どこにあるの?」
「…………」
「もしかして、おかあさんはそこにいったのかな」
「…………」
「もう、だめだよね。おれをわすれていっちゃうなんて、おかあさんはおっちょこちょいなんだよ」
阿揺は笑って、うーんと伸びをして、清々しい春の空を見上げる。
「はり、しごと? をよくやってるけど、おっこちょ…おっちょこちょいだからすぐはりをなくすんだ。いつもおれがさがしてあげるんだよ」
得意げに、機嫌よく阿揺は話す。よく見れば、睫毛が長く、目鼻立ちは整って、子供ながらに上品な顔つきをしている。
「ねえ、ふぉんしん。しゃべれないの? どこかいたいの?」
風信は、そう言われてしばらく経ってから、ああ、と不明瞭な答えを伝えるだけだった。
そのまま六日が過ぎた。三日を過ぎたあたりから、あと一日だけやってみよう、あと一日頑張ろう、となんとか日々を重ねている。
幸いなことに、この場所は暮らすことにそこまで不便ではないし、阿揺自体は割とものわかりもよく、最低限のことはできる。遊んでくれとせがむことはあれど、寂しがって泣くこともない。
久しぶりの慣れない洗濯や炊事で手が荒れようとも、風信にとってはそう気にかけることではないが、ようやく日が暮れて、阿揺が眠りにつくのをただ隣で眺め、すこやかな寝息に安堵する頃には、普段からは考えられないような疲労感に襲われている。
しかし風信は神官としての公務をこなさなくてはならない。多くのことは南陽殿の小神官にやらせることもできるが、いつまでもそれを続けることはできないし、指示もしなくてはならない。風信自身が確認したり、手をくださなくてはならないことも少なからずある。以前下界にいながら公務をこなしていた頃は他に構うものもなかったが、今回はまた違うのだ。
「ふぉんしん、あそぼう」
木の枝をふたつ手にした阿揺が、建屋の室内を修繕している風信に歩み寄ってくる。
「ああ……なにを……」
一瞬躊躇してから作業の手を止め、向き合おうとした風信の脳内に声が響いた。『将軍?』
「ちょっと待ってろ」
風信は顔を輝かせていた阿揺にそう言うと、背を向けて通霊に応答する。
『ああ、その件は……もう少し待ってくれと伝えろ……わかっている、かならず……』
顔を歪ませながら、積み重ねられていく催促に耐える。ガタンと大きな音がして、風信が慌ててふり向くと、立て掛けていた風信の長弓が倒れ、矢筒も巻き添えになってばら撒かれていた。傍には阿揺がいて、焦った様子で矢を集めようとする。
「おい! 触ってはだめだと言っただろう!? おとなしくできないなら、外で遊んでろ!」
思わず声を張り上げると、通霊の向こうからは訝しむ声が届いた。
『ああ、なんでもない、…………ああ、…それぐらいなんとかしろ‼︎‼︎』
最後には通霊までも語気を荒らげて一方的に切った。
文字通りの頭痛に苛まれ、風信は眉間を押さえる。深くため息を吐いても、何かが解決するわけでもない。
気を取り直して風信は小屋の外に出て、阿揺の姿を探した。
が、姿は見えない。
「阿揺?」
どこかの木の陰かと小屋を一周するが、それらしき姿もない。
小さな井戸は、さすがに子供でも、落ちられるほどの大きさではない。
「阿揺!」
声を張り上げるも、答えはなく、風信の背筋はすっと冷たくなった。高鳴る鼓動は痛み、心当たりもないままに、走り出す。
本当にただ闇雲に探し、これはもはや奇跡と言っても過言ではないだろう。
茂みの奥で、座り込んでいる少年の姿を見つけた時、風信は本当に、膝が抜けそうだと思った。
安堵から腹立たしさが込み上げ、一度大きく口を開けたが、大きく吸った息をそのまま吐いて、風信は彼に歩み寄った。
「阿揺」
しゃがみ込んで、枝で地面を何やらぐりぐりと引っ掻いていた阿揺は、風信の声に気がつくと、悪びれる様子のない笑顔で顔を上げた。
「ふぉんしん!」
そこでやはり風信の中でなにかが弾け、腹の底に力が入る。
「勝手に遠くに行くな‼︎ 帰れるのか⁉︎」
