この関係は、期限付きのものであると、知っている。
「夜鷹さーん、もう店閉めちゃいますよ」
入り口の扉から外を覗きながら、由蛇は店内に向かって声をかける。今日はバーの営業には向かない天気だった。というのも開店早々に降り出した雨のせいで、常連のお歴々が帰ってしまってからは、完全に客足が遠のいてしまっていたのだ。
「夜鷹さん? マスター? ……またか」
再三の呼びかけにも、応じる様子はまるでない。呆れたふりをして、少しだけ眉を下げる。由蛇は表にかかった看板をひっくり返して、仕方なく店の照明をひとつ落とした。
「趙雲」
「ここに。」
「雨、あとどのくらいで上がりそう?」
あまり大きな音を立てないように、と殊更丁寧にグラスを洗う。その程度で起きるような人ではないと、知っているくせに。
優秀なペットロボは、提灯の明かりをほのかに光らせながら「あと一時間後デス」と教えてくれた。
「一時間……あんま、長くないか」
粗雑な仕草で手の水滴を拭う。大きな欠伸をこぼしながら、由蛇はモップを手に取った。掃除なんて、ロボットなり設備拡張なりで片付けてしまえばいいのに、人力に頼るのはここのマスターの癖のようなものだ。——昔から、あの人は、そうだった。こんなところだって変わっていないのに、あの人はもう由蛇の「先輩」ではない。つい面影を探してしまう自分を内心で嘲笑して、彼は無言のままに清掃を終わらせるのだった。
「よし、今日の仕事はおーわり! マスターは……まだ夢の中か」
予想に違わず、このバーの店主——棗夜鷹は、未だソファの上で健やかな寝息を立てていた。今日は、そう悪くない夢らしい。うなされている様子がないことに安堵して、由蛇は向かいのカウンター席に座った。流れていた音楽はいつの間にか趙雲が止めていたらしい。扉を打つ雨音だけが店内に響いて、まるでこの雨の夜に、ここで二人閉じ込められてしまったみたいだった。
——それでも、いいか。
無感動を装って彼の寝顔を見つめながら、ふとそんなことを思う。足を組んで、頬杖をつきつつ目を細めた。それで、いいじゃないか。あなたが生きてここにいて、オレがいて、この店がある。ここには過去も未来もないけれど、それの何が悪い? 停滞を望むことの、何が、悪いのだろう。
「雨が、止みマシタ」
はっとする。趙雲の言葉を聞いて初めて、眉間に皺が寄っていたことに気がついた。閉じ込められたと思っていた檻はすっかり霧散していて、途端にこの世界の広さを恨んだ。
「そろそろ、起きる頃かな」
起きてほしい。いや、起きないでいて。このまま、この時間が永遠になってしまえばいい。他に何も望まないから、永遠に、この人の隣にいられればいい。
そんな奇跡は起きないとわかっていても、今だけ、この瞬間だけは、無謀な祈りを許して欲しかった。
「ん……あれ、由蛇……」
「はーい、おはようございまーす。ちょうど雨止みましたよー、夜鷹さんてばラッキーじゃん」
寝起きの彼に、普段通りの軽口を返す。
「孔雀は……」
「孔雀? 何、まーた寝ぼけてんスか、一人で帰れます?」
ああだかうんだか判然としない返事に苦笑して、由蛇はカウンター端の丸椅子から降りた。
「ほら、傘。明日も観光区長の仕事あるんでしょ? あとはオレがやっときますから!」
残った作業なんてほとんど無いくせに。それでも軽薄な笑みを崩さず、由蛇はひらりと彼を送り出す。扉が閉まったその瞬間に、どっと疲労が襲い来るのがわかった。
奇跡は起きない。永遠だって存在しない。この小さな籠はもう、開け放たれてしまったのだから。時間は否応なしに進んでいくし、彼の隣に立つべきは、本来由蛇ではないのだ。そのことで傷つくのには、ずっと昔に慣れてしまった。
冷たい床にどさりと座り込む。扉に頭を預けながら、由蛇はふと考えを巡らせていた。
「あの人」はきっと、すでに訪れてしまったのだ。それは、はじめから、わかっていたことで。彼が由蛇の手を取ることは、一度だってなかったから。そもそも、由蛇のことだって、本当の意味で「覚えて」やしない。忘れられる痛みはとうに感じなくなった。隣で生きたいだなんて思いも、綺麗な名前なんてつけてやれないこの感情も、きっとどうにか片付けられる。今までもうまくやってきたのだから。だから、せめて、あの人が本当のことを思い出してしまわないように。そのためなら、何だってするから。それだけは、どうか、どうか——
「オレは、あんたが……あなたが、生きていてくれるだけで、いいのに」
思考も感情もぐちゃぐちゃで、何一つまとまってくれない。知らずのうちに、生温い涙が頬を伝っていて、けれどそれが何の涙なのか、由蛇にはもう、わからなかった。