僕には、お気に入りの店がある。港町として言わずと知れたHAMAの、十七区。大通りを少しだけ曲がった場所に、そのバーはあった。扉を開けると、からんからんと小気味良いベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませ。いつも通り、カウンター席でいいかな」
落ち着いた雰囲気の店内に、紳士然としたバリトンボイスが響く。マスターの大人の色気にはやはり慣れないままで、僕はおずおずと頷いた。
カウンターの端近くでは、ここのペットロボである趙雲が、メロウなBGMを奏でて浮かんでいる。その側にそっと腰を下ろしつつ、僕は顔を上げた。
「あ、いらっしゃーい。オーダー、まだッスよね? 何がいい?」
ラフに声をかけてきたのは、ここの若いバーテンダーだった。ギムレットで、と普段通りの注文を返せば、彼は「それが得意なのはマスターだっての」などとぼやきながらも、慣れた手つきでシェイカーを振った。
僕は、この人がここに立つのを見るのが、この店で一番好きだった。決して疚しい意味ではなくて。マスターの動きをどこかなぞるように、丁寧に、優しく、カクテルを作り上げていく。そのときの彼が、純粋に、とても楽しそうに見えたから、好きだったのだ。
「はい、お待たせー。そっちのお姉さんも同じのだったよね? どうぞー」
彼の所作に見惚れている間に、隣には他の客が座っていたらしい。ちらりとその表情を窺う。少しだけ、熱に浮かされたその眼差しを見るに、彼女もどうやら彼に魅了されたひとりのようだ。
そうしてぼんやりとしていた僕の耳に、控えめなあくびが届く。その声の主は当然ながらにここのマスターで、思わず苦笑がもれた。
「ちょっとマスター? なに寝そうになってんスか……どーせなら手伝ってくださいよー」
焦れたのか拗ねたのか、バーテンダーの彼はソファの方へと呼びかける。彼が目を離した、その瞬間。隣の彼女が動いたのがわかった。
あ。この人、今「盛った」な。そう僕が察したことに、彼女もすぐ気がついたらしい。アイラインの引かれた強いまなじりにキッと睨まれてしまって、僕は口を噤むことしかできなかったのだけれど。そんなこちらを尻目に、彼女は艶のある声であの人を誘う。
「このギムレットは……あなたに飲んでほしいの。ね、素敵なバーテンダーさん?」
ここのバーテンダーが軟派な女好きなのは、常連どころか十七区の常識まである。彼女も御多分に洩れず、それを知っているらしい。にしたって大胆不敵にも程があるだろう、まさかバーテンダーに薬を盛るなんて!
僕がただ手をこまねいているうちに、彼女は案の定彼にカクテル——間違いなく怪しいオクスリの入った——を差し出す。
「え、マジ? オレが作ったやつだけど……お姉さんがそう言うなら」
一瞬だけきょとんとして、それからすぐににこりと微笑んだそのバーテンダーは、果たして例のギムレットに手を伸ばした。予想通りの展開に、僕は密かに焦り出す。さすがに、まずい。なんとかして止めなくちゃ、でも、どうやって?
僕が声を出そうとした、そのときだった。
「『ギムレットにはまだ早い』よ、由蛇?」
背後からひょいとそのカクテルグラスを持ち上げて、彼はそう囁いた。
「夜鷹さん、起きてたんスか……って、あー!? 飲……え!? 飲んだ!?」
「うん、ますます腕を上げたようだね」
「いや、嬉しいッスけどそうじゃなくて!」
「キミには、後で私が作ってあげよう。不満かい?」
「……オレが断らないって知ってて言うの、ズルいッスよ」
ほっとすればいいのか、ぽかんとすればいいのか。緊張感のない、普段通りのやりとりをする二人を、目を白黒させながら見つめる。
「お嬢さん、あなたにも。ギムレットは少し、飾り気が足りないかもしれないね……」
ブルームーンはどうかな。そう尋ねられた彼女は、当然に気まずそうな面持ちだった。明らかにバレている。無関係なはずの僕なのに、なぜだか少しだけ冷や汗をかいてしまった。
人は見かけによらないと言おうか、何と言おうか。この店のマスターは、思っていたよりもずっと、曲者なのかもしれない。
◇
「ほんっと、信じらんないんスけどー……」
閉店後の夢十夜に、由蛇の溜め息が落ちる。グラスを洗う手を止めて、夜鷹はふっと目線を上げた。じとりとこちらを睨む由蛇が可笑しくて、つい小さく笑いをこぼしてしまう。
「夜鷹さんだって、気づいてたでしょ。オレは……それなりに、薬物耐性もあるし。ほっといてくれてよかったのに」
いざとなったら袖口に捨てるスキルもありますよー、なんて明後日の方向に主張をする彼は、どうも本当にこちらの意図がわからないらしかった。
「薬物耐性なら、私にもあるみたいだ。ほら、今のところ、なんともないよ」
「いや、遅効性かもでしょ。あんた、変なとこで大胆スよね」
はーい掃除おわり、と元気よくモップを手放して、由蛇はソファにごろりと転がる。近頃の彼は、以前よりも率直な言動が増えたように思う。そのことが、夜鷹には何となく、とても嬉しいことのように映った。
「せっかくキミが作ったものを飲まないのは、もったいないと思ってね。それに——」
それに? と首を傾げる由蛇は、どこか幼く見えた。この数年で知り合った彼の、幼い頃など知るわけもないのに、その仕草はどことなく懐かしい。
——私にも、キミのことを心配させてほしい、と思うのは、私のわがままかな。
そう続けたら、彼はどんな反応を見せてくれるのだろうか?