突然の怒号にやはり阿揺は顔を強張らせ、みるみるうちにしゅんと身体も萎ませる。
「ごめんなさい……」
その消え入りそうな声に風信も我に帰り、額を押さえて俯きながら首をふった。
途中で彼の相手を投げ出し、ひとりで外に行けと言ったのは自分なのだ。危険なことなどほとんど理解できないような子供相手に、過失があるのがどちらかだなんて明らかだ。
「ああ、違う……すまない…悪い……、ごめんな。悪いのは俺だ」
本当に不甲斐なくて、嫌になる。
ため息と共に目を開けると、阿揺が枝を動かしていた地面が目に入った。それは何か描いてあるようにも見える。
「…何か描いていたのか?」
風信がもう怒っていないことを悟った阿揺は、再び顔を綻ばせて、頷いた。
「うん! こっちはおかあさん。こっちはふぉんしん」
よく見れば、そのふたつは長い髪をおろしているかそうでないかくらいの違いしかないように思えるが、確かに人間に見えなくもない形をしている。
「ああ、そうか……」
風信は曖昧に頷き、帰ろうと呼ぶために、手を伸ばそうとした。すると。
「ううぅ……」
阿揺は突然顔をくしゃりと歪ませ、呻き声を上げた。
「⁉︎ どうした、どこか痛……」
慌てて傍に屈み込んだ風信の言葉は、叫び声にかき消される。阿揺の閉じた瞳からは次々と涙が溢れ、なにか呻き声を上げながら、しゃくりあげる。その合間に辛うじて聞き取れたのは、『おかあさん』。
「…………」
風信はなにも言えずに、ただ彼の背中をぎこちなくさすった。泣き声は胸の中に移り、硬く冷たい装身具をつけていない代わりに、直にその声が胸に伝わってくる。
風信は慌てて屈んだ拍子に、阿揺の描いた絵を踏みつけてしまった。どんな気持ちでこの絵を描いていたのかなんて、考えたくもないが、目を背けられないこともわかっている。
風信は黙ったまま、阿揺の背を撫でたり叩いたりしながら、その嗚咽が小さくなっていくのを見守った。
小さくて、柔らかくて、温かい手が風信の指を何本か握っている。
足下の木の根や枝を避けたり踏んだりするたびに、その手はぎゅっと力を込めた。
小屋に近づくと人影のようなものがあり、風信は一瞬身構えたが、すぐにその、思ってもみない来訪者に気がつき眼を大きく見開いた。
「ふぉんしん、だれかいるよ?」
「ああ、大丈夫……知り合…友達、だ」
腕を組み、怪訝な眼差しで小屋を眺め、同じように冷めた眼差しでふり向く。
「……なんだ、誘拐でもしたのか?」
言葉は冗談めいているが、その表情は決してそうではない。
「……慕情」
冷たく睨むその表情を、そのまま受け取るのならば、彼は静かに怒っているようだった。
風信の手を握る指に、力が込められる。
「……そんな怖い顔をするな。子供が怖がるぞ」
慕情の眉間には深く皺が刻まれるが、風信はそれを気にかけるより先に半歩後ろの阿揺をふり向く。
「すこし話をしているから、先に入ってろ。…あれには触るなよ」
怪訝そうに慕情を覗き込んでいた阿揺は、はあいと間延びした返事をして小走りで小屋に戻っていく。
「……どうしたんだ」
その後ろ姿を見送って風信が慕情に視線を戻すと、慕情は苛立ちを露わに詰め寄った。
「どうした? それはこちらの台詞だろう。長らく姿を見せないから何かと思えば、お前は何をやっている?」
鋭く刺すような視線を疎ましく思いながら、風信は視線を逸らす。
「……お前は気にしなくてもいいことだ」
ぽつりと言ったそれは慕情の導火線に完全に火をつけたようで、殴りかかる勢いで風信に伸びた腕は辛うじて着地点を変え、その胸ぐらをぐっと掴む。
「気にしなくていい? 南陽殿の無能な小神官どもが手に負えず苦戦している仕事がこちらに回ってきている! いい迷惑だ!」
「くそっ、無能とはなんだ⁉︎ 人の部下にけちをつけるな!」
同じように掴み返そうと伸ばした手を、風信はすんでのところで止め、引っ込めた。
「…いや、……それは、すまない」
それだけ告げ、口を噤む。
風信が応じなければ、慕情がこれ以上食ってかかったとしても何も前に進まない。慕情はぎり、と歯を軋ませて、胸ぐらを掴む手を離した。
「……話す気がないのなら……勝手にしろ。仕事を疎かにするな。迷惑をかけるな。……それだけだ」
慕情は冷たく言い放つと、くるりと背を向け去っていってしまう。
風信が下界に降りてくるすぐその前には、閨で短い別れを告げ出立したはずだった。それがいま、慕情は一方的に怒りをぶつけて帰って行ってしまった。風信も、慕情を怒らせている理由に心当たりがないわけではない。それでも―自分でも自分が何をしたいのかわからないでいるのに、伝えることなどできなかったのだ。
ため息と共に踵を返し、風信は小屋の中へと戻っていく。
「あ、おかえり」
風信が戻ると、阿揺はいつのまにか持ち込んだ落ち葉を重ねて積み上げて遊んでいた。
「……ただいま」
風信は呟くような声で返す。
「ともだちはどこ?」
十数枚積み上がったそれに、まだ落ち葉を積みながら、阿揺は首を傾げた。
「……帰ったよ」
「あっ」
阿揺が最後の1枚を置いたところで、落ち葉の塔は無惨にも崩れ落ちる。
「くずれちゃった……じゃぁつぎはいつくる? あした? あしたのあした?」
「……もう来ないんじゃないか」
「なんで? あ、ねえふぉんしん、これやってみてよ!」
風信は阿揺の問いには答えず、阿揺の向かいに膝をついた。そして崩れた落ち葉を1枚ずつ重ねていく。それは数枚、重ねたところで崩れ落ちた。
「あーあ」
阿揺が落胆の声を挙げる。
「くそ、案外難しいな」
「うん。ね、もういっかい」
風信は既にもう気乗りしないが、仕方なくまた落ち葉を重ねはじめる。が、やはりまた崩れてしまう。
「あーあ。じゃあもういっかい」
「もういいだろう、自分でやれ!」
思わず語気が強くなり、風信ははっとするものの、阿揺はそう気にしていないようだ。ただどこか気まずく、風信は頭を掻く。
「けんかしたの?」
「え?」
落ち葉を積みながら、阿揺が唐突に言うものだから風信は動揺してしまう。
「ともだち」
「……そうかも知れない」
「けんかしたら、ごめんなさいだよ」
「…………」
風信が答えられないうちに、阿揺は今度は落ち葉の塔を完成させる。
「できた!」
ぱあっと明るい顔になり、上機嫌で、阿揺は今度はなにかの歌を口ずさむ。
「…ねえ、つづきわすれちゃった。ふぉんしんはわかる?」
「……知らん……」
怠惰なわけではなく本当にわからず、風信は力なく首をふってしまう。ふと向けた視線の先で、阿揺の膝元が破れているのに気がついた。繕ってやらなければ、自然とそう思って、ただ自分にできそうもないことで、心に影が落ちる。
もうすぐ陽が落ちようとするところで、小屋の中を夕焼けが照らしはじめる。まだ一日が終わるわけではなく、風信はそれをとてつもなく長いと感じている。
長過ぎる一日が終わり、次の一日はまた平穏に終わりを迎えようとしていた。
阿揺を狭い寝所に寝かしつけると、風信は扉を閉めてそこを出て、薄暗い灯りの中で、阿揺の膝の破れた衣服を手に取った。
おそらく上等な生地だとは言い難いが、素人目に見ても、縫い目は非常に丁寧で美しく、そこに込められた想いを感じずにはいられない。
昨日からずっと、同じことばかりしか考えられず、風信はついに意を決して通霊口令を唱えた。夜は大分更けているが、きっと応じてくれると祈るような気持ちで。返答はそう待たずに届いた。
『……なにか?』
『…頼む。慕情……助けて欲しいんだ』
「助けて欲しいだって? ずっと姿も見せず連絡も寄越さずなにをしているかと思えば、そんな情けない泣き言が言えるなんて、相当参っているようだな」
小屋の前で、月明かりに照らされ、顔を合わせるなり慕情の第一声はそれだった。 刺々しく、嘲るように言葉を吐く。
普段なら風信も強く言い返していただろう。慕情が下界へ降りてきてくれるまでに、線香一本分の時間も経っていないのでなければ。 ※線香一本分の時間=一炷香…三〇分
目の前のことで精一杯で気も回らないでいたが、もしも慕情に同じようなことをされたら、風信だって同じように怒っていただろうと思う。どうして頼ってくれないのかと。
心を許して過ごした時間はもう短くはない。それでも言わなかったことに理由がなかったわけではないが、風信はやっと伝えることに決めた。
「……慕情、悪かった」
慕情は黙ったまま腕を組み、風信の横をすり抜けて、小屋の中へと足を踏み入れる。
風信がその背を追いかけると、慕情はぐるりと小屋の中を見回し、その最後に閉じられた扉の方に視線を向けていた。
「……眠ってる」
風信はそう告げ、慕情の腕を掴む。
「……話す。座ろう」
そうは言っても、茣蓙も何もないが、風信が壁に背を預けて地べたに胡座をかくと慕情もそれに倣って隣に腰を下ろした。慕情が身体を落ち着けるのを待って、風信は口を開く。
「俺が見つけた時……母親がいないと泣いていた。……既にもう亡くなった後だった。でもあの子は知らない」
「……そもそもどうしてこんな山の中にいたんだ?」
「わからないが…その数日前に母親とふたりで来たのだと思う。駕籠か何かで。おそらく……元いた集落かなにかに、留まれない理由があったと……心中、するつもりだったのかも知れない」
なぜ阿揺は残されてしまったのかは疑問が残るが、追い詰められて気が触れてしまったとすれば、母親でも咄嗟になにをしてしまったのか、通説や理想で推測できることではないだろう。
「…それで? 自分の立場も忘れて世話をしていると?」
「……父親は牢屋にいる、と言っていた。たぶん意味は…わかっていないだろうが」
風信は真っ直ぐ前を見たままふり向くことはできないが、隣の慕情の気配がほんのわずかに、変わったような気がした。迷いながらも、続きを口にする。打ち明けようと、決めたのだから。
「……母親は……針仕事をしていたんだそうだ。……こんなことがあるか? まるで……お前みたいだ」
慕情は反応しない。
「あの子に、なにかしてやりたくて……できることなら自分だけの力で。でも……それも、俺の自己満足に過ぎない」
まだ出会ったばかりのあの頃。風信は慕情がその境遇に苦しんでいたことに、気がついていなかったわけではなかった。でも、おそらくそう興味もなかった。風信が苦手としていた彼の性格が、その苦しみから生み出された一種の盾だなんて思いもしなかった。いま思い返せば、もっと寄り添うことができなかったのかと思う。
「……お前は嫌がるだろうと思ったんだ」
だから言えなかった。
ずっと昔のことを後悔して。その慈悲を誰かに向けようだなんて。身代わりのように。
視線はいつの間にか床を捉えて、項垂れるように俯いて、風信の声はくぐもったようになる。
「あの子はお前じゃない、わかってる……でも、諦めたくない。寄り添ってやりたい。でも、うまくいかない、どうしたらいいかもわからない、子供の世話なんてしたことがないし、正直なところ、相手にするのも得意ではない……このままではいけないとはわかっているのに……本当にお前が言う通りだ、情けない」
慕情はじっと黙って耳を傾けている。それはまるで断罪を待っているかのような時間で、風信は顔を上げることもできない。
「……全くだ。そんな自己満足のために、本来の仕事を疎かにして、下界に入り浸って…もっと弁えろ」
慕情の声は冷たく、しかし抗うこともできないほど正論で、風信は反論さえ浮かばなかった。息の詰まる沈黙が流れる。
「…そんな昔のことをいつまでも気にかけているなんて、お前は本当に……」
慕情は呆れたように呟く。それからゆっくりと風信に身を寄せて、俯いた頬にそっと口づけた。
そして囁く。
「……馬鹿だな」
小さな灯りと、窓から差し込む月明かり。
それだけが頼りの暗い部屋の隅で、熱い呼吸が重なり合う。
風信は、首に回される慕情の腕の力がいつもより強いと感じ、慕情も同じように、背を抱く風信の力がいつもより強いと感じている。
お互いにほんのすこし心が疲れていて、それぞれの理由で、お互いをできるだけ近くに感じていたいと思う。
だんだんと息苦しくなる口づけに溺れ、それでも一縷の理性が警鐘を鳴らす。
「……だめだ……」
呼吸の合間に掠れた声で囁き、慕情は閉められた扉を窺い見た。
「…わかってる……」
短く息を吐き、風信は慕情の首筋に顔を埋める。
慕情はその後ろ髪に手をやり、ぐしゃりと掴む。
風信はやがて首をもたげ、慕情は俯く。
「……わかってる……」
言葉とは裏腹で、また深く熱を交換し、ふたりはもうお互いに止めていられないことを知っていた。身体を、痛いくらいの熱を押し付け合う。
「……表に出ろ」
深く息を吸った後、慕情は低い声でそう言った。
風信が意図を探ろうと動きを止めている間に、素早くいくつか重ねた衣を脱ぎ落とす。
「……お前の外套なら、すこしくらい汚れたって構わない」
そう言って床に乱雑に落ちているそれを拾って立ち上がった。
戸口に立ち、月明かりに照らされるその影は、ひどく美しく、強かで。風信の胸の奥を激しく焦がす。
夜風はまだ冷たい。
それでも、重ね合わせる熱は汗ばむほどだ。
想いを通じ合わせてもうかなりの歳月が経っているが、こんなふうに狂おしいほどに、お互いが必要だと強く感じたのはいつのことだっただろう。
翌朝目を覚ました阿揺は、慕情を見るなり寝起きとは思えない元気さで、おおいに喜んだ。
「ふぉんしんのともだちだ! なかなおりしたの?」
「……あ、ああ」
風信は鍋をかき混ぜながら、曖昧に頷く。
慕情は米や保存食など暮らしの助けになるものをいくらか持ってきてくれており、朝からいつもと違う食事の匂いに、阿揺も見るからに心を躍らせている。
「よかったね! いいにおい…おにいさんがくれたの?」
「お兄さん⁉︎ お前、俺のことは…」
「あっ、おれのふく、なおしてくれるの?」
風信の苦言は元気な声にかき消され、阿揺は破れた衣服を繕う慕情に駆け寄り手許を覗き込んだ。
「ああ、すぐできる」
そう言った慕情に、阿揺は「ありがとう!」と満面の笑みを向ける。
それを眺める風信は、言いようのない感情がせり上がるのを感じ、目を逸らした。
食事を終えた阿揺は上機嫌で、また同じ歌を口ずさみ、しかしやはり途中で止まってしまう。
「ねえむーちん、このつづきがわかる?」
すっかり懐いた阿揺はそう問いかけ、慕情は迷うことなく、ああ、と答えた。
それから風信は慕情が歌うのを初めて聴き、心底驚かされる。こんなに長い時を共にしていても、まだ知らないことがあったのかと。控えめでも、美しくて、優しい歌声で、風信が思わず動きを止めてその姿を見つめていると思い切り睨まれた。
やがて風信は阿揺を連れて山の奥を散策する。慕情は一緒について来ることはないが、彼らが木の実や獲物を手に戻って来るとき、きっとそこにいてくれると根拠のない未来を風信は描き、それは本当にその通りだった。
得意の弓を操り自ら狩ってきた雉を捌き、木の枝を尖らせて串にして刺し、木と枯葉で火を熾す。
その一連を立ったまま眺めていた慕情はぼそりと漏らす。
「……案外器用だな」
風信は慕情からほとんど聞くことのない褒め言葉にわずかに瞠目し、それから「こんな経験もしたからな」と笑った。
初めて会った時の印象というものは、思いの外ずっとつきまとうもので、慕情にとって風信は、やや粗暴な印象すらあれど、あくまで皇宮に仕える綺麗ごとしか知らないような人間だった。例えば半分踏み潰された果実を拾ったり、雨水を求めたり、そういうことにはまるで縁がないとでもいうような。
しかしそれもきっと、彼らが一度袂を分かったその時までのことなのだろう。
皮肉を込めて慕情は返す。
「……私よりも長く」
「慕情、」
風信は咎めるように眉を顰めて見上げた。
「けいけん? ってなに?」
阿揺が間に入って首を傾げ、淀みかけた空気は一変する。
「……したことがある、ということ」
慕情がそう教えてやると、阿揺は何やら思い出そうとするように唸る。
「したことがある……」
風信がやや唖然としてそれを眺めていると、阿揺はやがてぱっと明るい表情になり、
「じゃあ、おれはかりがけいけんだ!」
と言った。
「狩り?」
慕情が眉を顰めれば、阿揺は得意げに頷く。
「そう! かり! きのみもあつめたしよもぎ? もとったもん」
言いながら大きく手を広げて揺らしている。
「ふぉんしんはね、すごいんだよ、こうやってね……」
阿揺は弓を構える真似をして、めいっぱい肘を引いてぱっと離す動作をしてみせた。
その瞳はきらきらと輝いて、半ば興奮気味だ。
「……努力すれば、お前にもできるようになる」
慕情がそういうと、彼は更に表情を輝かせた。
「ほんとうに⁉︎」
「……ああ。本当に」
慕情が頷くと、阿揺は嬉しそうに風信の背にどんとぶつかる。
「おい、危な……」
「どりょく、ってなに?」
払い除けようとした風信は、固まって眉を寄せる。慕情はその困った様子に半笑いで視線を送り、辛うじて音にならない風信の舌打ちが今にも聞こえるようだ。
「……頑張ること? だ。……諦めず。たぶん」
「うん? じゃあおれがんばる!」
風信の苦しまぎれの説明を理解したかは定かでないが、阿揺はやる気に満ち溢れた表情で頷いた。
「よし、じゃあ、まずは…中で木の実と蓬を分けてきてくれ。……できるか?」
「はあい!」
阿揺は元気よく答えると、颯爽と小屋の中に駆けていく。
その後ろ姿を見守ったあと、慕情は風信に向き直った。
「……子作りの神でなく、子育ての神にでもなるつもりなのか?」
もう十分に聞き飽きた呼称と慕情の新たな皮肉は風信を苛立たせるには不十分で、返す言葉を見失って風信は黙ったままだ。
すこし経ってから、慕情が先に口を開く。
「…まあ、いいんじゃないか」
盛大なため息混じりの慕情のその言葉に、風信は驚いて顔を上げた。
煙を迷惑そうに払いながら、しかし大したことでもないように慕情は言う。
「成年するまで、面倒をみてやればいい。元いたところに戻れないなら、どこか適当な集落をみつけて……謝憐のところの花謝も、同じくらいの年頃だろう。あの人なら、頼まなくても手を貸すだろう……それに十年なんて…私たちにしてみればそんなに長い時間ではないだろう? ……それから、もし技量が足るなら、そして本人が望むなら、中天庭に呼んでやってもいい」
慕情の思考は基本的には至って合理的だ。そしてそれゆえに大概は物事に対して否定的で、冷淡で、それがふたりの間にいくつの衝突を生んだことだろう。
珍しく建設的な慕情の台詞に、風信は呆然としている、それがたぶん正しい。
「十年……」
風信は自嘲気味のため息を漏らす。
「……一日がこんなに長いと思うのに?」
思わずそう口に出て、らしくないなと風信は首をふった。
そうこうしているうちに煙を吸い、鼻の奥に突くような痛みを感じながら咳き込む。
慕情はその横にしゃがみ込んで新たな小枝を焼べ、風信の手から扇代わりの木の板を奪い取ると煙を遠避けるように扇いだ。
「……手伝ってやってもいい」
その言葉は冷たいが、声は温かい。
煙が染みた眼で風信は慕情の横顔を見遣った。
風信は無性に彼に触れたいと思い、頬に手を伸ばす。それにまるで気がつかないかのように、動じないのは慕情の許容した証だ。
はじめに互いの髪が頬をくすぐり、それからそっと唇に辿り着き、もうすこし、と欲を出しかけた時、背後から届いた「あっ!」という甲高い声に風信は弾かれるように慕情から離れてふり向いた。
そこには阿揺がにやにやしながら立っている。
「ふぉんしん、いまちゅーした?」
「おま……なんでそんなこと知ってるんだ⁉︎」
慌てふためき大声を出す風信の横で慕情はかすかに笑い、阿揺は屈託なく笑っている。
「おれもしてみたい!」
「はぁ⁉︎ なんだって⁉︎ なにをいうんだ、このくそませ餓鬼……」
風信の大声は森の木々を揺らすのではと思えるほどで、阿揺も一度は驚いて身をすくめたが、同じように肩をすくめて眉を顰める慕情と目を合わせると、あははと笑い出す。
「こんなむさ苦しいのが初めての相手だなんて気づいたら死にたくなるから、やめておいたほうがいい」
そう慕情が言い、風信はまた大声を上げた。
「おい、なんだとくそったれ! ……いや待て、お前」
「じゃあむーちんがいいな」
「もっとだめだ‼︎‼︎‼︎」
その声が辺りに響き渡ると、キャハハと笑って阿揺が逃げ出す。それを追いかける風信と、器用に逃げる阿揺はやがて鬼ごっこのように走り回り、慕情はそれを眺めて肩を震わせた。
空は澄んで、時折吹く風は暖かい。
清明節。
先祖の墓を参るこの日に、晴れやかな空、生き生きとした新緑、咲き誇る桜が彩を添え、気持ちを穏やかにしてくれる。
多くの人はその鮮やかな景色と共にお参りを済ませ、残りの時間を家族と共に過ごすものだ。ここは大きな墓地ではないにしても、やはり他に人影はない。
ただ、夕暮れに染まる前のすこし色褪せた景色もひどく美しい。
風信が紙銭を燃やし、祈りを捧げる姿を慕情はその背後から眺めている。
その墓はもう古いが、一度丈夫に修繕してからは、細かな文様もまだ美しく残ったままだ。
この墓の存在を知ってからは、風信はいつも慕情と共にここに訪れた。
今日も、この日だけは、と、適当な理由で阿揺を信じ込ませ、分身を置いてやって来ている。
毎度彼はなにかしらの供物を手にして来るが、今日、風信が供えたのは鮮やかで美しい桜桃だった。
この季節に手に入る桜桃を、慕情は知らない。
慕情の母が亡くなってから、もう充分過ぎる時が経っている。とっくの間に輪廻転生を果たし、それも一度ではなく、今はもしかすると、少年や少女の姿をしていることだって有り得るだろう。
この墓を参り続ける意味も、慕情自身は自嘲気味に考えてしまうが、風信は一度だってその疑問を口にしたことも素振りもない。
立ち上がった風信の背に、慕情はひとつの疑問をぶつける。
「お前から、家族の話を聞いたことがない」
その言葉に、風信はふり向く前に動きを止めた。
慕情にとってこの疑問は今に湧いたものではないが、ずっと深くは考えてこなかった。この数日のうちに、気になり始めたものだ。
すこしの沈黙の後、やはりふり向かずに風信は言う。
「……俺には縁のないことだ」
その淡々とした声だけでは、彼の感情は窺い知れない。
「小さい頃のことなんて、みんなそう覚えているものなのか? …俺はそうじゃない。本当によく覚えてないんだ」
どこまでが真実かはわからないが、慕情の知る限り、風信は嘘をつくのは得意ではない。
「殿下の護衛になる前から仙楽の近衛隊の訓練を受けていたから宿舎に住んでいたし……父のことは、尊敬していた、かも知れないが、どこか遠い存在だった。いま思えば……王后さまのことは……すこし違うかも知れないが……母のようにお慕いしていたかも知れない、くらいだ。だから」
風信は真っ直ぐ前を見据えている。ぴんと張った広い肩、真っ直ぐに伸びた背筋。
しっかりとした口ぶりで告げる。
「俺には気にかけるような家族はいなかった」
すべてに反して、その言葉、その文字だけがどこか苦しげで、慕情は、彼が慕情の知らないどこかを見ているような気がした。
慕情は風信にふり向いて欲しいと願う。
「……私がなってやろうか」
ふり向いた風信の視界がはじめにとらえたのは満開の桜で、夕暮れ前の低い太陽に照らされて、煌々と輝いていた。その逆光の中に慕情は佇む。
それを見ている風信は、驚きとも、喜びとも、他のどれにも、うまく形容できない感情で満たされている。
ただ、真っ直ぐと目を凝らせば、慕情は微笑んでいる。
慕情が笑っているのは決して珍しいことではない。多くの場合は、皮肉や蔑みと一緒なのだが。
いま慕情は、風信が知っているなかでいちばん柔らかく笑っている。
先程の言葉は冗談だと笑い飛ばされることを半分覚悟していた風信を裏切るように。
「なにか……不満でも?」
慕情はそう言って唇をわずかに尖らせ、眉を顰めた。
慕情は立ち尽くしたままの風信にゆっくり歩み寄る。
触れられるくらいの距離に立って、慕情の指先が風信の目尻に触れた。
風が吹き、花びらをいくつか舞いあげる。
「……泣いてないぞ」
風信は慕情のその手を掴み、すこし顰められた慕情の顔を、その真意を確かめるようにじっと見た。
「……まだ、だろう? 情けない顔……」
ふ、と慕情は笑い、その瞬間に雫がすべり落ちる。
慕情の頬に。
「……なんでお前が泣くんだ⁉︎」
驚き過ぎて素っ頓狂な声をあげ、風信は慕情の手を離し肩を掴んで覗き込んだ。慕情はそれを避けるように俯いて、自由になった手でごしごしと目を擦る。
「ごみが入っただけだ……」
乱暴に目を擦る、その時間が存外に長くて、さすがの風信も、まだ取れないのか、と言うこともなく言葉を失った。肩を掴んだ手を、背中に滑らせる。
やがて、慕情が笑い始めると、風信は腕にもう少し力を込めて、常套句を返す。『ごみが入っただけだ』と。
阿揺は喉が千切れんばかりの大声をあげて泣いている。
いまはまだ、仮づくりの小さな墓の前で。
風信は腕の中の幼な子をただ見守り、ただ辛抱強く、じっとその哀しみを受け止めている。
慕情もすぐその傍にいて、ただ傍にいて、しかしそれだけできっと充分だった。
小屋の中には風信と阿揺が一緒に摘んだ蓬で慕情がつくった清明餅があり、泣き疲れて眠るだろう阿揺が目を醒ましたら、彼らは一緒に分け合って食べるつもりだ。
***
南陽将軍は下界にいることが多い。
その話が持ち上がる時、古参の神官の多くは懐かしく目を細めるものだ。
それは時に、玄真将軍と顔を合わせないためだと噂されていたことは、比較的若い神官たちを驚かせる。
その青年が中天庭に登用された頃には、南方の寺院にはふたつの神像が祀られるようになっていた。
もともとそのふたつの神像があらわす神は最悪の相性で、それぞれに信徒がいたが、それもお互いに敵対しあい、中秋節にはどちらが多くの灯籠を上げるか最後まで競い合っていたものだ。
それがいつしか、正反対の彼らは陰陽の理に適っているととらえられはじめ、いまとなっては揃ってひとつの屋根の下に収まるものだから、時が経つということは本当に面白い。
そして更に時が過ぎ、南方の寺院に祀られる神像はなんと三体になった。
新しく建設された寺院はこの日が初めての開所で、参拝する信徒で賑わっている。
それを横目に、彼は言う。
「この調度品は趣味がいい。この神像は、すこし不細工……いや、思い違いか。こんなものだ」
もう一人がため息混じりに言う。
「…おい。毎度ぶつぶつ批評するのをやめたらどうなんだ。お前は本当に変わらないな
……」
更にもう一人が言う。
「はいはい、喧嘩はしないで。本当にいつまでも仲が良い……ああほら、たくさん祈りが届いてきます……待って。いまその林檎を取ったらさすがに騒ぎになるでしょう」
彼らの姿は、参拝客には見えていない。
そして彼らに届く祈りは―
『子宝成就』『子孫繁栄』『家内円満』『継往開来』
「道長! 教えてくれ、ここの神様は、ひとりは弓、ひとりは刀。それに子供? どういう言い伝えがあるんだい」
参拝客のひとりがそう尋ねると、その答えを聴こうと道長の周りにどんどん人が集まってくる。
三人は神像の影からその話に耳を傾け、頷いたり、怒ったり、笑ったりするのだ。
そうして尽きることのない祈りと共に、彼らは語り継がれていく。
※『継往開来』…子供の成長を願う祈り。
家督、家業を継ぎ発展させていってくれますように。
先人の事業を受け継ぎ、未来を切り開く。 過去のものを継続し、それを発展させながら将来を開拓していくこと。(参考元:フォトショップみやぎ http://photo-miyagi.com/hagaki/Prayercharacter.htm)